面会人
夕食時が過ぎても、病室には消毒薬や湿布といった薬剤のにおいに混じって料理のにおいがまだ残っていた。苦労して起き上がり、食事を終えるのにだいぶ時間がかかったにもかかわらず、それからしばらく経った今も下膳係は一向に回ってこなかった。サイドテーブルにはトレーが残されたままだ。
半分ほど閉めたカーテンの向こうでは、同室の老人二人がまるで世間話でもするような気楽さで自分たちの病状を述べ合っている。とは言っても、それぞれ自分の話したいことだけを喋っているために完全に一方通行な会話なのだが、双方まったく気にしていない。
廊下を挟んで病室の反対側にあるナースステーションからは、呼び出しを知らせるメロディー音が頻繁に聞こえてくる。
否応なしに耳に入ってくる雑音に辟易しながら、俺は大部屋の一角のベッドに横たわって天井を睨んでいた。昨日、ようやく一般病棟へ移されたのだった。
集中治療室で取り乱し、一時的に不穏状態に陥ったことは覚えていた。その時には鎮静剤か何かで強制的に眠らされたらしい。
次に目が覚めた時、俺の様子が落ち着いたことを確認した医師は怪我の状態の説明を始めた。
折れた肋骨は2本だけだったが肺に刺さっていたこと、出血量が多く血胸を起こしており、呼吸不全も伴っていたので緊急手術を行ったこと、CTやレントゲンの画像を見る限りでは脳や他の臓器等に損傷は認められないこと、他の所見は右肩や腰の打撲程度――平易な言葉で簡略に説明してくれたのだが、俺としては現状よりもとにかくその後のことが知りたかった。
快復までにどの程度かかるのか、何らかの後遺症は考えられるのか、何より、これまでどおり仕事に復帰できるのか――その見込みを問いただした。
医師は俺に職業を訊ね、戦闘機パイロットであると聞くと困惑したような難しい顔つきになって黙り込んだ。その反応を見ただけでも楽観的な答えが望めないことは明白だった。
案の定、医師は『今の状況ではまだ確定的なことは判断できないので、経過をしっかり見ていきましょう』とだけ答えて明言を避けたのだった。
予想はしていたものの、結局のところ医師の説明を受けても、気持ちが軽くなることも不安が晴れることもなかった。操縦資格を失うことになるかもしれないという危惧が頭から離れることはなく、執拗に気分を煩わせた。カーテンに囲われた狭い空間の中で、遣る方ない思いに悶々としながら無為に時間をやり過ごすしかなかった。
「――英輝」
不意に低い小声が俺の名を呼んだ。
一瞬、息を詰めて身構える。
親の希望が詰め込まれている、未だに好きになれない名前――そしてそれを口にした聞き覚えのある声。
俺はゆっくりと天井から目を移した。
半開きになったカーテンの横に、仕立ての良さが分かるスーツを着こんでブリーフケースを下げた客が立っていた。整髪料で乱れなく整えられた髪にはずいぶん白いものも混じっている。細縁眼鏡の奥の神経質そうな目が俺を見下ろしていた。
十数年近くも会っていなかった父親だった。
「事故を起こしたと連絡を受けたが――」
久方ぶりの再会であるにもかかわらず特段の感懐を態度に表すこともなく、父親は開口一番そう切り出した。その硬い表情と口ぶりで、何を一番気にしているのかはすぐに察せられた。
俺は吐き出した息と共に教えてやった。
「俺ひとりの単独事故だ。相手はいない」
「そうか、それなら不幸中の幸いだったな」
俺に対して言ったのか自分に向かって言ったのか、父親はそう口の中で呟いてからようやくカーテンの内側に身を入れた。そしてベッドの足元の方に立ったまま「怪我の具合は」と訊ねた。
「肋骨を少し痛めただけだから、すぐに退院できる」
「そうか……。まあ、大事にならずに何よりだ――これは母さんから」
父親はブリーフケースとは別に手に提げていた大きな紙袋を傍らの丸椅子の上に置いた。花籠なのか、洒落た袋の中から色鮮やかな花があふれんばかりに覗いている。
「これからまだ仕事だから、もう行くぞ」
椅子に腰を落ち着けることもなく、最後に「大事にな」と定型的に付け足すと、父親は踵を返してカーテンの間から出て行った。
革靴で床を踏む硬い音が次第に遠のいていった。その、ひたすら先を急ぐような歩調の靴音が廊下の奥に消え、完全に耳に届かなくなると、俺は長くゆっくりと息をついた。
――今さら顔を合わせても気詰まりなだけだ。
椅子の上に置かれたままの紙袋に目をやる。場違いなほど大ぶりなアレンジメントだった。袋から出すまでもなく、バラやカーネーション、ガーベラなどが贅沢に使われているのが見えた。その鮮やかすぎる色合いに、久しく忘れていた実家の記憶が蘇ってくる。
役所の関係者だとか大学のお偉方だとかが頻繁に訪れるために、家の玄関や応接間には常に見栄えのする豪華な花がこれ見よがしに飾られていた。花を生けている花瓶も、藍や赤、金粉をふんだんに使って色鮮やかに絵付けされた磁器のものや、有名な窯元のものばかりで、どれも相当高価な品だったはずだ。
中でも特に、繊細なカットが一面に施されたクリスタルガラスの花瓶は母親の自慢であり、子どもだった俺自身も透明感のある澄んだ輝きに目を引かれてよく見入ったものだった。窓辺から差し込む陽を受けて床に七色の光を散らせる様を飽きずに眺め、その光の中に手を差し出してみては、自分の掌に落ちた虹色の揺らめきに時間を忘れて見とれていた。
しかし、年齢が上がるとともにそんな無邪気な心は失くしていった。
両親は3人の息子に対して、自分たちや親族と比しても遜色のないレベルの学歴や社会的地位を得ることを当然のように求めていた。そのことを強く意識すると同時に反発を感じ始めた頃から、家の中のそこかしこに、虚栄と権威の誇示が現われているように思えてならなくなった。
見るからに高級であることが分かる調度品の数々、革張りのソファーに深く腰掛けて客人と談笑する父親の勿体をつけたような口ぶり、名の知れた海外老舗ブランドの茶器で客をもてなす母親の気取った微笑み、自分たちは間違いなく有産階級であり社会の上位者であるという自任が覗く会話……何もかもが気に障って仕方なかった。
そして極めつけがあのひと言だ。
高校に入学してすぐの頃、自衛隊に入って戦闘機に乗りたいと言った俺に、父親は冷然とした眼差しを向けて心底厭わし気に言い放った――『お前が自衛官になったら家の恥だ』と。
「――ジッパー、入るぞ」
花に視線を当てたまま無意識に暗い記憶を遡っていた俺は、我に返って目を転じた。
リバーが両手に袋を抱えてカーテンの隙間から入って来た。足元に荷物を下ろし、空いている丸椅子を引き寄せて腰掛けたが、気まずそうな顔になって俺を見た。
「すまん……話、ちょっと聞いた。何ならひと言挨拶しようと思ったんだけどな――」
さすがに場の空気を察して控えたのだろう。
今しがたの父親との短いやり取りを思い出し、俺は溜息と共に首を横に振った。
「いえ、気にしないでください。うちは昔からああいう感じですから」
リバーは眉根を寄せて無言で頷くと、隣の椅子に置かれたままの見舞い品をしげしげと見やった。
「それにしても立派な花だなぁ――これ、どうする? 出して飾ろうか?」
体を動かすのに不自由だろうからと、気を利かせてそう言ってくれたのだということは分かった。だが、親との軋轢を象徴するような華美な花が四六時中視界に入ればなおさら気が滅入るだけだ。
後で適当に処分するつもりで、アレンジメントはそのままにしておいてもらった。
「――そうそう、今日はこれを渡しておこうと思ってな……」
気を取り直した口調でそう言って自分のショルダーバッグの中を探っていたリバーは、重みがありそうな巾着を取り出した。
「巾着って、入院してると結構便利に使えるんだよ。検査に行く時とか貴重品を入れて持ち歩けるし、細々したものをまとめて入れておくこともできるし。ここに幾らか小銭も入れといたから、細かいものが必要になった時に使ってくれ」
金銭的なことまで気を配ってもらうのは心苦しく思って遠慮したが、リバーは「いいからいいから」と押し切ると、今度は足元に置いた袋を手にした。
「こっちは下着類にタオルに、洗面道具とかサンダルとかな。服とタオルはとりあえず全部水通ししてあるから、すぐ使って大丈夫だぞ――ここ、入れとくな。洗濯物は適当に袋に入れといてくれ。次の時に持って帰って洗ってくるから」
身を屈めてベッド脇のキャビネットの中に袋ごと衣類をしまっているリバーの背中に、俺は恐縮して声をかけた。
「いや、先輩、大丈夫です。コインランドリーがあるはずですし、洗濯くらいは自分でできますから……」
さすがにそこまで迷惑をかけるのは気が引ける。断ろうとすると、リバーは体を起こし改まった態度でこちらに向き直った。そして俺のことをひたと見つめて諭すように言う。
「いいんだよ、ジッパー。無理するな。こんな時くらい甘えてくれ。聡子だって『何かできることがあれば』って言ってるし。それにな――」
まるで特別なことを披露する時のように得意気な顔になって、リバーは続けた。
「今の職場な、帰りが飛行隊みたいに遅くならないんだよ。子どもたちが起きてる時間に帰れるんだ。信じられないだろ? そんなもんで時間はあるからさ。面会にもちょくちょく来られる」
快活にそう言って笑う。
その態度からは、ひたすら俺のことを心配し、暗鬱な気分にさせまいと努めていることが伝わってきた。
戦闘機乗りが肺を傷めるということはどういうことか、この先輩も当然承知しているはずだった。加えてリバー自身も、自分が十年以上にわたって全力で打ち込んできたものを突然失った苦しい経験をしている。だからからこそきっと、こんなにも細やかな心遣いができるのだろう。
普段であれば、俺は人に気を遣われるのは好きではない。他人を頼るのも嫌いだ。しかし、今回ばかりはリバーの配慮がありがたかった。
「先輩……迷惑ついでで申し訳ないんですが、ひとつお願いしたいことが……」
怪我の状態だけでなく周囲のことにまで徐々に考えが及ぶようになってから、頭の隅で案じていた件があった。リバーの好意を恃みに、気にかかっていることを口にした。
「アパートの部屋にいるベタなんですが――」
「ベタ?……あっ、あの熱帯魚な!」
「はい。ご迷惑とは思うんですが、あれの面倒を見てもらえると……」
俺が躊躇いがちにそう言うと、リバーは大きく頷いた。
「分かった。うちに連れて帰っていいか? ちゃんと世話しとくから心配するな」
快く請け合う先輩に、冷蔵庫の中に少し残っていたはずの食材の処分も頼み、アパートの鍵を持って行ってもらうことにした。職場の様子やバイクの破損状態などについてしばらく雑談した後、リバーは「また来るな」といつもと同じ気負いのない笑顔を見せて帰っていった。
再び独りきりとなり、リバーが出て行った後のカーテンの揺れが徐々に収まってゆく様を見るとはなしに見ながら、先程までの面会のことを改めて思い返す。
事故に加え、予期しなかった父親の来訪を受けて気分はいっそう鬱屈したが、心安い相手と言葉を交わせたことで澱んでいた気持ちも幾らか軽くなったようにも思えた――が、それでもやはり、ベッド脇に置かれたままの華美な花を目にしてしまうとどうしても感情が強張ってくる。
結局、父親が持ってきた見舞いの花は、後刻ようやく夕食の片づけに回って来た下膳係に適当な理由をつけて譲り渡してしまった。
カーテンの向こう側では、消灯時刻が近くなっても延々と持病について語る老人たちの声が続いていた。