通りすがりの娘
体を悪くするというのは、予想以上に不自由なものだった。
これまで特に大きな不調を来したこともなく健康体で過ごしてきたが、こういう状況に陥って初めて、何気なく動ける日常がいかに貴重なものだったのかを痛感させられる。
いつもなら無意識にやっているようなちょっとした動作にも困難を伴った。体を起こすにも寝返りを打つにも、腕を伸ばして近くのものを取ろうとするだけでもいちいち痛みが走り、傷の存在を主張する。軽い咳払いでも胸に響くほどで、看護師からは傷口を押さえてそっと咳をするように指示を受けた。
何をするにも時間がかかり、思うように事を進められない自分に苛立ちを覚える。殺伐とした気分を紛らわす手段もないまま、あてがわれた狭い空間の中で一日が過ぎてゆくのをただ待つしかないのは苦痛の一言だった。
「――須田さん、もし頑張れるようならちょっと歩く訓練をしてみましょうか」
看護師にそう声を掛けられたのは、昼食を終えてまた長い退屈な時を過ごしていた午後のことだった。
歩き回れるなら少しは気晴らしにもなるだろうし、同室の老人二人の世間話を耳に入れずに済むのは確かにありがたい。だが、手術してまだそこまで日が経たないのに安静にしていなくていいのだろうか――。
その戸惑いが顔に出たのだろう、中年の看護師は慣れた口調で続けた。
「動いた方が傷口が癒着せずに済むし、体力が落ちるのを少しでも防ぐためにも、患者さんには術後の早いうちから動くようにしてもらっているんですよ。歩けそうですか?」
看護師が見守る中で慎重に起き上がって体をずらし、ベッドの端に腰掛けた。リバーが用意しておいてくれたサンダルに足を入れ、そっと立ち上がってみる。上半身の些細な動きに痛みを覚えることもあったが、体を捻ったりしなければ歩行に支障はなさそうだった。むしろ、転倒した際に路面に強打した腰や右足の方が厄介に思えた。一歩踏み出し体重がかかる度、軋むように痛んだ。
病室を出てごくゆっくりと廊下を歩いてみる。すぐ隣で付き添う看護師が頻繁に励ましの声を掛けてくれるのだが、それがかえって気詰まりで仕方なかった。放っておいてほしいという言外の意味を込めて、一人でも問題はなさそうなことを伝えると、看護師は「無理のない程度で、廊下の突き当りくらいまで行ったら戻ってくるように」と注意を添えて離れていった。
壁伝いに取り付けられた手すりを時折支えにしながら、嫌気がさすほど遅いペースで廊下を進んだ。見舞客が現れては自分の横を足早に通り過ぎてゆく様を恨めしく見送る。
ふと、看護師が言っていたことを思い出す――体力が落ちるのを防ぐために手術後すぐから動くことが推奨されているなら、積極的に歩き回っても差し支えはないだろう。時間は腐るほどあることだし、売店に新聞でも買いに行きがてら毎日歩いたとしたら、いいリハビリになるに違いない。
一日でも早く日常に復帰したい一心で、俺はすぐに――と言ってもやはり遅々とした歩調ではあったが病室に引き返した。
備え付けのキャビネットにしまっておいた巾着を取り出す。リバーが渡してくれたものだ。貰った後に確認してみたが、中には小銭や千円札で一万円近くも入っていた。
先輩の心遣いに改めて感謝しつつ、巾着を持ってエレベーターホールに向かった。案内板を見ると、自分のいる病棟はどうやら五階のようだった。大体どの病院もそうであるように、ここも一階が外来になっている。緊急脱出したリバーが搬送され入院していた病院でもあり何度か見舞いに訪れたこともあったので、外来の様子は大方把握していた。確か売店も下のどこかにあったはずだ。
五階分を毎日何往復か上がり下りして吸気を増やせば、穴が開いてしぼんだ肺も少しは鍛えられて戻りも早いだろう――そう考えてエレベーターの前を素通りし、その脇にある階段に足を向けた。
薄暗く人気のない空間に、パタ……パタ……と不規則なサンダルの音が反響する。いつもなら階段などは一息に駆け下りるところだが、一段下に足を踏み出す度に手術した箇所に響いた。打撲した右半身が痛むこともあって、一歩、また一歩……といった具合で予想以上に時間がかかる。それでも、暇つぶしとリハビリのためと自分に言い聞かせ、根気強く下りていった。
無意識に受傷部位を庇って普段とは違った体の動かし方をするせいか、一階にたどり着く頃にはさすがに疲れを感じ始めていた。
一度休憩を入れようと、待合室の隅のソファーに腰を下ろす。
午後の診療が始まっているためにロビーは混雑していた。
覚束ない手つきで受付機に診察券を入れようとしている老人、不慣れな様子であちこち見回しながら事務員を呼び止める中年の女性、額に冷却シートを貼った赤ん坊を負ぶった母親……先を急ぐように診察室に向かう人、書類の入ったクリアファイルを会計窓口に出す人……診察を嫌がってぐずる子どもの泣き声、順番の来た人を呼び出す院内放送……。
雑然とした雰囲気の中を行き交う人々の様子を、俺はしばらくぼんやりと眺めていた。
ここを訪れている人の多くは、どこかしらに体調の不良を抱えている。単に流行りの風邪や加齢に応じた不調といった、言ってみればありふれた症状で受診する人たちの一方で、命にかかわるような重篤な疾患を抱えている人もいることだろう。
それでも、傍目には深刻さの度合いは分からない。皆、たまたま同じ場所に居合わせただけの他人の病状を探ることもなく、無表情で辛抱強く長い待ち時間に耐えている。
この中に、人生を左右しかねない事態に直面している人が一体どれ程いるのだろうか……彼らは意気消沈して日々を過ごしているのだろうか、それとも気持ちを持ち直して前向きに考えようとしているのだろうか……。
とりとめもなく考えを巡らせながら、ふと、リバーのことを思い出す。
F-15の機体トラブルにより緊急脱出し、その際の衝撃で腰を痛めて操縦資格を失ったリバー。自分がもう2度と操縦桿を握れないと悟った時、いったいどんな心境だったのか――。
先輩に訊ねたとしてもきっと、「まあでも、あの時は生きて戻れただけでもラッキーな状況だったからなぁ」と、困ったような笑みを浮かべて曖昧に答えるだけだろう。だが、頓着のない態度であったとしても、それは周囲に気を遣わせまいとするあの先輩らしい配慮であろうし、自分が置かれた現実を受け入れるまでには地団太を踏み大声で叫びたくなるようなやり場のない憤りや様々な葛藤が当然あったはずだ。
そんな苦しい煩悶の時期をリバーが乗り越えることができたのは、恐らく、糟糠の妻である聡子さんの存在も大きかったのではないかと思う。飲みの席などで奥さんの話題が出る度に、リバーは必ず「嫁には色々と苦労をかけている、いつも感謝している」としみじみとした面持ちで口にしていた。どんな時にも互いを思いやり、支え合い、補い合いながら常に二人三脚で歩んできたことが窺える夫婦仲だった。だからこそあの事故でウイングマークを失った後でさえ、リバーは明朗さを無くすことがなかったのだろう。
翻って考えると……俺はこれまで自分以外の誰かに依る生き方をしてこなかった。心の支えになるような存在が現れたことはなく、もとより、そういった存在を欲したこともなかった。
だから俺は――待合ソファーから腰を上げ、胸の中で言い聞かせるように呟く――今後、万が一操縦職に復帰できなくなったとしたら、その時には自分ひとりで気持ちに整理をつけ、事態を乗り切らなければならない。熟考し、最善と思われる選択をし、後は行動し努力する――その一連の過程で他人を頼る必要はない。これまでもずっと繰り返し行ってきた単純な問題処理方法だ。今回の件にあたっても特別に難しいことではないはずだ……。
混み合うロビーを通り抜け、売店で新聞を三紙ほど買い求めると、再び階段を使って病棟まで上がっていった。
普段とは比べ物にならないほどの時間をかけて足を運んでいるにもかかわらず、二階あたりに来た時には既に酷く息切れしていた。思っていた以上に体に負担がかかっているのが分かる。息を吸ってもうまく酸素が取り込めないような感覚だ。心臓が激しく打ち、胸全体が締め付けられるように痛む。あと少しだからと体を騙し騙しして、外科病棟となっている階までどうにかたどり着いた。
やはりいきなり負荷をかけすぎたか……病室に戻ったらしばらく安静にしていよう――若干の反省混じりに、疲労感に重くなった足を引きずるようにしてエレベーターの脇を通り過ぎる。
長い廊下の突き当りの窓からは傾きはじめた午後の陽が差し込み、ワックスのかけられた床を鈍く光らせていた。病室から出てきた見舞客や忙しそうに歩き回る看護師の姿が光を受けてシルエットになって見えていた。
この廊下を中ほどまで行けば自分の病室にたどり着く――そう考えて幾分ほっとした心持ちになった時だった。
突然、左胸に鋭い痛みを感じて思わず体を硬直させた。息を吸おうにも吐こうにも、胸が僅かに動くだけで突き刺すような激痛が走る。
目が眩み、膝から力が抜けそうになる。しゃがみ込むことは辛うじて堪えたが、身動きが取れない。前屈みで喘ぎながら手すりを固く握りしめる。強張った手から新聞が滑り、音を立てて床に落ちた。
「あの……どうしました?」
不意にすぐ近くで声がした。痛みに顔を歪ませながら薄く目を開ける。
視界の隅に、無機質な病院の中では見慣れないものを捉えた。鮮やかな色彩が見える――細い枝についた紫色の小さな実、黄色く色づいた葉、菊に似た臙脂色の小花……。
息を詰まらせたままようやく顔を上げると、やけに大きく重そうなトートバッグを肩に掛けた若い女が心配そうにこちらを窺っていた。新聞紙に包んだ数本の花卉を手にしている。今しがたすれ違った相手だった。
彼女は俺を遠慮がちに覗き込んで訊ねた。
「どこか具合が――?」
「いえ……大丈夫です」
咄嗟にそう答えた俺を前にして、彼女は困惑したように目を瞠った。胸元を強く押さえて脂汗を浮かべた人間を見れば、確かに言葉どおりには受け取れないだろう。
ためらいを見せながらも、彼女は言葉を続けた。
「看護師さん、呼んできましょうか」
幸いにも痛みは引きつつあったので、俺は静かに息を吐きながらゆっくりと上体を戻してみた。病室には自力で戻れそうだ。助けが必要なほどではない。
「いえ、本当に大丈夫ですから。お気遣いありがとうございます」
丁重に断ったつもりだったが、彼女は気圧されたように俺を見上げて口を噤んだ。僅かな間どうしたらよいかと迷っている様子だったが、はっとした顔で唐突に足元に屈みこみ、落ちたままの新聞を拾い集めると緊張気味に俺に差し出した。
「どうぞお大事に……」
おずおずと会釈して彼女は踵を返した。立ち去りながら、それでもまだ心配そうに一度こちらを振り向きかけたものの、俺が見ていると分かったのか慌てたように顔を戻し、廊下の角を曲がって帰っていった。
――怖がらせてしまっただろうか……。
突然の激痛で余裕がなかったとはいえ、威圧的な印象を与えてしまったに違いなかった。俺はただでさえ目つきが悪いと言われることが多い。他人に気を遣われるのも苦手だ。だからどうしても素っ気ない口調になってしまう。
痛みが完全に治まるのを待ちながら、もう一度思い起こしてみた――二十を少し越したくらいか、ぱっと見た印象では飾り気がなく気取った感じもない娘だった。せっかく心配して声をかけてくれただろうに、悪いことをしてしまった……。
疲れた足取りでナースステーションの前に差し掛かると、ちょうど窓口のところにいた看護師長が顔を上げた。俺が持っている新聞と巾着を目敏く見咎める。
「もしかして……須田さん、まさか下の売店まで行ってきたの!? 歩くのは大事だけど、いきなり売店まではさすがに無茶しすぎ! 自衛隊の訓練じゃないんですから!」
呆れたように叱られ、おとなしくベッドに戻った。せっかく買った新聞も、目を通す気力が湧かずにキャビネットの上にとりあえず置く。
ついさっきの廊下での出来事が後味悪く思い出された。優しい心遣いを結果的に無下にしてしまった自分の対応を、今更ながらに気まずく思う。
ベッドに体を沈めて目を閉じる――先刻自分に向けられていた、見るからに穏やかそうな眼差しと、労わりの滲んだ声音と、躊躇しながら離れて行く後ろ姿とが繰り返し浮かんできた。
同時に、彼女が手にしていた素朴な花や枝についた実の、秋を感じさせる深みのある色合いが不思議と目に残り――それが短く言葉を交わしただけの相手の姿と重なり合って、なぜかいつまでも心に留まっていた。