新たな日常
午前5時過ぎ。目覚ましのアラームはまだ沈黙したままだ。遮光カーテンの隙間から覗く窓の外は黒々として、未だ夜明けの気配すらない。
唸りを上げて近くの林を抜けてくる強風がアパートの窓を揺らす。昨日の宵の口あたりから激しさを増しはじめた風は、一晩を過ぎてもその勢いを弱めることなく吹き続けていた。
俺は寝床の傍らに畳んでおいた上着を羽織ると布団から抜け出し、冷え切った居間の灯りをつけた。無機質な白い光が二、三度瞬き、大して物もない空間を照らし出す。
これまでは朝起きてすぐにベタの水槽を覗き、様子を確認しがてら餌をやるのが日課だった。しかし今はもうその水槽はない。入院中リバーに預かってもらっていたベタは勇太郎君がいたく気に入って面倒を見ているということだったので、「金ちゃん」としてそのまま利根家に養子入りしたのだった。
水の中を音もなく泳ぐだけの物静かな生き物だったが、今にして思えばあんなに小さな存在でもそれなりに一人暮らしの孤独感を紛らわせてくれていたのかもしれない。毎朝、分かってはいてもその小さな青い姿がないことに一抹の寂しさを覚える。
それでも、退院してしばらくはそんな感傷が湧くこともなかった。水槽を置いていた場所には病院から持ち帰った木瓜と紫苑を飾っていた。手持ちの花器もなく有り合わせのグラスに挿しただけだったが、その淡く優しい色合いは殺風景な部屋にささやかな彩りを添え、目を和ませてくれた。仕事を終え真っ暗な部屋に帰りつき、灯りをつけて居間の一角に楚々と咲く花を目にすると、ほっとした気持ちになったものだ。毎日必ず水を替え、ハルカさんがしていたように茎の先端を切って手入れをしていると、入院していた1週間あまりの記憶が蘇った。花を眺める時、その向こうに彼女の姿が思い浮かんだ。
だがその花も次第に元気をなくし、やがて花びらは散り、葉も萎れ、枯れていった。最後に残った木瓜の細い枝も無下に捨てるのはためらわれてしばらくそのままにしていたが、それも結局そっと処分した。
今はもう、ハルカさんに繋がるものは何一つない。彼女のことは、過ぎ去ったひと時の、温かな思い出として区切りをつけなければいけない……。
これまでとは違う日常は否応なしに始まっていた。
簡単に朝食を済ませ、出勤準備に取り掛かる。
フライトスーツはいつものように和室の長押に下げてある。しかし、長年当然のものとして着ていたその服は、今の自分には必要なかった。
代わりに、隣に掛けた制服を取り、袖を通す。襟元を整えながら、今日の予定に入っている業務のことを考えた。憂鬱な気分になりかけるのを小さな溜息で紛らわせ、ここ数日、出勤前に必ず自分に言い聞かせていることを改めて繰り返す。
現実を受け入れて淡々と日々をこなすこと。焦らず、腐らず、現状でできる範囲のことをひとつひとつ積み重ねてゆくこと。何事も前向きに考えること――。
俺は外套を着こみ制帽を深く被ると、風を受けて重くなったドアを押し開けアパートを出た。
*
「では皆さん、こちらへ――ここに集まってください――」
がらんとして冷え切った格納庫に整備小隊長付幹部の声が反響した。
交差する幾筋もの鉄骨が幾何学模様を描く高い天井。その下には2機のF-15が鎮座していた。尾翼に梅のマークを付け、艶のない灰色の機肌を水銀灯の光に晒している。
周囲では、腰に工具ベルトを巻いた整備員たちが粛々と整備作業にあたっていた。
ある隊員はコクピットに潜り、別の隊員は高さのある機体の背の上を歩きながら足元に注意深く目を注ぎ、また別の隊員は工具と懐中電灯を手に脚付近のパネルを開いて中を覗き込み――それぞれに白い息を吐きながら黙々と作業を続けている。時折、工具と部品が触れ合う硬質な金属音が格納庫の中に小さく響いた。
その光景を十数人の一団が見学していた。職業体験で訪れている中学生たちだ。普段経験したことのない雰囲気に気圧されているのか誰もが神妙な態度で、目の前に黙として佇む巨大な戦闘機を物珍しげに見上げている。
俺はその集団から少し離れたところに立って、整備小隊長付幹部が努めて平易に説明するのを聞くとはなしに聞いていた。
「ここでは飛行訓練に使う航空機の点検整備を行っています。毎日の訓練や実際の任務に際してトラブルのないように機体を整え、パイロットに渡して送り出し、戻ってきた後には機体に不具合がないかどうか念入りに点検します。我々整備員の役目は、航空機を使った作戦運用にどんな時でも応えることができる態勢を保つこと、そして、航空機に乗るパイロットやクルーが無事に地上に戻ってこられるよう、機体を万全の状態に整えることです――」
説明を受ける生徒たちに向かって、<航空自衛隊百里基地 広報>と書かれた腕章をした曹長が一眼レフカメラのシャッターを切っている。そして俺も今、その腕章と同じものを制服の右腕につけてこの場にいた――広報班の引率幹部として。
退院の翌日、久々に出勤した俺は不在の間の細々とした連絡事項を受けるのももどかしく衛生隊を訪れた。
すぐにでも航空身体検査を受けるための日程調整を……と気張っていた自分に告げられたのは、「検査は3か月後に」という指示だった。基地の医官は飛行隊長から今回の件に関して話があった後、航空医学実験隊に問い合わせたということだったが、専門医官の回答は「規則上、開胸手術後3か月未満は身体検査基準不適合の状態となるため、その期間を経過してから判定を行う」というものだったという。
最低でも3か月間は飛行停止――つまり、フライトに戻ることはできないということだった。
「規則」と言われてしまえば納得せざるを得なかった。たとえ体が完全に快復していたとしても定められた期間は飛ぶことはできないという話であれば、それはもう仕方がないこととして大人しく時間の経過を待つより他はない。それでもやはり落胆の気持ちは抑えられなかった。
戦力にならない俺の処遇をどうするか、隊長や人事班長など関係各所で話し合いと調整が行われ、とりあえず3か月間の臨時勤務として司令部の渉外室広報班に落ち着いたのだった。
今回、新しい職場に移ってまだ1週間と経ってはいなかったが、折しも職業体験の受け入れがあるということで、広報班長から見学者対応の大まかな流れを見てくるようにと命じられ、生徒たちの一団と行動を共にすることになったのだった。一応は引率幹部という立場ではあるものの、実際の対応は勝手知ったる若手の空曹が行い、俺自身は広報班の先任空曹に同伴され要所要所で業務についての説明を受けながら随行していた。
「――えー、では皆さん、少し移動してこちらへ……」
整備幹部に促され、生徒たちが腰ほどの高さのあるキャスター付きの台を取り囲む。
「整備に使う工具は、このように種類別にして大きさ順に決まった位置に収めています。ひと目で何がどこにあるかが分かるようにするためと、無いものがすぐに分かるようにするためです。もし作業が済んでこの工具台に空いた場所があったら、どこかに工具を置き忘れているということになります。万が一機体の中に置いたまま航空機を飛ばしてしまったら、最悪の場合、墜落の要因にもなりかねません。ですから、工具はもちろん、たとえほんの小さなネジひとつであっても、紛失した場合は機体をもう一度分解して見つかるまで徹底的に探します――」
その言葉に生徒たちが僅かにどよめく。
整備幹部の熱心な説明が続く中、写真を撮る手を休めた先任が近づいてきて、時程が記された紙を開きながら俺にそっと耳打ちした。
「須田1尉、この後のスケジュールの確認を……。今のところ概ね予定どおりに進んでいますが、午後の教練体験……これは当初グラウンドで行う予定でしたが、天気が不安なので体育館に変更したいと思います――屋外で実施するものがある時には必ず天候不良の場合の代替案も作成して、施設等が使えるように事前調整を行っておきます」
俺が頷くと、先任はまたカメラを手にして集団の方へと戻っていった。
手持ち無沙汰の感を否めないまま、俺も踵を返した。格納扉を滑らせるレールの溝を跨ぎ、駐機場の際まで出てみる。
凍てついた北風が飛行場を吹き渡っていた。空は薄灰色のぼんやりとした雲に覆われ、いつの間に降りはじめたのか、雪片が強風に翻弄されて舞っていた。枯れ色の草地や駐機場の路面はまだ濡れるほどではないが、この冷え込みからすると、これから徐々に細かい雪に変わるだろう。
突如、陰影の乏しい雪雲の下に雷鳴のような爆音が轟いた。遠くに見える滑走路を2機のF-15が速度を上げて走り抜けていく。瞬く間に空へと駆けのぼった編隊は、くぐもったエンジン音だけを長く響かせて雲の中に姿を消した。
次々に飛び立ってゆく305のパイロットたちを、俺はじっと佇んで見つめていた――あれはハスキー……次がイナゾーとライズ……その後はアディーとボコ……――コクピットに見える姿と操縦の癖で、乗っている人間は大方判別できる。
担当機を送り出した整備員たちが、三々五々、駐機場から待機室へと戻りはじめていた。何人かが俺に気づき、戸惑い気味に敬礼と挨拶をよこす。
彼らに軽く答礼し、小雪が舞う飛行場へ再び目を向けた。身を切るような冷たい風に混じって、離陸機が残していった排気のにおいが運ばれてくる。逆巻く風は格納庫の中にも容赦なく吹き込み、制服の足元や外套の裾に雪を吹きつけた。
また1機、轟音と共に滑走路を離れ空へと昇ってゆく。
課された業務に専念しなければならないのは分かっていたが、俺はどうしてもその場から離れがたく、風に弄られるままに立ち尽くしていた。
――一日も早く戻りたい……自分が本来いるべき場所へ……。




