悪酔い(2)
不意にハルカさんの話題を振られ、飲んでいた酒を危うく喉に詰まらせかけた。
動揺を何とか抑え、「どうと言われても、別にどうも……」と口ごもると、リバーは意外そうに眉を引き上げた。
「何だ、好みじゃなかったのか?」
「いえ、そういう訳では……」
「可愛らしい娘だったみたいじゃないか」
リバーの言葉に、さては相当事細かに話したな……と脇のイナゾーを苦々しく見やる。湯気が立つおでん大根にかぶりつこうとしていた当人は、俺の視線に気づくとすっとぼけた顔でニッと笑った。
「メールとか、やり取りしてないのか?」
「連絡先も知りませんし……」
「アドレス交換とか、そういう話には持っていかなかったのか?」
「……はい」
退院の際に幾度となく繰り返した自問自答が思い浮かぶ。
「――今の状況だと、ネガティブな考えを紛らわすための逃げ道にしてしまいそうな気がして……」
弁解めいてそう言うと、リバーはまるで不器用な子どもを見る親のような眼差しで俺を眺めた。
「ジッパー……どうせまた頭でっかちになって難しく考えたんだろう。ようやくお前にもいい出会いのチャンスが巡ってきたかと思ったんだけどなぁ……。でもまあ、お前らしいと言えばお前らしいよな……うん」
残念そうに肩を落とすリバーを前に、いたたまれない気分になる。早いところこの話題から離れたい。何か別の話を――。
「いや! 俺は納得いきません!」
突然割って入った大声に、今度こそ酒が気管に転がり込んだ。咽せながら顔を上げると、姿勢を正したイナゾーが俺を睨めつけている。早々に酔っぱらったのかと訝ったが、至って素面の様子だ。
イナゾーは憤然とした面持ちで身を乗り出した。
「先輩、彼女が好みじゃなかった訳じゃないんですよね?」
「…………まあ……」
「ほんとはすごく気になってたんですよね!?」
後輩の剣幕に圧されかけたが、気を持ち直して言い返す。
「知ったような口をきくな。何でお前にそんなことが分かる。そもそも、彼女のことだってちらっと見ただけだろうが」
「それはそうですけど、あの時、先輩は受け取った花を見ながらびっくりするくらい優しい顔してたんですよ! あんなに穏やかな表情、職場でも飲みの席でも一度だって見たことなかったくらいですから! だからもう『これは!』って確信したんです!――でも違うんですか、先輩」
カッと頬が熱くなる。返す言葉が見つからない。イナゾーは更に畳みかける。
「さっき先輩は『逃げ道にしてしまいそうで』って言ってましたけど、遠慮なく言わせてもらえば、別の意味で既に先輩は逃げていると俺は思いますね」
「何だと?」
聞き捨てならない言いぐさに、思わず声が険しくなる。しかしイナゾーはまったく臆さず、勢いよく酒を呷ると焚きつけるように続ける。
「だってそうでしょ、逃げ道にしてしまうかもっていうのは、相手を好ましいと思っているからですよね? 心が惹かれるから、甘えたいという気持ちも湧くんですよね? 頼りたいと思うんですよね? なのに頑固にそれを認めず、あれこれ言い訳して自分の気持ちをごまかしてる時点でもう、逃げですよ。気になる娘の前でカッコつけたいとか、弱気なところを見せたくないとか思うのももちろん分かりますよ。でも、攻勢に入る機会をみすみす逃がして守勢どころかそそくさと離脱なんて、梅組を代表する戦闘機乗りがそんな及び腰でどうするんですか!」
イナゾーめ、人の気も知らず好き勝手に――。
いつもであれば難なく反駁して小生意気な主張を捻じ伏せてやるのだが、今に限って何の言葉も出てこない。歯噛みする思いで辛うじて呻く。
「自制するのは当たり前だろ。大して親しくもない男から勝手に頼られたら、相手にしてみたらとんだ迷惑に決まってる」
「だからどうしてそう飛び越して考えちゃうんですか」
イナゾーは苛立たしげにまくし立てた。
「まずは想いを伝えなきゃ何も始まらないでしょ。その気持ちを受けるも受けないも相手の自由なんですから、ダメだったら潔く身を引けばいいじゃないですか。もし受け入れてもらえて、結果的に彼女の優しさに甘えてしまったとしても、その優しさに素直に感謝して、彼女を大切に思う心をずっと持ち続けたらいいと思うんですよ。それで、もし彼女が落ち込んだり悲しんだりすることがあったら、その時こそ心を尽くして寄り添えば! 男と女の仲なんて色々な形があるんですから、始まりだってどんなきっかけでも全然いいと思うんです! とにかく、思い切って踏み出さないと!」
「イナゾー……いつの間にかもっともらしいことを言うようになったもんだなぁ……」としみじみ呟くリバーの横で、俺は黙って苦い酒を飲み下すことしかできない。
「まあなぁ……こういうのはその場の勢いも必要だし、何より縁もあるからなぁ」
後輩から一方的に説教されるばかりの俺を見かねてか、リバーが取りなすように相槌を打ち、各々のグラスに酒を足した。
「また病院に行ってみたらどうですか? 何食わぬ顔で病室を覗いてみたら」
存外に真面目な顔でイナゾーが提案する。
実のところ、それは自分もちらりと考えたことがあった。だが、訪れたところでタイミングよく彼女がいるとは限らない。それに、彼女の祖父を見舞う間柄でもない俺がわざわざ病室を訪ねれば、いったい何事かと不審に思うに違いない。下手をしたらストーカー的だと受け取られかねない。
しかしそれ以前に、そもそも彼女のことは退院のあの日に思い切ったはずだ。よくよく考えた末に自分自身で決めたことなのだ。未練がましい真似はしたくない。
リバーの言葉のとおり、結局は縁がなかったということか……いや、俺がせっかくの縁を掴もうとしなかっただけなのか……。
また物思いに耽りかけたところを、声高なお喋りに遮られた。イナゾーがグラスを片手に滔々とリバーに言い募っている。
「花を渡しに来た人、ちょっと見ただけでしたけど、ちっちゃくて明るい雰囲気で、すごく感じの良さそうな人だったんです。ジッパー先輩とは正反対のタイプかもしれないけど、それが逆にしっくりくるんじゃないかと思ったんですよ――」
イナゾーの力説を聞き流そうと努めながらも、腹の底の重苦しさは否応なく増してくる。グラスの酒を一息に飲み干す――彼女の話はもうやめろ。あの時の――ハルカさんと会話を交わしたあのひと時の居心地の良さを、また思い出してしまうだろうが……。
「――あんな風に先輩が女の子とやりとりするっていうこと自体びっくりでしたし、修行僧みたいに禁欲的な日々を送る姿を知っている後輩としては、ぜひともいい感じに進んでもらいたいと思ったんですよ、本当に!――ねぇ先輩、彼女とデートしてみたいって思いませんでしたか? 彼女をバイクの後ろに乗っけてツーリングとか、想像しませんでしたか? 腰に腕を回されて、背中に彼女を感じながら走るなんて、男のロマン、永遠の憧れじゃないですか! ちょっと強めにブレーキをかけたりすると、胸がギュッと背中に押しつけられて――」
イナゾーの妄想につられ、途端に顔が火照りだす。身の置き所がない。
俺はとうとう耐えかねて、強引に無駄話を遮った。
「いい加減にしろ、余計なお世話だ。俺の話はもういい! そう言うお前はどうなんだ、谷屋1尉とは」
唐突に自分の彼女の名を出されたイナゾーは、面食らったように目を瞬かせた。