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ささやかな貰い物

 ピピピ、ピピピ……。


 時間を知らせるアラームが枕元で小さく鳴りはじめた。セットしておいた腕時計のタイマーだ。同部屋患者の迷惑にならないようにすぐさま音を止めると、俺はベッドを下りて洗面所に向かった。コインランドリーの乾燥機にかけておいた洗濯物が仕上がっているはずだった。


 夕方6時近くなったこの時間、日没もとうに過ぎ、廊下の窓の外は真っ暗だった。仕事帰りの見舞客の訪問を受けている患者が多いのか、どの病室からも抑え気味の話し声が漏れている。


 病棟の端にある、コインランドリーの置かれた洗面所はひっそりとしていた。回しておいた乾燥機は完全に沈黙している。洗濯物は家族に持ち帰ってもらう患者が多いのだろう、一台しかない洗濯機はあまり使われている感じがなく、この後に誰かが順番待ちをしている様子もなかった。


 ドラムの中から乾いた衣類を引き出して袋に取り込む。手術した側の左腕はまだ肩より高くは上げられず、打撲した右腕も、上げ下げという単純な動作だけで痛んだ。服を着替える際によくよく見た時には、肩から上腕にかけて広い範囲で気味悪く思うほど赤黒く変色して腫れていた。転倒した際の衝撃は相当のものだったようだ。


 リバーは気を遣って「無理するな。遠慮なく頼ってくれ」と洗濯まで引き受けるつもりでいてくれたが、俺も動けない訳ではないので頼りきるのも心苦しい。今日からは院内を普通に歩き回っても構わないという許可も得たので――とは言え、どうやら俺の「普通」は一般的な感覚と少し違うようで、看護師からは苦笑とともに「でも階段を何往復もするのは退院してからですよ」と釘を刺されたが――できることは極力自分でやるつもりだった。


 廊下を戻ってゆくと、自分の病室から人の声がするのに気がついた。


「ハルカちゃんが来るど、気分も良ぐなる気がするよ。なぁ?」

「ほんどにそうよ。皺だらげの顔のうぢのかみさんが来だっで、今ひどづ張り合いがねぇもんだ」


 同部屋の老人たちの賑やかな会話が外まで聞こえている。その言葉にクスクスと笑う声が重なり、「根岸さん、奥さんと仲良しなのにそんなこと言って。今のは聞かなかったことにしておきますよ」と冗談めかして(たしな)める若い女の声も耳に入ってきた。同時にドア口に人の気配がして、部屋に入ろうとしていた俺は足を止めたのだが――。


「わっ……!」


 出て来た人物が真面(まとも)に俺にぶつかった。

 相手の頭がまさに手術箇所を直撃し、俺は思わず呻いて肩を(すぼ)めた。


「すみません! 大丈夫ですか!?」


 焦った声が上がる。相手は会話に気を取られて余所見(よそみ)をしていたようだ。咄嗟に手が差し出され、俺を支えようとする。その手には和の花が活けられた花瓶と、蕾のついた枝や花を新聞紙で(くる)んだものが握られていた。


 俺は既視感を覚えて顔を上げ――目を瞠った。


 額にかかる短めの前髪と、明るく優しげな目元が印象深い女性――昨日、廊下で具合が悪くなった時に声をかけてきた娘だった。彼女も俺に気づいて「あっ」と声を漏らし驚きを見せたが、すぐに俺の胸元に目を走らせ恐る恐る訊ねてきた。


「あの……本当にごめんなさい。もしかして傷口に当たりましたか……?」

「いえ、大丈夫です、ご心配なく――。昨日はご親切にありがとうございました」


 俺がそう言うと、彼女は見るからにほっとした顔になった。表情を和ませて首を横に振り、改めて口を開く。


「それにしても、まさか同じ病室だったなんて――私の祖父がこの部屋で……この、左側の窓際のベッドなんです」


 同室の患者は向かいの老人ふたりの他に、俺と同じ並びにもう一人いることは知っていた。看護師の対応や呼びかけの感じから、寝たきりで会話もままならない状態の患者なのだろうと察してはいたのだが、彼女がその家族だとは考えもしなかった。


 小柄な娘は俺を見上げると、屈託のない笑顔になった。


豊崎(とよさき)です。どうぞよろしくお願いします」

「須田です――どうも、こちらこそ」


 快活な口調で挨拶をよこし、お辞儀した彼女につられて、俺も軽く頭を下げた。

 彼女がふと、自分が手にしているものに目を落とした。筒状に丸めた新聞紙の縁から、数本の枝と淡い色合いの小花が窮屈そうに覗いている。


「あの、もしよかったら……このお花、少し貰っていただけませんか? 持ってきたの、多すぎてしまって」

「いいんですか――じゃあ……」


 特に断る理由もなく、昨日せっかくの気遣いを突っぱねてしまった自分の態度も申し訳なく思っていたので、若干の償いの気持ちも交えてそう答えてみた。


 しかし、貰うと言っても花を活けるような入れ物がない。そのことを言い足すと、彼女は黒目勝ちの目をぱっちりと見開いて少し考えていたが、余っている花瓶がひとつ手元にあるからと請け合い、「後で持っていきますね」と笑顔で会釈してその場を離れた。


 何となく、俺はそのまま彼女の後ろ姿を見送っていた。

 彼女はすっかり勝手知ったるといった足取りで洗面所の方へと歩いてゆく。長さのある髪を頭の後ろで無造作にくるりと丸めて括り、袖をまくったチェック柄のシャツと、ゆったりめのカーゴパンツにスニーカーという、至って動きやすそうな格好だ。ズボンの後ろポケットから、ビニール袋と植木(ばさみ)の持ち手が見えていた。途中で看護師と出くわし、足を止めて親しげに挨拶を交わしている。


 ここに通うのは長いのかもしれない――そんなことを考えながら一時(いっとき)の間眺めていたが、部屋に入ろうとして振り返ると、同室の老人ふたりと目が合った。どちらも好奇心に満ちた眼差しで身を乗り出し、今にも声をかけてきそうな勢いだった。俺が彼女と話していたのがそんなに物珍しかったのだろうか。

 引き留められて根掘り葉掘り質問されるのも面倒だったので、俺は曖昧に目礼だけして自分のスペースに戻った。


 持ち帰ってきた洗濯物を片づけてしまうと後は特にやることもなく、ベッドに横になった――が、すぐに思い直してまた体を起こした。知り合ったばかりの若い娘に寝ている姿を見られるのは、たとえ入院中とはいえ気まずい。とは言え、起きて彼女が来るのをただ待っているというのも滑稽に見えることだろう。


 どうしていたらいいものかとベッド回りを見回して、もう既に隅々まで読みつくした今日の新聞をとりあえず広げてみた。


「須田さん――失礼します」


 しばらくしてカーテンの外から声がして、彼女が顔を覗かせた。丸みのある小振りの花器を掌で包むようにして持っている。器の高さに合わせて切り揃えられた枝が挿され、枝元に数本の花が控え目に添えられていた。


 俺がベッドの上にいるのを認めると、彼女は「お邪魔します」と小声で言いながら遠慮がちに入ってきた。彼女の動きとともに空気が僅かに揺らぎ、ふと、柔らかなにおいが鼻先に感じられた。花のせいではなく、香水の香りでもない。陽の光――今はもうすっかり日も暮れているというのに――太陽に温められた暖気を思い起こさせるような、心地よい香りだ……。


「ここに置いておきますね」


 彼女は慎重な手つきでキャビネットの上に花器を置くと、俺を見て照れくさそうな顔をした。


「花瓶、こんなのしかなくて。これ、自分で作ったものなんです。まだ始めたばかりで慣れなくて、(いびつ)なのがお恥ずかしいですけど……。うちではもう使わないので、こんなのでも良ければ使ってください」


 そう言ってから、「あっ、水が漏れたりすることはないので大丈夫ですから!」と慌てたように早口で付け加えた。


 いくら初心者の手作りだからと言って、水漏れするかもしれないなどとは疑いもしなかったのだが……そんなことにまで気を回して大急ぎで補足する様が微笑ましく思えた。


 俺が「すみません、ありがとうございます」と礼を言うと、彼女はにっこりと頷き、カーテンの外へと戻っていった。少し遅れて、ふわりと優しい残り()がまた微かに届いた。


 ――確か、老人たちは彼女のことを「ハルカちゃん」と呼んでいたな……豊崎ハルカ……どんな漢字を書くのだろう……。


 再びひとりきりになり、つい今しがたまで自分の前にいた相手について考えを巡らせながら、彼女が置いていったものに目を向ける。


 全体に白い釉薬がかかり、縦に(しのぎ)模様の入った、ぽってりとした手びねりの花器。

 もしかしたら手先はあまり器用ではないのかもしれない。不慣れなためもあるのか随分と厚みのある器は、確かにところどころ凹んでいたり、逆に膨らんでいたりしている。「まだ慣れていなくて歪ですけど」と言っていたことを考えると、きっと彼女は均一な形に作ろうとしていたのだろう。


 だが、その拙さがかえって素朴な風合いとなっていて好ましかった。薄桃色の蕾をつけた細い枝と、黄色い花芯に淡い紫色の花弁の、楚々とした一重咲きの小菊が器にしっくりと合っている。格式ばった生け花のように肩肘(かたひじ)張ったものではなく、庭先の季節感をそのまま花器に移しただけといった佇まいだった。キャビネットの隅に置かれた、ささやかな自然の一片。それだけでベッド回りの無機質で素っ気ない空間が不思議と和らいで見えた。


 左隣の方から話し声が漏れ聞こえてきた。彼女が自分の祖父に話しかけているのだった。

 それをカーテンを隔てたこの場所で聞くのは盗み聞きのようでどことなくやましい気がしたが、耳は意図せず彼女の小声を拾ってしまう。


「――おじいちゃん、今度ね、今までで一番大きい仕事を担当することになったんだ。施工例を見たお客さんからの指名だって!――ん? うん、そう! もうほんとに嬉しくて――」


 時折、彼女の言葉の合間に相槌らしき(しわが)れ声が挟まれる。俺には単なる唸り声としか取れなかったが、彼女は何度か聞き返しながらも受け答えして会話を続けている。


「それで今日ね、お宅に伺って打ち合わせも兼ねて敷地を見せてもらってきたの。そしたら今まで請け負ってきた中では一番の広さで! ここにどんな風に緑が茂るんだろうって想像したら、それだけでもうワクワクしちゃって――」


 周囲に配慮して声の大きさを努めて抑えてはいるのだろうが、それでも、彼女の声音が嬉しさにうわずっていることはよく分かった。溌剌と目を輝かせて寝たきりの祖父に報告している姿が容易に想像できた。


 耳に入ってくる話から察するに、どうやら何か植物に関係する仕事をしているらしい。そう考えると、準備よく植木鋏まで病院に持参していたのも頷ける。祖父相手に話を続ける弾んだ声を聞いているだけでも、彼女がどれほど自分の仕事にやりがいと楽しさを感じているかが伝わってきた。


 改めてキャビネットの上に目を向ける。

 俺は彼女を深く知る訳ではない。まだほんの数回言葉を交わしただけだ――だが、温かみのある手作りの花器や、そこに活けられた花や小枝が感じさせる純朴な(おもむき)は、彼女の人柄を映しているようにも思えた。


「――そうそう、今年はね、蓮根(れんこん)の育ちが特に良くて立派なのが出荷できるって、お父さんが喜んでたよ――うん、もう年末が近くなってきたから、みんな総出で収穫にあたってる――」


 カーテンの向こうでは、生き生きと語る小さな声が続いている。


 俺は形ばかりに広げていた新聞をそっとたたみ、ベッドに体を横たえた。こぢんまりとした生け花を寝たまま見上げてみる。

 華やかさは微塵もない、いつの間にか庭の片隅で咲いているような風情の花。それにもかかわらず、その存在だけで、何の温もりもない場の雰囲気がこうも穏やかなものに変わるものなのか……。


 考えてみると、こんなにも落ち着いた気分になったのは本当に久方ぶりのような気がした。




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