移ろい
突如、あたりにけたたましいサイレンが響き渡った。
『ホットスクランブル!』
弾かれるように身を翻し、待機室から走り出る。一秒でも早く搭乗機へ。幾つもの足音が殺到する。
だが、俺ははたと立ちすくんだ。
ない――乗り込むはずの機体がない。鉄骨が交差する高い天井の下には、虚ろに空いた薄暗い空間。
とっさにスペア機を探す。だがそれすらも見当たらない。
にわかに騒々しい音が格納庫の奥から吹き上がり、僚機のエンジンが始動する。整備員たちは機敏に動きまわり、着々と準備を整えてゆく。皆それぞれの作業に傾注し、誰ひとり、こちらを一顧だにしない。
エンジン音が僅かに高まり、僚機が誘導路へと滑り出す。すべては通常どおりに淡々とこなされていた――ただ一人、俺を除いては。
滑走路を目指し、ためらいもなく発進してゆく僚機。
格納庫に残されたのは、ノズルから放たれた熱気と排気のにおい――そして、立ち尽くすことしかできない自分。
何ひとつ、なす術もなく――。
*
目を開けると辺りは暗闇だった。仰向けのまましばらくじっとしている。目が馴染んでくるにつれ、天井の杢目がぼんやりと見えてきた。中央には見慣れた電灯――間違いなく、ここはアパートの自室だ。
ゆっくりと吐き出した息が震えていた。顎が鈍く疼く。夢を見ながら歯を食いしばっていたのかもしれない。布団から起き上がろうとしたが、まるで金縛りにでもあっていたかのように体中が強張っている。軋む手足をぎこちなく動かして体を起こす。時計を見れば5時前だった。休日にしては早すぎる目覚めだ。
嫌になるくらい現実味のある映像と、夢の中で強烈に感じた焦りと苛立ちのせいで、寝起きだというのに疲労感しかない。
最近、似たような夢をしばしば見る。つい先日もそうだ。
どこからともなく現れた国籍不明機に後ろを取られ、とっさに回避しようとするもなぜか機体は制御できず、猛烈な焦燥と息詰まる緊張に苛まれながら手応えのない操縦桿とスロットルレバーを闇雲に動かし、どうにか機体をコントロールしようと虚しく足掻き――自分の呻き声に驚いて目覚めた時には、ぐっしょりと不快な汗をかいていた。
暗がりの中で、部屋の長押に掛けたままのフライトスーツと識別帽を見やる。目にする度に複雑な気持ちになる。片づけた方がいいのかもしれない。しかし一度しまい込んでしまったら、もう二度と袖を通すことがなくなるのではないか――そんな漠然とした惧れがずっとくすぶって、結局そのままにしてしまっている。
そう……何をしていても常に、自分ではどうともできない不確かな将来への不安が背中に張りついている。
今でも毎日、格闘戦や要撃の手順、緊急時の対処要領などのイメージトレーニングは欠かさない。少しでも感覚を失わないよう、それなりの時間をかける。その一方で、こんなこともすべて無駄になってしまうのではないかという思いが滲みだすのを、どうしても止めることができない……。
いや。とにかく余計なことを考えるな。気に病んで益になることはひとつもない。
思い切って布団を出て洗面所に向かう。鏡に映る覇気のない顔に、頬を叩いて気合を入れる。念入りに身づくろいし、カーテンを開け、夜明け近くのしらじらとした光を部屋に入れる。手間をかけて朝食を作り、食事の後は隅々まで丁寧に部屋を掃除する――そうやってひとつひとつの作業に意識を注いでいれば、少なくともその間は負の思考から離れられる。
休日はもっぱらバイクの手入れとトレーニングに費やした。胸の状態改善に少しでも役立つ情報がないかと、医学部のある大学の図書館まで足を延ばし、リハビリ関連の学術誌を読み漁ったりもした。できる限りのことはするつもりだった。もういい、なるようになれと諦観するにはあまりに己の根幹に関わりすぎていた。
一通り家事を済ませ、アパートを出る。今日は基地のプールで肺活量を鍛える予定にしていた。バイクは使わず、ウォーキングを兼ねて徒歩で向かう。空気はひんやりしているが、麗らかな日差しに春を感じる。
気がつけば、冬枯れの風景にはいつの間にか彩りが加わりはじめていた。葉が落ちた雑木林の中で、幾つかの木々はいち早く純白の花を咲かせている。民家の庭先では白や薄紅色の梅がほのかな香りを漂わせていた。足元に目をやると、冬の間じゅう地面に伏していた雑草が陽を求めるように一斉に葉を立ち上げ、黄色や紫、空色といった鮮やかな小花を咲かせて道端に色を添えている。
『どれも小さくて目立たないけど、色とりどりに競うように、空に向かってぐんぐん伸びて……』
病院でのあのひととき、溌溂と語っていたハルカさんの表情が蘇る。ふっと心が和んだ。あの時、彼女がひたむきに熱を込めて表現しようとしていたのは、きっとこんな光景だったのかもしれない。
『目にする景色が、一日ごとにどんどん色鮮やかになっていくんです。今までは気にも留めないことだったけれど、生き生きとした芽吹きを目のあたりにして、息を呑むような思いがしました。自然の営みって凄いな……って』
今、自分の目に映る、慎ましくも生命の息吹に満ちた草木の姿に、ハルカさんの言葉を重ねながら歩く。
ふと、この足元の草花を幾つか摘んで部屋に飾ってみようかと浮かんだが、すぐに思いを改めた。そこここで咲き競う小さな花々の輝きは、野にあってこそのものだろう。自分の慰みのために手折るのは気が咎める。こうして外に足を運び、野の花のありのままの姿に心を楽しませれば十分だ。
道行く先々で、やわらかな色彩がとりどりに春の兆しを告げている。朝方に見た夢のせいで身の内に淀んでいた寒々しさは、基地に着くころにはずいぶん和らいでいた。
休日の朝早い時間のためか、トレーニング施設が入る基地のレクリエーションセンターは閑散としていた。ジムでひとしきり体を動かし、プールに移る。コースをひたすら何往復も、できる限り水中で長く息を使うようにしながらゆっくりと泳ぎ続けた――地道に、焦らず、今できることに集中する。余計なことを考えるな。大丈夫、心配ない。前だけを見ろ。そして進め……。
2時間ほど費やし心地よい疲労感とともに水から上がると、「あっ、おじちゃんだ!」と幼い声が聞こえた。見ると、小さな姿がプールサイドを駆けてくる。利根家の勇太郎君と希美ちゃんだった。「こらーっ、走ったら危ないぞー!」と、後ろからリバーの声も聞こえてきた。
「おじちゃん! あのね、金ちゃん、卵産んだの!」
一足先に駆け寄ってきた希美ちゃんが、俺を見上げて甲高い声でおしゃべりを始める。
突然の話題にとっさに理解が追いつかず、(金ちゃん? 卵? いや、あのベタはオスのはずだが……)とまごついていると、横から勇太郎君が弾んだ声で補足する。
「この前ね、金ちゃんのお嫁さんをお店で買ってきたんだ! それでお見合いしたらうまくいって、今日の朝、卵産んだ!」」
興奮冷めやらぬ様子で勇太郎君は続ける。
「凄いんだよ! 金ちゃんがお嫁さんを体と尾ひれでギューって抱きしめて、そのままじーっとしててね、そしたら小さい卵がぽろぽろ落ちてきて! 金ちゃんが急いで卵全部口に入れて、泡の巣に運んでいくの!」
あいにくベタの産卵についての知識は持ち合わせていなかったので、想像力を駆使して勇太郎君の説明を聞いていると、「お疲れ~」といつもの調子でリバーがやってきた。
「いやぁ、結局子どもたちに押し切られてメスを迎えたんだよ。家にいる間ずっと見張り役をやらされてたんだけど、ベタの産卵て結構情熱的なんだな。見てて感動しちゃったよ――ほら、二人とも準備体操!」
「赤ちゃんがいっぱい生まれたら、おじちゃんにもあげるね。金ちゃんいなくなって寂しいでしょ」
小さな手のひらを膝に当てて元気よく屈伸しながら希美ちゃんが言う。その、妙にこましゃくれた口調に思わず苦笑する。
「もう帰るところか?」
「はい、朝一から来ていたので。先輩もトレーニングですか」
「うん。できるだけ泳ぐようにはしてるんだよ、走るより水の中のほうが腰に負担がかからないから。まぁ、子どもと一緒だと全然集中してできないけどなぁ」
立て続けに派手な水音が上がった。準備体操を終えた勇太郎君と希美ちゃんが勢いよく飛び込んだようだ。リバーが「こら! ちゃんとはしごのところから入る!」と声を上げるが、子どもたちはお構いなしだ。兄妹でじゃれあいながら、意外なほど達者に泳いでいる。
その様子に目を配りつつリバーが続ける。
「胸の手術した後で水泳なんかやって大丈夫か? 腕を動かすと胸にも結構負荷がかかるだろう?」
「大丈夫です。気をつけてやっていますから」
そう答えると、リバーは「そうか。無理しないようになぁ」と柔和な笑みで頷いた。
楽しげな声と跳ね上がる水飛沫の音が、温められて湿気のこもった広い空間に響いている。
コースの浅いところを行き来する子どもたちを見守りながら、リバーがおもむろに言葉を継いだ。
「お前はこれまでも、何でもひとりで解決してきたもんな。誰に弱音を吐くこともなく、愚痴をこぼすこともなく、自分ひとりで決着をつけられる。きっと今回のことだって、他人の助けなしに乗り切るんだろうと俺は思ってる」
確かにリバーの言うとおりだ。俺は他人に悩みを打ち明けることがない。個人的な相談を持ちかけることもない。沈んだ気持ちや自分の迷いを明かしたところで相手を無駄に煩わせるだけか、もしくは迷惑なこともあるだろうと考えてしまう。そしてそれ以上に、結局のところ相手は他人であって、どんなに人に相談したところで、解決は自分自身にしかできないと常々考えているからだ。端的に言えば、他人に期待することがないのだ――。
「……だけど、それだと相当気が張るんじゃないか? 気持ちを吐き出すことで前に進めることだってある。もう少し周りの人間を頼ってもいいんだからな」
不意にハルカさんの顔が思い浮かび、僅かに狼狽した。何と言うべきか分からず、水面の揺らめきにあてどなく目を向ける。
幾ばくかの沈黙の後、リバーが笑みを見せて言った。
「すまんな、帰りがけに引き留めて。風が冷たいから、体冷やして風邪引かないようになぁ」
帰り支度を済ませて外に出ると、日は既に高く昇っていた。空のどこかでひばりがしきりに囀っている。名残惜しむように冬の冷気を孕んだ風が、乾ききらない髪を梳いていった。
道すがら、リバーの言葉を反芻する。
周りの人間を頼っていい、と。
だが、いったいどう頼ればいいのか、自分はその方法を知らないのだ。
*
司令部庁舎から望む桜の木々は、いつしかその枝先に蕾を膨らませ、春の訪れを祝うように華やかに咲き誇り、人々の心を明るく浮き立たせ、やがて淡色の花びらを散らせていった。
いつもであれば滑走路上から眺めていた外周沿いの桜並木は、今年は目にすることもなく、季節は足早に葉桜の頃へと移っていった。
飛行停止となってから半年近くが過ぎ、広報の仕事にもひととおり慣れた。基地観桜会の取材やメディアの撮影対応、見学者の受け入れ、広報展示の計画など――黙々と業務をこなす中で、ある時、声をかけられた。
「須田1尉、ちょっとよろしいでしょうか」
仕事の手を止めて顔を上げると、内倉曹長が立っていた。広報班の中ではベテランで、臨時勤務として配置されたばかりの俺に何くれとなく世話を焼いてくれた人だ。カメラが趣味らしく、職場でも官品の一眼レフを念入りに手入れしている姿をよく見かける。
「実はお願いしたいことがありまして……。来月、新田原から教導隊が来る予定になっていますよね。それで、次回の広報誌用にどうしても撮りたい構図があってですね……できれば――できればでいいんですが、飛行隊の方に話を通していただけないかと……」
「教導隊」と聞いて一瞬逡巡しかけたが、恐らく色々と慮ってくれているのであろう曹長の恐縮しきった様子に、気を取りなおして具体的な話を促した。撮ろうとしているシーンについての説明をひとしきり聞き、大まかなイメージを捉えたところで少し考え、俺は頷いた。
「分かりました。タイミングもあるので必ず撮れるという確約はできませんが、調整してみましょう」
若葉の緑も深くなり、眩い陽射しの中で木立が濃い影を映すようになってきた頃――鮮やかな色をその機肌に際立たせたF-15が、轟音を響かせ、編隊を組んで百里上空に姿を現した。