暗転
底冷えがする寒い朝だった。
枕元のデジタル時計は7時を過ぎた時刻を示していた。遮光カーテンが引かれた部屋の中は暗い。
畳の上に延べた布団を出て、続きの居間に入る。暖房を消して一晩を経た部屋はすっかり冷え切っていた。素足に伝わってくるフローリングの床の冷たさが、これから冬本番に向かっていくことを実感させる。
グレーのカーテンを開けると、アパートの窓から見える空は薄墨色の低い雲に覆われていた。細い雨が音もなく降りしきっている。この建物の脇を通る狭い砂利道や、収穫されずに放置されたまま干からびかけている白菜がところどころに残る畑、葉を落とした枝が目立つ雑木林――窓の外の見慣れた景色は、今朝はすっかり雨に濡れてくすんだ色に変わっていた。
昨日の夜に見たテレビの天気予報では、前線と共に強い寒気が入り込んでくるために今日いっぱいは冷たい雨が続き、この茨城でもみぞれ混じりになることもあるということだった。
ファンヒーターのスイッチを入れてから、テレビとミニコンポが並ぶローボードの片端に置かれた小振りな水槽の前に屈みこむ。中では親指程の大きさのベタが1匹、深い藍色の扇のような尾びれをゆったりと振りながら、水草の間をひっそりと行き来していた。餌を落としてやると、水面近くまで上がってきて音も立てずにその小さな口に吸いこんだ。
この寡黙な熱帯魚がいつもと変わりのないことを確かめて、俺はノートパソコンを立ち上げ、気象庁のホームページを画面に出した。気象衛星からの画像で雲の動きを見、天気図にも目を通す。前線の動きを見ると、雨脚はこの後更に強まる可能性が高かった。
早いうちに夕飯の食材を買いに行っておいた方がいいだろうな――。
今晩、この部屋に職場の同僚である先輩のリバーと後輩のイナゾーを呼んでちょっとした飲み会を開くことになっていた。
リバーがF-15からの緊急脱出で腰を痛めて飛行機を降りた後も、俺たちはよく3人で顔を揃えた。外で呑むことももちろんあったが、今日のようにこの狭いアパートに集まって、俺の作る料理を肴に酒を酌み交わしながら日頃の愚痴や思いの丈を語り合うことも多かった。リバーから諭されたりイナゾーを叱咤したりして、共に気兼ねない時間を過ごすのは楽しいものだ――職場の宴会のように喧騒と怒号と乱闘騒ぎの中で酒を呷るよりずっといい。
今回は和風の創作料理をいくつか作るつもりだった。いつものように二人には事前にメニューを伝え、料理に合いそうな銘柄の日本酒を好きに見繕ってきてもらうことになっていた。
昨日の夕食時に多めに作っておいたおかずと味噌汁で簡単に朝食を済ませ、洗い上がった洗濯物を部屋の中に干して掃除まで済ませると、買い物に行く支度をして外に出た。
吐く息が白い。グローブをつけ厚手のウエアを着ているのでそれほど肌寒さは気にならなかったが、顔に感じる湿った空気は確かにみぞれが降っても不思議ではないと思えるほど冷たいものだった。
駐輪場に置いてある愛車のカバーを外す。スズキのGSX1100SZ、通称「カタナ」と言われるバイクだ。こんな天気でなければ念入りに手入れをしてやりたかったが、作業は次のオフの日まで持ち越しだ。
まずは地産の野菜を多く置いてあるスーパーに寄り、その後で質のいい鮮魚を取り揃えている店に行き――ロスのない順路を考え、町中に向かってバイクを走らせる。雨が次第に強くなってくる中、どの車も水煙を巻き上げて行き交っている。
ふと、緩やかな下り坂になっている車道のはるか先に動く鮮やかな色に気が付いた。進行方向側の歩道に青と黄色のふたつの傘が並んでいた。小学生になるかならないかくらいの子たちか。大きめの傘を傾げてさしているせいで、その下からはズボンと長靴を履いた足しか見えていない。
用心のために幾分速度を緩めてブレーキレバーに指を掛け、横を通り過ぎようとしたその時――。
突然青い傘が動き、男の子が勢いよく車道に飛び出してきた。
危ない――!!
咄嗟に目一杯の力でブレーキをかけ急ハンドルを切った。水しぶきを上げてタイヤが滑る。
車道を走って横切りかけた男の子が振り向き、立ち竦む。
驚きに見開かれたその目を捉えたのは一瞬だった。あっと思う間もなくバイクはバランスを崩し激しい勢いで転倒した。車体とともに路面に体が叩きつけられる。同時に左胸を強烈な衝撃と圧迫感が襲う。
後続車の急ブレーキの音が響いた。
横倒しのままスピンするバイクに巻き込まれ、自分自身も濡れた路面を引きずられる。アスファルトに容赦なく擦りつけられるカウルが耳障りな音を悲鳴のように上げ続ける。
数メートル滑ってようやく止まった。車体の下から抜け出そうと体を起こしかけた時――思わず呻いて再びその場に突っ伏した。打ちつけた右半身の痛みだけではなかった。息を吸おうとすると胸に差し込むような激痛が走る。声すら出せない。
苦しい――路上で胸を押さえてうずくまったまま、空気を求めて喘ぐのが精いっぱいだった。
「おいっ! 大丈夫かっ!? 救急車……おい、救急車だ!」
ヘルメット越しにくぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。金切り声で喚く子どもの声と、激しく泣き叫ぶ声も。
怪我をさせてしまったのか――朦朧とする意識の中でただそれだけが気がかりのまま、為すすべもなく必死に痛みに耐えることしかできなかった……。