悪酔い(3)
「まあ、お陰様でそれなりに順調です」
酒が入って血色の良くなった頬を更に上気させ、イナゾーは照れつつも得意気にそう答えた。
熱意と意気込みだけは人一倍持ち合わせているこの後輩は、しかし、何をするにも取っ掛かりで必ず躓き、要領の悪さと不器用さが目立つことも多かった。本人もそれは自覚しているらしく、ひたすら地道な努力を積み重ねて欠点を補い、今は一人前の戦闘機乗りとして編隊長にまでなっている。上の者からすれば熱心に食らいついてくる育て甲斐のある後輩であり、下の人間からすれば情に厚い、面倒見のいい先輩だろう。そそっかしいところはあるものの、真正直で物怖じせず、人好きのする快活な性格はどうにも憎めない。
そんなイナゾーに対し、俺も含めた305の飛行班員たちは、暗黙裡にひとつの共通認識を持っていたように思う――いや、あの時の皆の反応を見る限り確かにあったはずだ、「あのイナゾーに彼女がいる訳がない」という思い込みが。
顔の造作や性格がどうとか、そういった理由ではない。とにかく一点集中になりがちな気質故にフライト以外の事に気を回す余裕などないだろうし、なまじ出会いのチャンスがあったとしても上手く立ちまわることなどできはしないだろう、と誰もが高を括っていたのだ。
そんなイナゾーに恋人がいるらしいという噂が持ち上がった時、飛行班には文字どおり激震が走った。きっかけは、防衛大学校の卒業式で行う祝賀飛行にアサインされていた若手の呟きだった。
『離陸許可が出て滑走路に入るじゃないですか。ふと見たら、外柵の向こうに見覚えのある姿が見えたんです。それがどう見てもイナゾー先輩ぽくて……しかも女の人と一緒だったんですよ。あれって、もしかして彼女とかですかねぇ……』
驚愕の目撃証言を得たとなれば、色恋話に目がないハスキーやポーチが黙っているはずがない。寄ってたかってイナゾーを問い詰めると、なんと相手は入間防空指令所の要撃管制官・谷屋1尉だという。美人で才媛のターニャが彼女だと知った時は、さすがに俺も耳を疑った。ひょっとしたら付き合っているというのはイナゾーの勝手な思い込みではないかとさえ考えたが、どうやらそうでもないらしかった。いつから付き合い始めただの、どこにデートに行っただのと根掘り葉掘り訊ねては囃し立てる同僚たちに囲まれ、イナゾーは居心地悪そうに口ごもりながらも、顔を紅潮させ晴れがましげな様子だった。
今もリバーに水を向けられ、間近に控えたクリスマスの予定を弾んだ声で話しはじめた。
「冬休暇の日程が合わなかったので、その分クリスマスはちょっと豪華にしようって話になって、東京湾のディナークルーズを予約したんです!」
言い慣れない言葉なのだろう、イナゾーは「ディナー」のところで舌を噛んだ。
「夜景を見ながらシャンパンで乾杯かぁ。ロマンチックじゃないか――もしかして、独身幹部宿舎の外で過ごす初のクリスマスか?」
リバーの冷やかしに照れながら頷いたイナゾーは、しかしすぐに心許なげな顔になった。
「でも本格フレンチだとかで、緊張しちゃいますよ。お洒落なレストランでコース料理なんて、航学の時のマナー研修以来ですから!」
そう言われればそんなこともやったと、十年以上前の記憶が蘇る。
航空学生課程の修了前、「将来の幹部自衛官としての嗜みを身につける」という主眼のもと、基地のある防府市内のホテルでテーブルマナーの研修を受けたことがあった。日頃、食事と言えば時間に追われて掻き込むのが常だった俺たちも、その時ばかりは皆、講師の解説に従って極力上品に畏まって料理を口に運んだものだ。
「幹部自衛官の嗜み」はそれだけではなかった。社交ダンスの素養も必須とされ、課業時間外に全員が体育館に集められてレッスンが繰り返された。
課業外とはいえ自衛隊だ、当然のことながら和気藹々とした雰囲気にはならない。教練の際の号令同様、指導教官が野太い声でカウントを繰り返す中、短髪で日に灼けた二十歳前後の男たちが互いに手を取り、真剣に、そして必死にステップを踏むのだ。
最後には一般の女性たちを招待してダンスパーティーが開かれ一連の訓練は締めくくられたが、あの時の練習風景は今思い返しても名状しがたい光景だった。
ともあれ、そうやって若い頃に叩き込まれたことは年月を経ても不思議と忘れないもので、今でも体がステップを覚えている。そういう機会が巡ってきたとしてもそれなりには踊れるだろう――礼装の制服に白手袋を身に着け、立ち居振る舞いは紳士的に。音楽が流れ始めればパートナーを促しホールへと導く――その手を取り、体を寄せ、華奢な背にそっと手のひらを添えると、ドレス姿の相手が目を上げてはにかみ――。
何気なく想像を巡らせ、不意にグラスを取り落としかけた。
パートナー役に、いつの間にか彼女を重ねてしまっていた――狼狽のあまり眩暈まで感じる――ああ、でも、清楚なイブニングドレスを纏ったハルカさんはあまりに愛らしくて……。
「どうした、ジッパー。具合でも悪いか?」
思わず額を押さえたところを、イナゾーと話していたリバーに見られてしまった。声をかけられ、慌てて平静さを取り繕う。
俺は自分自身に舌打ちし、残りの酒を一息に呷った――妄想も大概にしろ。いい加減に彼女のことは忘れるんだ!
手近な瓶を掴んで酒を注ぎ足し、立て続けに喉に流し込んだ。濃い焼酎が強烈に胃の腑を焼く。
未練がましい馬鹿げた空想はアルコールの力を借りて消し去ってしまわなければ……。
傍らでは、リバーを相手にイナゾーが惚気話を続けていた。別々の職場になってから、基地内でプライベートな話を交わす機会もあまりないのだろう。リバーも楽しそうに耳を傾けている。
「――そうかぁ……仲良くやってるみたいで何よりだなぁ」
ひとしきり話して満足気に一息ついたイナゾーに、リバーが温和な笑みを向けた。
「喧嘩なんかはしないのか? あのターニャが怒ったとしたら、冷静に理詰めで論破されそうだけど」
「た、確かに……」
心当たりでもあるのか、イナゾーは笑顔を引きつらせた。
「喧嘩はまだないんですけど――隊の宴会の後、酔っぱらった勢いで夜中の三時くらいにメールを送ったことがあったんです。そしたら、酔いが醒めた頃に電話がかかってきて、懇々とお説教されました。『賢二君、楽しくお酒を飲むのはいいと思う。でも、泥酔してそんな遅い時間にフラフラ歩いてたら事故に遭う可能性だって高くなるし、何より、記憶があやふやになるまで飲むなんて身体にいい訳がないんだから。くれぐれもお酒はほどほどにした方がいいと思うよ』って」
素行不良な教え子を諭す教師のような口調でターニャの苦言を再現してみせる。
リバーは可笑しそうに笑い、「やっぱり」と頷いて続けた。
「でも、愛されてるってことだよなぁ」
イナゾーは面映ゆげに首を竦め、居ずまいを正した。
「耳が痛いことを言われる時もありますけど、ちょっとしたことでも自分の考えや気持ちは伝えるようにしよう、って常々彼女と話してるんです。やっぱり、どんなに親しくなったとしても言葉にしないと相手にはちゃんと伝わらないですし、何かあった時に後悔したくないですから」
後悔――後悔か……。
喜色満面で彼女とのことを話すイナゾーの声はまだ続いていたが、何気なく発せられたひと言が思いのほか重く耳に残る。
――俺は後悔などしていない。今までも常に最良と思う選択をし、いったん決断したからにはあれこれ惑わず突き進んできた。今回の件も、自分自身で納得したはずだ。だから彼女のことはもう振り返らず、歯切れの悪い消極的な決心は反省事項として、今後、新たな出会いがあった際に生かせばいいのだ……次の機会に……誰か、また別の、気にかかる相手ができた時に……。
「おいジッパー、そんなに飲んで大丈夫か?」
「須田さん、お酒はちょっとお休みにして――今、お茶でも淹れますから」
先輩と聡子さんの慌てたような声が聞こえるが、俺はまだそこまで飲んでいない。飲んだつもりもない。酔っぱらってもいない。だからまだまだいける。今日は気が済むまで飲んでこの苦々しい憂さをきれいさっぱり流し去り、明日からはまた気持ちも新たに、黙々と前進あるのみだ……。
ガチャンと手元で音がした。
「あーっ、こぼした! もうジッパー先輩、何やってるんですか。飲みすぎですって! あんな速いペースで流し込むから……」
イナゾーが非難がましく喚いている。
「聡子、何か拭くもの頼む!」
差し出された布巾を掴もうとしたが、伸ばした手を押し返された。
「いいからお前は少し寝とけ。傷も完治してないのにあんな勢いで飲んだら治るものも治らなくなるぞ。勇太郎、ちょっと座布団持ってきて――そうそう! お昼寝用の長いやつ。希美は毛布持ってきてくれ――うん、押入れの中の、どれでもいいからおじちゃんに掛けてやって――」
周りがバタバタと慌ただしい。俺はまだ飲めるしもっと飲みたい。久々の酒だ。今夜は思う存分飲むのだ――……。