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潰えた希望

「そうか……分かった」


 305の飛行隊長・富永2佐は難しい表情でそう呟き、手にしていた用紙を執務机に置いた。俺が航空医学実験隊から持ち帰ってきたその書類――『航空業務に関する医学的適否に関する判定書』には、3か月間の飛行停止延長とする旨が記されていた。つまり、少なくとも5月下旬までは地上勤務を続けなければならないということだった。


 検査の結果、血液検査や血圧、胸部レントゲンなどに異常はなかった。問題となったのが肺活量だった。呼吸停止の秒数も以前に比べ格段に落ちていた。

 スパイロメーターでの検査中、測定値を見た衛生員から『ちょっともう一度やっていただいていいですか』と促され、何度か呼吸気流量を測定しなおした。だが、何度試しても数値は伸びなかった。


 思い返せば、確かに事故後は強めの負荷をかけて運動すると息苦しさを覚えることがあった。だが日常生活に支障を感じるほどでもなく、まさか基準値に達していないとは思ってもみなかった。

 医官は問診と併せて、予後について執刀医はどう説明していたかも訊ね、繰り返し注意深くレントゲン画像を見た。結果、『機能低下の明確な原因がはっきりせず、現時点で症状の改善が見込めるかどうかを見通すことが難しい』として、更に3か月間の経過観察を決定したのだった。


「不本意だとは思うが、現状でこういう判断が出たことは仕方がない。今はとにかく回復に努めるようにな」


 労わりの色が滲む言葉で隊長からそう諭されれば、「はい」と頷くしかなかった。ひとつの気がかりが喉元を重苦しくしていた。問いをためらう気持ちを無理にも押して、俺は口を開いた。


「――教導隊への異動の話は……どうなりますか」


 隊長は再び手元の用紙に目を落とすと、明確な返答の代わりに長く息を吐いた。


「もともと年度末に転出の予定で調整をしていて、今回の検査にパスできればそのまま話を進めたんだが――次の検査は早くて5月下旬か……。教導隊にも空幕の人事にも、飛行停止となっている現状は知らせてある。何とかうまく異動時期をずらせないか相談してみるから、しばらく待ってくれ」

「すみません、お手数をおかけします」


 一縷の望みを託す思いで頭を下げると、隊長は首を振った。


「君が謝ることじゃない。部下の()(かた)に道筋をつけてやるのも指揮官の大切な仕事だ。それに私自身、君には教導隊でその才能を十分に生かしてもらいたいとも思っている――ただ、私の一存だけで決定できるものではないし、体調に関してはどうしても不確定な部分がある。もしかしたら希望どおりにはいかない可能性もあることは頭に置いておいてくれ」


 隊長室を辞し、司令部に戻ると、広報班長にもう3か月ここで厄介になる旨を伝えた。

 朴直(ぼくちょく)とした人柄の班長は、励まさねばという使命感に駆られたようだ――飛行隊に戻れないのは残念だった、うちの班としては君がいてくれるのは大いに助かるからまたよろしく頼む、手持ちの業務に空きができれば遠慮なくリハビリやトレーニングに充てて構わない――気遣いが過ぎるあまりか、いつも以上に上調子(うわちょうし)な声でひとしきりそう言うと、「とにかく気を落とさず前向きに」と話を括った。


 班員の空曹たちから向けられる同情の眼差しが気詰まりで、俺は留守にしていた間に回ってきた案件を手早く片付け、課業終わりを告げるラッパを聞くとすぐに走りに出た。


 よそよそしいほどに澄みきった快晴の空。司令部の庁舎前に植えられた桜の木々が、冷たい北風に(こずえ)を震わせている。

 飛行場の方から、出力を抑えたエンジンの掠れた響きが小さく伝わってきた――と、それは急激に音量を増し、耳を聾する轟音へと変わった。あたりの建物に爆音が反響する。離陸し上昇姿勢をとったF-15の姿が格納庫の屋根の向こうに現れ、見る間に空の彼方に消えていった。


 ウォームアップのつもりで軽く走り出す。

 問題はない。今までどおりだ。少しずつペースを上げてゆく――走れる。息が乱れることはない――更にストライドを大きく、ピッチを速くする――このままスピードに乗って、いつものペースまで持っていくことができれば……。


 そう思ったところで足の運びを緩めた。やはり胸苦しさを覚えた。喘ぐような呼吸になってしまう。吸い込んだ空気が素直に肺に入っていかない感覚だ。


 再び軽いジョギング程度の速度に落とし、荒くなった息を整える。

 この状況では航身検はパスできないということだ。医実の医官が診察の最中に何気なく口にした言葉が蘇る――『まあ、呼吸機能は徐々に回復してゆくとは思いますが、現状のままというケースもありますので……』


 一体どうすればいいのか。トレーニングを続けることで少しずつでも改善するのなら、どんな努力も惜しまないつもりだ。だがもし……。


 望ましくない可能性に考えが向きかけた時、背後から近づく軽快な足音に気がついた。「ジッパーさん、お疲れ様です!」と声をかけられて振り返ると、305で最若手のボコだった。見知らぬ隊員をひとり連れている。

 足を止めたボコは、息を弾ませながら隣の若者を紹介した。


「先輩にはまだご挨拶していませんでしたよね。新しく入った犬塚です。タックネームはドギーになりました。ドギー、航学の先輩の須田1尉、ジッパーさんだ。今は飛行隊を離れて広報に臨時勤務中だけど、操縦にかけてはとにかく凄腕だから。復帰したら思いっきり鍛えてもらえるぞ」

「犬塚曹長です! ご指導よろしくお願いします!」


 畏まって頭を下げる新入りに、通り一遍の言葉をかける。

 紹介と挨拶を済ませた二人は再び軽やかに走り去っていった。その背中を佇んだまま見送る。


 ボコはきっと何くれとなく面倒をみているのだろう。今まで一番下っ端で、ブリーフィングでは毎回しどろもどろになっていた若輩(じゃくはい)が、それなりに先達(せんだつ)らしくなっていた。新しい飛行班員も加わり、飛行隊の雰囲気は以前とは微妙に違っているのだろう――そう考えると、一抹の寂寥感は否めなかった。


 そんな鬱気が滲んでしまっているのかどうか、イナゾーなどは俺と顔を合わせる度に細々(こまごま)と隊の様子を語った。部隊を離れていても現況が知れるよう、305の一員として運用の流れを把握できるよう、この男なりに気を遣っているらしかった。


 今日も幹部食堂で昼食をとっていると、イナゾーがやってきて遠慮なく俺の向かいに席を占めた。いつものように食事を掻き込みながら快活に喋りたてた後、一転、真面目な顔つきになった。


「先輩、早く戻ってきてくださいよ」


 まっすぐに俺を見て言う。

 その強い眼差しを受け止められず、後輩の手元に目を落とす。


「先輩がいないと、部隊全体の実力が上がりません」


 俺はそっと息を吸い、渋面を見せて厳めしく返した。


「俺ひとり欠けたくらいで部隊のレベルが下がるようではお粗末すぎる。むしろ『先輩なんかいらん、俺たちが梅組を盛り立てる』くらいの気炎を吐け。お前たち若手がこれ幸いというくらい出張(でば)ってこなくてどうする。305のリーダーなら『俺が引っ張ってやる』くらいの気概を見せろ」

「もちろん、いつもそのつもりでやっています」


 たじろぐことなくイナゾーは頷いた。


「それでも自分は、ジッパー先輩が305で一番の実力だと思っていますから」


 後輩からの評価は嬉しいことに違いなかった。だが、身動きの取れない現状では自分自身に対するもどかしさが募るばかりだった。


 その日の夕刻、俺は飛行隊長から呼び出しの連絡を受け、緊張を覚えながら隊長室を訪れた。

 隊長は俺にソファーを勧めると、硬い表情でおもむろに切り出した。


「異動の件だが――事故の後すぐ、先方の隊長や空幕人事に状況を話して相談した。その時に教導隊からは『年度末までなら待てる』という返答を受けていたんだが……」


 思わず息を詰め、続く言葉を待つ。


「今回、向こうの隊長からは『飛行停止が延長なら、異動の話はいったん白紙に戻したい』と、そう話があった――非常に残念だが」


 覚悟はしていた。厳しいかもしれないと、予想はしていた。一方でわずかな期待を捨てきれずにいた。だがそれは甘かった。


「……分かりました」


 身動(みじろ)ぎさえできず、そう答えるのが精一杯だった。


 飛行隊長からは励ましや今後の見通しについての話があったように思う。だが、ほとんど記憶にない。


 沈みかけた夕日が、司令部庁舎へと戻る道に建物の影を長く伸ばしていた。


 教導隊長の判断が無情な訳ではないことは分かっている。どうなるかはっきりしない人間をいつまでも当てにはできない。後に控える者を引っ張ってくる方が合理的だ――それは当然理解している。


 それでも。

 あと一歩――あと一歩のところまで来ていた……! どんな時にも教導隊を見据え、戦闘機パイロットとしてひたすら研鑽に励んできた。長年の目標にいよいよ挑めるはずだった……!


 きつく歯を食いしばり、呻き声をこらえる。


 感情のやりどころなく俯いた、その先に目が留まる。

 路肩を覆う枯芝(かれしば)のひと隅に、空色の花が一輪、ぽつりと咲いていた。何ということもない、これまで取りたてて意識したこともない雑草だ。だが今は、その飾り気のない素朴な佇まいと、無心に開いた花弁の青さがことさらに目に沁みた。


 ハルカさんの朗らかな笑顔が浮かぶ。

 胸の底が疼いた。


 今更どうなるものではないと分かっていても――もう一度、会いたいと思った。



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