癒し(4)
「自衛隊の駐屯地や基地って――」
興味が尽きないのか、ハルカさんは間を置かずに再び口を開いた。
「――全国にありますよね。須田さんはずっと百里基地に?」
「いえ。入隊してすぐは山口県の防府北基地というところに。その後は福岡、静岡、宮城、宮崎……そして今の百里です」
彼女は目を瞬かせながら俺の話を聞いていたが、移動の多さに驚いたようだった。
「そんなにあちこち転々と……。大体何年くらいの頻度で転勤があるんですか?」
俺は、自衛隊に関する知識をほとんど持ち合わせていない彼女が理解できるよう、できるだけ一般的な語句を使って説明した――同じ基地にいられる年数は階級によって違うこと、曹士と呼ばれる現場のスペシャリストはひとつの基地に勤務する期間が比較的長いが、ゼネラリスト的存在である幹部は2、3年といった短期間での異動が多いこと、自分たちパイロットは教育課程を終えて初めて配属される部隊には5、6年いることが多いが、その後はやはり短いスパンで動くことなど……。
「須田さんは、百里には今で何年になるんですか?」
「もう7年以上になります」
「じゃあ、そろそろ……」
言いかけた彼女の言葉を引き取って、「いつ異動の話が来てもおかしくはないです」と答え――そっと息を詰める。事故を起こしてから努めて意識を逸らせ続けていたことが俄かに立ち現れ、乱れそうになる心を辛うじて抑える。
「転勤先の希望って、聞いてもらえるものなんですか?」
「そうですね……一応希望は出して、それなりに考慮もされますが、必ずしもそのとおりにいく訳ではないです」
「百里の次はどこを希望されているんですか?」
彼女が無邪気に尋ねる。
「教導隊に、行けたらと……」
「きょうどうたい」
たどたどしい口調で繰り返したハルカさんに、俺はまた簡略に説明した。
「宮崎県の新田原基地に入っている飛行教導隊という部隊です。訓練で敵の役を務める部隊で、全国の戦闘機部隊を回って戦い方を指導したり、現場から選抜されたパイロットを一定期間受け入れて訓練したりして、各部隊のスキルアップを図ることを任務としています」
「じゃあそこは――とても上手な人たちが集まるところなんですね?」
彼女の至ってシンプルな解釈に笑みを作って頷き、次第に重くなりゆく気分を無理にも押し込める。
「教導隊に行って操縦技術をとことんまで追求し、自分が得たものを全国の部隊に還元することで、戦闘機部隊全体としての防空能力の向上に貢献できれば、と……」
そう――教導隊から、引き抜きの話は来ていたのだ……。
戦闘機パイロットを志すに至った動機が子どもじみた反抗心を多分に含んでいたとはいえ、自衛官となってからは当然、防空という使命を自覚して日々の訓練にあたってきた。それでも若手の頃は、とにかく誰にも負けない技量を身につけたいという気持ちの方が遥かに勝っていた。その頃からひとつの目標として心に抱いてきたのが飛行教導隊だ。
操縦のセンスもあり部隊で抜きんでた腕を買われて配属されたパイロットが、並み居る猛者たちからの厳しい指導とプレッシャーに圧し潰され、失意のままに原隊に戻されたという話も決して珍しくはない。妥協を許さず、現状よりも更に高いレベルを飽くことなく追い求め、傑出した技量を持って現場のパイロットたちを鍛え上げる人間たちの集団。「少数精鋭」と畏敬されるのが教導隊だ。
年に一度、巡回教導で百里に展開してくる彼らと訓練を共にする度に、戦闘機乗りとしての自分の未熟さを痛感した。
高速・高Gの中で絶えず数秒先の状況を的確に予測し、同時に戦況の趨勢を見極め格闘戦を優位な方向へと構築する能力。自機のスピードと位置が生み出す力学的エネルギーを余すところなく活用し、性能を最大限に発揮させ、同じF-15とは思えないほどの機動で機体を自在に操る操縦技術。ほんの一瞬のチャンスを決して見逃すことのない瞬時の判断力と鋭い機眼。訓練後には細部に至るまで徹底的に分析・評価し、明確に言語化して理路整然と解説する教示力――。
彼らの実力を目の当たりにする度、深く感服し、悔しさに歯噛みもした。「自分もこうありたい、少しでも同じレベルに近づきたい」と切望するばかりだった。
彼らから指導受けした事柄を常に念頭に置き、己の操縦技量の向上と後輩指導の効果的な方法を模索して試行錯誤を繰り返す――ひたすら研鑽の日々を送りながら次の教導訓練を心待ちにした。
季節が廻り、じっとりとした蒸し暑さに梅雨の兆しを感じるようになる頃、教導隊は再び百里に飛来した。
整然と編隊を組んだF-15が空の彼方に現れる――見る見るうちにその姿を大きくして滑走路上空を過ぎ越すや、次々に翼を傾け単機に分かれる。湿った空気を切り裂き、翼端が細く雲を曳く――。
曇天を背景にしてもなおはっきりと視認できる派手な迷彩塗装が、彼らの揺るぎない自信と余裕を示威していた。爆音を轟かせ睥睨するかのように場周を一巡した彼らは、ふてぶてしいほどに悠然と、堂々たる貫禄を漲らせて滑走路に下り立つのだった。
教導隊機の威容を地上から睨みつつ、俺は「今回こそは絶対に打ち負かす」と闘志を燃やした。ひとたび空に上がり訓練が開始されれば、この一年間鍛錬を重ねて得たもの全てを叩きつけるつもりで力の限り彼らに挑んだ。
その気概と努力、そして結果として身につけた技量が、教導隊の隊長や飛行班長の目に留まったのだろうと思う。昨年の夏――巡回教導が終わって暫くしてからのことだ。俺は所属する305飛行隊の隊長室に呼ばれ、人事を掌握する航空幕僚監部の補任課を通じてごく内々の打診がきていることを告げられた。
『教導隊がお前を欲しいと言ってきた。お前の希望は十分承知している。だが部隊として、今はお前を出すことはできない』
305の当時の飛行隊長は、難しい面持ちで開口一番にそう言った。
若手がまだ十分に育っていないこと、部隊の主戦力である中堅層が薄くなってしまうこと――隊長はその2点を理由に挙げた。
確かに、入校や集合訓練のために一定期間不在となる予定の隊員や、転出時期を間近に控えた隊員たちは皆、2機編隊長以上の立場の、経験年数を積んだ人間だった。加えて、俺の不始末でリバーが教育集団に転属となった後、リバーと同等もしくはそれ以上の資格を持った要員は何の事情か1名欠員の状態が続いていた。
その上で更に俺が抜ければ部隊運用に支障が出るであろうことは容易に想像がつき、隊長の判断も至極妥当なものとして頷けるものだった。
何より、人員不足を招く一因を作ったともいえる自分に、熱望する異動の話が留め置かれることを不満に思う資格はない――自身にそう言い聞かせ、ひどく落胆しそうになる気持ちを諫めた。
『済まんがあと1年半待ってくれ。そしてその間に後輩の育成に力を注いでくれ。そうすれば問題なくお前を送り出せる』
俺は了承し、引き続き己の技量向上に努めると同時に後進指導にも全力を傾注した。
そして現在――当時は2機編隊長錬成訓練の開始前だったイナゾーやアディーも今や一人前と言えるまでになり、編隊長としてはまだまだ未熟ながらも日々熱意を持って訓練に励んでいる。その下の後輩たちもそれぞれに資格を上げてきている。
俺はそっと息をつき、ベンチの足元に溜まった落ち葉に視線を落とした。遣る方ない思いに胸が苦しくなる――1年半という期間は、残りあと僅かというところまで来ていた……。
「凄いなぁ……」
嘆息混じりの呟きが聞こえて目を転じる。傍らでハルカさんが考え込んでいた。
「防空とか、国を守るとか――須田さんはとても大きなものを見据えてらっしゃるんですね……。立派なことだなぁって、本当にそう思います。お恥ずかしい話ですけど、私、今までそんな広い視野を持って物事を考えたことなんてありませんでした」
難しい顔のまま、彼女は独り言つように続ける。
「『空を飛べるなんて凄い!』って最初は単純に感動しちゃいましたけど……ただ飛ぶだけじゃなくて、どこかの国の、何をするか分からない相手に向かって行くんですもんね。そのために大変な訓練を続けて……。きっと、同じ空を見ていても、須田さんが感じるものと私が感じるものでは全然違うんだろうなぁ……」
そう言って頭上を仰いだ彼女につられて、俺も目を上げた。
高く、抜けるように澄み切った空――俺にとって、そこは常に挑戦の場だった。最低限の資質と適性に欠けることがないのなら、自分が持てる力を最大限に使い、追求する――どこまで掴み取ることができるのか、どこまで己の能力は及ぶのか、そして得たものをどこまで有意義に生かすことができるのか。
あの空は、たとえ身を削るような思いをしてでも挑む価値のある場だった……。
不意に、寒々とした虚脱感に捕らわれる。
「――でも、もう飛べないかもしれません」
口をついて出た呟きに、彼女がはっと息を止めたのが分かった。
同時に、そんな悲観的な気持ちを漏らしてしまった自分に驚き、狼狽する。言うべきことではなかった。余計な気を遣わせてしまうに違いない。
「あの……ごめんなさい、私、色々と無神経なことを……」
身を縮めるようにしておずおずと俺を見つめ、ハルカさんが口ごもる。
「いえ、気にしないでください」
俺は努めて笑みを見せた。それでもまだ気遣わしげな表情の彼女を見て、僅かに躊躇ってから続けた。
「――今回の事故で、肺を傷めてしまって……。バイクで走っていたら、道端にいた子どもが急に飛び出してきて、とっさに避けた拍子に派手に転倒したんです。その時に肋骨を幾つか折って、肺もやってしまったようで。元の職場に戻れるかどうか、まだはっきりしないんです……。それでも、怪我をしたのが自分だけで良かったと――そう思っているんです。危うく子どもを跳ねるところだった」
口にした言葉が自分に対する欺瞞であることは自覚していた。
――何で。何でこんなことに。どうして俺がこんな災難に見舞われなければならないんだ。これまで多くの時間と努力を費やして、ようやくここまで到達した。一心に力を注ぎ、あと少しで、あと少しで目標だったものにたどり着けるはずだった。それなのにどうして……!
あまりの理不尽さに呻き、不運を呪い、歯軋りして罵りたくなるような悔しさと、盤石の意志で積み重ねてきたものがいともあっけなく崩れ落ちたことに対する茫然自失の思いと、自身の努力ではどうにもならないことへの焦りと不安と――それらは事故直後も、そして今も、処理しきれない重苦しさとなって胸の内に渦巻いている。
だが、起こってしまったことは仕方のないことなのだ、相手を傷つけなかっただけも幸いと思うべきなのだ――そう考えて無理にも自分を納得させ、のたうち回る感情を抑えるしかなかった。
知らず知らずのうちに拳を固く握りしめ、奥歯を食いしばっていた。険しい目つきになっていることも分かった。自分の横顔にハルカさんの眼差しが注がれているのを感じる。
枯れ葉が視線の先で頼りなく舞い、微かな音を立ててアスファルトに転がった。
俺はゆっくりと深く息を吸い込み、荒れる心をどうにか落ち着けてから口を開いた。
「すみません、こんな話を――」
彼女の方に目を戻し――思わずぎょっとして言葉を失くす。
ハルカさんが俺をじっと見ている。
その大きな目は、今にも零れそうなほどの涙で潤んでいた。