癒し(5)
どうして――。
涙の理由に見当もつかず、空しく唾を飲み下す――俺はどうしたらいい、何を……何を言えばいい……!?
声も出せずに硬直する。
「ごめんなさい。もう、涙なんか……」
彼女は慌てた様子で目頭を拭った。ひとつ大きく息をつき、赤みの差した目を改めて俺に向ける。
「――さっき、高校の時に一時期落ち込んでたってことをちょっとだけお話ししましたけど……私、高校に進学する時にスポーツ推薦で行ったんです。陸上の長距離で。でも高2の時に膝を痛めて、手術したんですけど選手としてはもうやっていけなくなって……陸上を諦めた経験があるんです。その時のことを思い出して、須田さんの気持ちを想像してしまって……」
その瞳が再び潤む。彼女は足元の枯れ葉に視線を落とすと、呟くように続けた。
「大好きでずっと打ち込んできたことや自信に思っていることができなくなるって、本当に、辛いですよね……。自分そのものがごっそり抜け落ちてしまうようで、気持ちだけが逸って、この先どうなるんだろうっていう不安ばかりで……。悔しさとかもどかしさを誰かにぶつけることもできないし……でも、自分の中に押し込めたままだと苦しくて苦しくて、どうしようもなくなって、どんどん心が強張って……」
ふと声が途絶えた。そのまま少しの間考えに沈んでいた彼女は、伏せていた目を上げるとためらいがちに俺を見た。
「余計なお世話だと思いますけど……須田さん……無理されてないですか……?」
そっと囁くように発せられたその言葉に、一瞬、息が詰まった。
何も言えないままハルカさんを見つめ返す。
彼女はあくまで控えめに、じっと黙って俺の目を見ている。
やり場のない心の内を吐露したら、彼女はきっと親身になって耳を傾けてくれることだろう。意地や自負心が邪魔をして職場の人間の前では決して口にできない煩悶も、今ここで、体裁を構うことなくぶちまけてしまいたい。そうすれば、たとえこの場の束の間だけであったとしても、重苦しい気分から逃れられるに違いない――だが……。
それは甘えだ――そう強く主張する自分がいる。
彼女と知り合ってまだ日も浅い。今日まで特に親しく話し込んだことがあった訳でもない。気遣いを示してくれているとはいえ、その優しさに甘えて弱音を吐いていいものか。女々しい愚痴を聞かせても、困らせてしまうだけだろう……。
「――すみません、心配していただいて……。でも、大丈夫です」
努めて気を持ち直し、彼女に小さく頭を下げる。
「……どうしても苛立ってしまうのは不確定な状況に置かれているためだと、自覚はしているんです。色々な要素がはっきりしてくれば、きっと今までのように冷静で客観的に考えられるようになるだろうと……。これまでずっと、決断が必要な事も解決しなければならない問題もすべてひとりで処理してきました。今回の事態も気持ちを落ち着けて淡々と対処していけば自ずと道筋を見出せるはずなので……。とにかく、どういう状況になっても何とか折り合いをつけてやっていくしかないと自分に言い聞かせているので――だから、多分、大丈夫です」
恐らくハルカさんには意味の掴めない独り言としか思えなかっただろう。俺自身でさえ、一体何に対して大丈夫と言っているのか判然としなかった。しかし自分に向かってそう呟きでもしなければ、再び終わりのない悲観的な思考に落ち込んでしまいそうだった。
そっと息を吐き、視線を戻す。
黙ったまま俺を見つめる彼女の目は、気のせいか、ひどく哀しげに見える……。
ハルカさんは膝の上のバッグを胸元に抱き寄せ、力なく俯いた。幾度か何かを言いかけ、その度にまた黙り込んでいたが、やがて躊躇しながら口を開いた。
「……詳しいことを知らない私なんかが『きっと大丈夫ですよ』なんて軽々しく言うのはすごく無責任だと思いますし、何か励みになるようなこともうまく言えませんけど――」
考え考え言葉を繋いでいた彼女が不意に顔を上げた。大きな瞳がまっすぐに俺を見る。
「私、須田さんがまた飛行機に戻れるよう、お祈りしておきますから。家の近くの神社でしっかりお願いしておきますから!」
真剣そのものの眼差しでそう言って、しかしたちまち心配そうな面持ちになる。
「あ、でも――神社よりお寺とか教会の方が、いいですか……?」
俺は思わず微笑んだ――ふっと、無駄な力みが抜けた気がした。
ハルカさんの、どこかとぼけた人の好さがありがたかった。もし熱心に励まされたり元気づけられたりしたとしたら、たとえどんなに心を尽くした言葉だったとしても、きっとどうしようもなく惨めな心境になっただろう。
胸の奥にじんわりと温かいものが広がり、波立っていた感情が凪いでゆく。
「いえ、特にこだわりはないので……。でも、ハルカさんのそのお気持ちだけで自分はもう、充分に嬉しいです――気分が落ち着きました」
心からそう伝えると、彼女は目を瞠った。俺をしばらく見つめてから、はにかむように笑んで俯く。
微かな風がその前髪を揺らした。頬にかかったほつれ毛を華奢な指でよけ、ほんのりと上気した耳にかける。そんな何気ない仕草と素のままの横顔がとても初々しく目に映った。
風に吹かれた落ち葉が足元で乾いた音を立てる。素足にサンダル履きの足先がいつの間にか悴んでいた。幾分冷え込んできたようだ。陽光はもう夕暮れの色を濃く孕み、植え込みの樹木の影を地面に長く伸ばしていた。
ハルカさんに声をかけられてからさして時間は経っていないように思えたが、もしかしたら長いこと話し込んでしまったのかもしれない。
「そろそろ病室に戻ろうと思います。帰りがけに付き合っていただいて、ありがとうございました」
礼を言って一瞬迷い、続けた。
「今日はお話ができて良かったです」
「私の方こそ」
西日を受けて眩しそうに目を細めながら、ハルカさんが朗らかな笑顔になる。
「気兼ねなくお話できて嬉しかったです。病室だと、好奇心旺盛なお爺ちゃんたちが耳をダンボにしてますから」
そう言ってくすりと笑う。
確かに――同室のお年寄りを思い浮かべ、俺もつられて苦笑した。
「これ、ありがとうございました」
どちらからともなく立ち上がり、手元に置いたままだったファイルをハルカさんに返す。肩のブランケットを取ろうとすると、彼女に止められた。
「今度また外に出る時にでも使ってください。寒さがお身体に障ると良くないですから」
心遣いの言葉と共に俺を見上げ、彼女が微笑む。
「どうぞお大事に。それじゃあ、また――」
会釈して踵を返し帰ってゆくハルカさんを、その場に佇んで見送った。大きなバッグを肩にかけた小柄な姿は、やがて、駐車場に出入りする車に隠れて見えなくなった。
肌に感じる冷たい空気に、羽織ったブランケットの端を胸元で合わせなおす。やわらかで優しい匂いがふわりと漂い、穏やかな気分になる……暖かな陽の光の中にいるような……。
心地よい温もりを感じながら、俺は病棟へと足を向けた。