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好意と自覚(1)

「須田さんね、午前中に撮ってきてもらったレントゲン、見たところでは肺に残ってる血の吸収がちょっと遅いようですけど、もう少し様子を見て問題ない程度なら週明けには退院できると思いますから。その後は自宅療養ということでいいでしょう。無理のない範囲で普通に生活して構いませんから」


 回診に来た担当医はカルテをめくって目を通すと、快復の経過に満足げな様子でにこやかにそう言った。後ろにいる他の3人の医師たちも担当医の説明に頷いている。


 ベッドの上で体を起こして話を聞いていた俺は、「分かりました」とだけ答えて後は黙っていた。


 病室内の患者全員の元を回り終えると、医師たちは連れ立って隣の病室に移動していった。何冊ものカルテを積んだラックが看護師に押されて後に続く。


 白衣姿の一団を見送りつつ、俺は不快感に眉をしかめた。医者に対してではない。抑えがたい自分の感情に対する苦々しさだ。事故に遭ってからこのかた、もう何度同じ心境になったことか。退院の見通しを聞いた今も、焦りとも憤りともつかない苛立ちが再び滲み出すように湧き始め、みぞおちの辺りを重苦しくしていた。


 日常生活に支障なく復帰できるというのは喜ばしいことだ。それは勿論分かる――だが何よりも自分にとって重要なのは、退院した後、航空身体検査に通るのか通らないのか、戦闘機に乗り続けることができるのかできないのか、「F転」として輸送機や救難機に機種転換することになるのか――とにかく知りたいのはその点なのだ。


 しかし、航身検の指定機関でもない病院の医師に訊ねても確答は得られないことは、今はもう承知していた。たとえ一般の医師から何かしらの見解が示されたとしても、退院してから自衛隊の専門医官の診察と評価を受けないことには身の振りようがないのだ。だが、そのことを理解してはいても、一時も早く白黒はっきりさせたいという焦りに似た気持ちは(とど)められなかった。


 ――いや、悶々としても(せん)ないことだ。


 入院してから幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉を改めて繰り返す。気分を切り替えるためにまたひたすら院内を歩いてこようかとベッドを下りかけ、傍らのキャビネットの上に目が留まった。昨日言葉を交わした彼女――ハルカさんから譲り受けた生け花だ。昨日まではふっくらと膨らんだ蕾の状態で枝についていた花が、今は丸みのある数枚の花弁を広げかけていた。薄桃色の優しい色合いの花びらはまだ完全に開ききらず、互いに触れるか触れないかで重なり合っている。まるで周囲の空気を柔らかく孕んでいるようだった。花の下からは初々しい黄緑色の小さな葉が覗き、花の淡い色を引き立たせている。


 主張のない穏やかな色彩に目を当てているうちに、自然と小さく息が漏れた。そこではたと気づく。知らず知らずのうちに奥歯を噛みしめ眉根を寄せたままでいたようだ。今度は意識してゆっくりと長く息を吐き出してみる。肩の力みが抜け、硬直していた気持ちが少し(ほぐ)れた気がした。


 焦燥感と苛立ちにささくれ立った感情がこのまま収まってくれるといい――そう思って小さな花器に活けられたものをしばらく眺めていたが、ふと気になって手を伸ばした。


 細い枝のところどころで綻びはじめた蕾とは逆に、花瓶の口元に彩りを添えている菊に似た花は幾分俯き加減になっているように思えた。花の部分にごく軽く触れてみる。キャビネットの上に黄色い花粉がぱらぱらと落ちた。


 弱ってきているのだろうか……一度新しい水に替えてみるか……。


「こんにちは」


 快活な声が聞こえてきて、俺は目を上げた。

 見覚えのある大きな帆布のバッグを肩に掛け、挨拶と共に病室に入ってきたのはハルカさんだった。外は冷え込んでいるのか、厚手のダウンジャケットを着こんだ彼女の頬と鼻の頭にはほんのりと赤みが差している。


 半開きのままのカーテンの間から俺と目が合うと、彼女は人懐こい微笑みとともに会釈をよこした。同室の老人二人それぞれと気軽なやり取りを交わしてから、病室の奥で寝ている自分の祖父の元に向かったようだった。カーテンで仕切られているので当然向こうを眺めることはできなかったが、彼女が祖父に話しかけながらベッド回りの整頓をしていることが気配で窺えた。


 やがて、またスニーカーがリノリウムの床をひたひたと踏む足音が聞こえ、それがドア口の方に近づいてきたかと思うと、彼女がカーテンの向こうから顔を出した。手にしている背の高い花瓶には、俺が貰ったものと同じ枝と花が賑やかに活けられていた。


「須田さん、失礼します――お花、水切りさせてもらってもいいですか?」

「あ……すいません、お願いします」


 まさか声を掛けられるとは思ってもいなかったために幾分狼狽したものの、俺はキャビネットの上から花瓶を手に取って立ち上がり、カーテンの外で待っている彼女に渡した。


「元気がなくなってしまった感じに見えたので、水を替えてみようと思っていたところだったんですが……」


 そう告げると、彼女は少し驚いた顔になって俺を見上げた。


「ありがとうございます、気にしてくださって――。病院の中は暖かいから、花の持ちがどうしても短くなっちゃうんです。でも水切りすればまたしゃんとすると思いますから」


 笑顔でそう言うと、彼女は先に持っていた花瓶を足元に置いてから、視線を手元の小菊に移した。手のひらで包み込むようにして花の部分をそっと(すく)い、手に受ける感触で茎の張りを確かめている。「水揚げがうまくいかなかったかな……」と(ひと)()ちながら慈しむように触れるその手つきが、なぜか印象深く目に映った。


 無言で束の間じっと彼女の手を見つめていた自分にはっとして、俺は取り繕うつもりで話を振った。


「頂いたこの花、名前は何て言うんですか――こういったものにはまるで(うと)くて」

「この薄紫の花は紫苑(シオン)で、枝のものは木瓜(ボケ)って言います――ボケなんて、こんなに綺麗なのに何だか可哀想な名前で」


 彼女は枝に咲いた薄桃色の花を苦笑と愛情の混じった眼差しで眺めてそう言い、目を上げて俺を見た。深い慈愛が滲んだ笑みを向けられ、我知らずどきりとする。それは花への情であって、自分に対するものではないと分かってはいたが……。


「じゃあ、ちょっと手入れしてきますね」


 朗らかにそう言って、彼女は足元に置いていたもうひとつの花瓶を取り上げた。身を屈めた彼女の首筋がデニム地のシャツの襟首から覗いた。ほっそりしているがしなやかで健康的に見えるそのうなじに、括り忘れられた一筋の後れ毛がかかっている。それはまるで些細なことには頓着しないおおらかさと無邪気さのようにも見えた。


 彼女が両手に花瓶を持って病室を出て行くと、俺はベッドの上に戻ってきつく腕を組み宙を睨んだ。胸の傷が腕に押さえられて痛んだが、そんなことは構いもしなかった。


 微笑んだ彼女に見上げられた時の、心臓が一度大きく打ったその感覚がまだはっきりと胸に残っている。


 俺は彼女に対して特別な感情を抱き始めているのだろうか――シーツにできた皺を無意味に目でなぞりながら考え込む――確かに、好感は持っているかもしれない。彼女の若さや性格のためか、時折窺い見える、ある意味幼さとも拙さとも感じられる言動も不愉快に思うことはなかった。むしろ、気負うところのない純朴さとして好ましいとさえ感じている。常々物事を批判的に捉えがちな自分にしては意外なことだ。


 そして今は、彼女が花の手入れを終えてまた戻ってくるのを待っている。ほんの短い交流をささやかな楽しみにしている。ここ数年来、異性と接する機会がない訳ではなかったのだが、取り立てて誰かに対してそんな気持ちを(いだ)いたことはなかった。


 つい先ほどまで自分の前に立っていた彼女を頭の中に思い浮かべる――手にした花を見る優しげな眼差し。葉や花弁に触れた時の、いとおしむような手つき。屈託のない穏やかな笑顔。温かみを感じさせる雰囲気に、ふと手を伸ばしてそっと抱き寄せてみたくなるような……。


 取り留めなく思い巡らせていた俺は、急に頬が火照るのを感じた。


 ――柄でもない。どこまで妄想を膨らませるつもりだ。社交上の親切心を少しばかり受けたからといって、ただそれだけのことで相手に好意を持つとは、軽々しいにも程がある。何より彼女に対して失礼極まりない。


 更にきつく眉を寄せ、都合よく想像を広げてしまった自分を戒める。

 だが、彼女を好ましい存在として見ている事をいったん自覚してしまった今、何とかして平常心を取り戻そうとしてもなかなか動揺は収まらなかった。


 じっと座り込んだまま、落ち着かない自分に対して苦り切り、胸の内で舌打ちする――その時、廊下を歩いてくる足音と話し声とがドア口から聞こえてきた。


「おっ、ここだここだ――須田先輩、失礼します」


 聞き知った声に視線を転じると、カーテンの間から顔を覗かせたのは後輩のイナゾーだった。その後ろにはアディーの姿もあった。


「先輩、見舞いに来ましたよ。体の具合はどうですか?」


 俺がベッドの上で起きているのを見て案外元気そうだと思ったのか、イナゾーはいつもどおりの真正直な明るい顔でにこにこしている。だが隣のアディーは俺を見るなり僅かに眉を(ひそ)め、躊躇いがちに口を開いた。


「怪我の方も心配して来ましたけど――先輩、大丈夫ですか、少し顔が赤い気が……。もしかして熱でもありますか? ご迷惑だったらすぐ帰りますが……」


 真面目な面持(おもも)ちで気を回すアディーの言葉に、俺は内心ぐっと息を詰まらせた。冷や汗が滲みそうになる。


 フライトをしていても感じることだが、アディーは感覚的に鋭敏なものを持っている。一種のセンスだ。恐らくその能力は、本人も気づかない無意識のもとでの観察眼や物事の認識力、把握力といったものに()るところがあるのだろう。しかしそれをこんな()の悪い時に発揮されるとは思わなかった。


「いや、大丈夫だ、熱はない――とりあえず座れよ」


 俺は動揺を悟られまいとどうにか平静を装い、ふたりの後輩に椅子を勧めた。




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