表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/25

動揺

 目を開けると、はっきりしない視界に真っ白い天井が見えた。

 ピッ……ピッ……という電子音や、空気が擦れるような音が規則的に聞こえている。

 口と鼻を酸素マスクが覆っていた。少し顔を動かすと、寝かされたベッドを取り囲むように配された様々な医療機器が見て取れた。そこから雑多に延びる幾本ものコードやチューブは、すべて自分の身体(からだ)に繋がれているようだった。機器の向こうを白衣姿の医師や看護師が行き来している。


 目に映る光景に、この状況に置かれるに至った経緯を(おぼろ)に思い出す。


 ――不覚だった……。


 突然バイクの前に飛び出してきた男の子の顔がまざまざと蘇ってくる。麻酔のためか怪我のせいか、頭はぼんやりとして極端に鈍くなっているように感じたが、それでも、あの時一瞬目が合った男の子の、恐怖というよりもただ驚愕しか浮かんでいなかった表情だけは鮮明に思い返すことができた。


 あの子はどうしただろうか……。


 もしかしたら傷つけてしまったかもしれない、自分は事故の加害者となってしまったかもしれない……そう考えると自責の念が押し寄せてきた。思わず固く目を瞑り、圧迫されるような胸苦しさに呻く――そんなことをしても事故を起こした事実は僅かばかりも変わらないと十分認識してはいても。


「須田さん? 気がつきました?」


 名を呼ばれ、強引に現実の場に引き戻される気分で瞼を上げた。

 たまたま通りかかったのか、声を掛けてきた看護師は振り返るようにして俺を見ていたが、足早にベッド脇にやって来て周りの機器に目を走らせた。続けて傍らのスタンドに吊るされた点滴薬の液量を確認すると、「ちょうど面会の方がいらっしゃっているようなので、先にお呼びしますね。須田さんにはその後に担当医から説明するようにしましょうか」と親身な口調で言い置いてまた離れていった。


 面会人……。


 こういった火急の際に駆けつけてくるような人物に心当たりはなかった。警察の事情聴取でも受けるのか――全身の倦怠感に思考力も気力も削ぎ取られたまま、当て()なく天井に視線を投げていた。


 ややあって、リノリウム張りの床を控えめに踏むような足音がして、看護師に案内された面会人がやってきた。マスクをつけ、割烹着に似た白衣とキャップに身を包んでいたが、それが誰であるかは容易に分かった。今晩一緒に飲む約束をしていたリバーだった。


「ジッパー……大変だったなぁ」


 ベッド脇に歩み寄ったリバーは硬い面持ちで痛ましそうに俺を見つめた。


「隊長から連絡もらってな――警察から基地の方に問い合わせが来たって。さっき隊長と一緒に警察に話を聞いて、担当の医者からも説明を受けてきた」


 俺は重く感じる腕を持ち上げて、口元にあてがわれている酸素マスクをずらした。最も気にかかっていることを訊くために、どうにか声を絞り出す。


「……子ども、巻き添えになってませんでしたか……?」


 ようやくそれだけを呟くと、傍らのリバーはまるで俺を(なだ)めるように何度も頷いてみせた。


「怪我はなかったそうだ。さすがに驚いてしばらく泣きじゃくってたみたいだけどな。お前の後ろを走ってた夫婦が警察と救急車を呼んでくれて、詳しい状況を伝えてくれたんだそうだ。とにかく飛び出してきた子は無事だったって言ってたから、心配するな」


 リバーの言葉に細く安堵の吐息をつく。無事であるなら何よりだった……。


「後でお前にも医者から直接説明があると思うけど、折れた肋骨が肺を傷つけて出血が酷かったみたいで、胸を手術したんだそうだ。手術は無事に済んだっていう話だったし、その他の怪我は大したことはないそうだから」


 励ますようにそう言ったリバーは、今度はさりげなさを装った口調で続けた。


「それから――お前の実家の方にも隊長が連絡を入れたらしいんだけどな、すぐに来られるか分からないようだから……」


 そこで言葉を切って曖昧に濁す。俺は小さく頷いた。


 きっとそうだろう――事故のことを告げても、素っ気ない対応しかされなかったに違いない。親の意向に反発して自衛隊を目指し、勝手に家を出て行った息子だ。今さら心配して取り乱し、何を置いても駆けつけるという雰囲気ではなかったはずだ。


 その辺りの事情を、今はもうリバーも知っているらしかった。きっと隊長から話があったのだろう。

 実家と疎遠になっていることは、身上調書や面接を通じて隊長にそれとなく伝えていた。加えて、隊長は俺がリバーにだけは格別の信頼を寄せていることも当然承知しているはずだった。だからこそ家族関係の事情を(おもんぱか)り、今はもう飛行隊ではなく司令部の所属になっているこの先輩にまで敢えて事故の報を伝えたのだ。


 リバーは前言をフォローしようとするかのように早口になって続けた。


「入院に必要な保証人には隊長と俺がなっておいたから、とにかくお前はあれこれ心配しなくていいからな。バイクも、業者を手配してとりあえずお前のアパートに運んでおいたから」

「……すみません、先輩……何から何まで……」

「こんな時に余計な気なんか遣うな。まずは早く良くなることを一番に考えるんだぞ。今はもういいからゆっくり休め」


 リバーはずらした酸素マスクに置いたままだった俺の手を取ると、点滴の管が繋がる腕を注意深く上掛けの下にしまい、再び俺の口元にそっとマスクを当て直した。そして改めて労わりの目で俺を見つめて言った。


「ちょくちょく顔出しに来るからな。しっかり休むんだぞ」


 そう念押しし、近くにいた看護師にひと言挨拶してからまた足音を潜めるようにして集中治療室を出て行った。


 リバーの気配がなくなると、あとは体中の倦怠感と呼吸の重苦しさに滅入りながらじっと横たわっているしかなかった。怪我の状態の説明をするはずの担当医はなかなか現れなかった。


 蛍光灯に照らされた無機質な白い空間の中を、医師や看護師たちが静かに歩き回っている。時折、耳慣れない用語が交じった短いやり取りの声や他の患者への声かけが聞こえてきた。俺の寝台の並びには他にも重症患者が寝かされたベッドが何床も並んでいるのだろう、個々の医療機器の作動音やモニター音が、時に重なり、時に間隔をずらしながら一定のリズムを刻み続けている。


 事故の発端となった子どもの無事を知ることができた今、ようやく自分の状態について意識が向きはじめた。


 リバーの話から開胸手術を施されたことは分かった。転倒した拍子にハンドル部分が左胸を強打したことは、あの一瞬の出来事の最中であっても直感的に頭の隅で捉えていた。猛烈な痛みと、このまま息ができずに死ぬのかと感じるほどの苦しさだったことを思い返せば、肺を傷めて手術という話に驚くまでもなかった。ここでこうして何台もの大仰な機械に繋がれた状況下で、枕元に訪れたリバーの格好から考えてみても、今の自分が厳重な管理を要する状態であることは察せられた。


 治癒するまでにどれ程かかるのか、いつ頃退院できるのか――動きの鈍い頭の中で、まとまりなく考えを巡らせていた――そういえばもう、年末年始のアラート勤務や待機要員の勤務割を作るために、若い奴が調整していたな……正月に勤務に就いても構わないと返答したものの、こんなことになってしまったからにはシフトに入れるかどうかも不確かに――。


 そこまで考えてからはっとする。


 いや――そうじゃない、そんな些末なことよりも。


 不意に胃の腑に冷たいものを感じ、血の気が引いてゆく。


 肺をやってしまったとなると、日常生活には支障のない程度に快復したとしても、果たしてこれまでと同じように戦闘機に乗り続けることができるのか。肺機能の低下は恐らく避けられないだろう。それでも高速・高Gの世界で以前と変わらず機体を操れるのか――何より、航空身体検査にパスすることができるのか。操縦資格を保持できるのか。パイロットとしてやっていけるのか。


 アイデンティティーの根幹に関わる重大な問題に思い至った瞬間、激しく狼狽した。

 今にも飛び起きて酸素マスクをむしり取り、大声を上げて医者を呼ばわりたい衝動に駆られた。一刻も早く予後についての見解を得たかった。今後の経過を観ないことには、たとえ医師であっても何一つ確定的なことは言えないだろう――それは勿論分かっている。分かっているが――。


 事によるともう二度と飛べないかもしれないという空恐ろしい推測に、冷たい汗が吹き出す。心臓の鼓動が急激に増し、喉元まで()り上がってきた圧迫感に咳き込んだ。その途端、胸に激しい痛みが走り息が詰まる。眩暈を感じて(てのひら)の下にあるシーツを握り締めようとするが、手に力が入らない。


 自分自身ではどうすることもできない現状。見通すことが不可能なこの先に対する不安と恐れ、膨れ上がる焦燥感。


 抑えようもなく体が震えだす。


 モニター機器が耳障りなアラーム音を繰り返しはじめた。駆け寄ってきた看護師が俺を覗き込み何か言っている。続いて何人も集まってきたが、彼らが自分に向ける言葉も、緊迫感を伴う声で交わされる内容も、何一つ理解できない。


 左腕が押さえつけられ、注射器を手にした医師が俺の手元に上体を屈める。白衣に通したその腕に取り縋って怪我についての説明を求めようとしたが、体は思うように動かない。激しい震えに襲われながら、口元のマスクに送られてくる酸素を切れ切れに浅く吸い込むのがやっとだった。次第に全身が重くなっていき、やがて何も分からなくなった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=824149814&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ