在るべき場所
扉を開けたとたん、梅雨の気配を帯びた空気が流れ込んできた。
雲間から差す朝陽が飛行場を明るく照らす。
遠くに望む筑波山を背景に、鼻先を揃えてずらりと並ぶF-15。
飛行前の点検にいそしむ整備員たちの姿。
駐機場へと踏み出し、思わず足を止める。
初めてだった――幾度となく見てきたこの光景が、これほど感慨深く目に映るのは。
傍観者としてではなく、この場の一員としてここにいることを許された喜びに震える。
装備を整えた同僚たちが俺を追い越し、アサインされた搭乗機へと思い思いに向かってゆく。
「先輩、今日は覚悟しておいてくださいよ。必ず負かして見せますから!」
俺を抜かしざま、イナゾーが嬉々として挑発の言葉を吐いてゆく。その気勢までもが小気味いい。肩で風を切るように先を行く後輩に続き、俺も再び歩き出す。
ようやく――ようやくフライトに戻れる。半年ぶりに、ようやく……!
再度の航空身体検査を受け、復帰の旨が記された判定書を手渡された時、張り詰めていた緊張が一気に切れた。言葉にはできないほどの安堵に思わず涙が滲んだ。
飛行隊に戻った今、何もかもが在るべきようにあると感じられる。自分の居場所はここなのだと実感できる。
飛行班の喧騒。淡々と進むモーニングレポート。端的に説明されるブリーフィング。救命胴衣や耐Gスーツの重み。整備員たちと交わす挨拶……すべてが心に響く。
コクピットに身を収め、計器のスイッチを弾く。指先は少しも迷うことがない。
スロットルを押し出す。強烈なエンジン音が轟き、目の間に伸びる滑走路の先へと圧倒的なパワーが背中を押す。
馴染んだ手応えとともに操縦桿を引き――雲を抜け――そこはもう、目に沁みるほどの蒼天だった。
技量回復訓練の教官として同乗している飛行班長のパールから声がかかる。
「どうだ、久々の空は」
「――感無量です――」
戻りたいと願ってやまなかったその場所の只中で、そう答えるのが精一杯だった。
そして静かに息を吐き――きっぱりと気持ちを切り替える。
感傷に浸るのはここまでだ。この後はもう、これまで同様厳格に、全力で臨むのみ。
「Gウォーミングアップ、左旋回4G」
手始めは訓練開始前の慣らし機動だ。
対抗機役のイナゾーにも告げ、操縦桿を素早く倒し手前に引きつける。機体は機敏に翼を翻し、直ちに急旋回に入る。Gを受けて身体がぐんと重くなる。その負荷さえ快い。
「次、右旋回7G」
高Gを告げる警告音が鳴る中、息を詰め、短い呼吸を繰り返す。息苦しさはない。傷が痛むこともない――よし、いける。
状況開始のポジションにつくためにイナゾーが離れていく。まずは1対1の格闘戦からだ。
「レディー――ファイツ・オン」
迫りくる対抗機とすれ違う瞬間、タイトな旋回に入る。全身にGがのしかかる。キャノピーに手を突っ張り、上体を捻って機影を視界に捉えつづける。何の痛みもない。身体はもう大丈夫だ。
細かく機体を操りながら対抗機を追う。イナゾーはしぶとく食らいついてくる。かなり腕を上げてきたのがよく分かる。今日こそはと闘志を燃やしていることだろう。だが俺も負けるつもりはない。
追い、躱し、互いの隙を狙って急旋回を繰り返し――ここぞという一瞬、ラダーを蹴りこみ一気に操縦桿を引き絞った。機体はするりと内に食い込み、照準が相手の背を射貫く。
「フォックス・ツー、キル」
イナゾー機を仕留め、操縦桿を緩めて息をつく。後席のパールから呆れたような声が届いた。
「お前、本当に半年ぶりか? お前の後席だと相変わらずGがきつくて敵わん。息詰めながらずっと心の中で唱えてたよ、『早くG抜け、早く抜けー』ってな」
ヘルメットのスピーカー越しに苦笑混じりの溜め息が聞こえた。
「技量回復は規定どおりの時間数をやることになるが、まあ、この様子ならすぐに戻れるだろう」
そう言って、パールはおかしそうに続けた。
「イナゾーはお前が戻ってくるのを首を長くして待ってたぞ。お前のことを絶対に負かすと息巻いてたから、今頃ひとりで悔しがってることだろうよ。あいつも随分成長してきたが、さすがにまだお前には追いつかんか」
飛行班長の評価は嬉しかったが、やはり感覚が鈍っている実感はあった――とはいえ、飛行停止だった頃に苛まれていたような焦燥感はない。むしろ意欲が湧くばかりだ。早く勘を取り戻し、少なくとも以前のレベルまで技量を戻したい。そして更に上を目指したい。
ブランク明けということで、初回の訓練は軽めの内容だった。通常よりも早めに切り上げ帰投に入る。
洋上の空域から鹿島の海岸線を越え、北浦を過ぎる。その奥に横たわる霞ヶ浦は、湖面に陽光をきらめかせて眩しく輝いていた。湖岸を縁どるように青々とした田が広がり、目に柔らかく映った。
『私の家、霞ヶ浦のすぐそばなんです』――ふっと、ハルカさんの声が蘇った。
『思いっきり手を振ったら、上から見えますか?』
無邪気な期待に声を弾ませた彼女の表情が目に浮かぶ。
今度飛ぶことがあれば、ハルカさんを探してみます――そう答えたことを思い出す。
不意に泣きたくなった。
なぜ、あの時自分は彼女に想いを伝えることを躊躇してしまったのか。後悔すると分かっていて、それでも本心に背を向け、逃げてしまった――いや、あの状況では仕方がなかったのだ――言い訳めいて反駁しても、自分自身をごまかせる訳がなかった。
せめて、また飛べるようになったのだと、それだけでも伝えることができるなら……。
翼を振ってみようかと、操縦桿を握りしめる。
だがすぐにその手を止めた。
穏やかな湖岸の景色が流れ去ってゆく。
もう、彼女とのあの時間は過ぎ去ったものとして、思い出のひとつにしなければならない……。




