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癒し(3)

 ハルカさんの問いに「はい」と答え、俺はつい苦笑した。

 お節介な使命感をみなぎらせた根岸老人の顔が思い浮かぶ。先日言葉を交わした際に知り得た事を、漏れなく、ともすると余計な色までつけて彼女に話して聞かせたのだろう。


「確か土浦に駐屯地がありましたよね。やっぱりこういうこと、やるんですか?」


 ハルカさんが腕を上げて自分の胸の前で交互に動かす。どうやら匍匐(ほふく)前進のことらしい。彼女は至って真面目にやっているのだが、その動きがいかにも素人的で、俺は思わず笑ってしまった。そしてやんわり訂正する。


「いえ、殆どそういうことは――自分は陸ではなく空の方なので」

「じゃあ、ええと……そうだ、百里にある飛行場ですね!」


 俺が頷くと、彼女は興味津々といった表情になって続けた。


「空っていうと、飛行機を操縦したりするんですか?」


 部外の相手に航空自衛官だということを告げると、大抵「パイロット?」という反応が返ってくる。どうやら「空自の人間なら飛行機を飛ばせる」というステレオタイプな思い込みが漠然とあるようだ。航空機に乗る者より、それを支える者の方が遥かに多いのだが。

 しかし、その点を説明してから「でも自分はパイロットです」と明かすのも自己顕示的な気がして、更には自分が今現在置かれている状況もあって、俺は曖昧に頷くだけに(とど)めた。


 それでも、彼女にとっては新鮮な驚きだったらしい。感嘆の声を上げて身を乗り出す。


「どんな飛行機に乗ってるんですか?」

「F-15という戦闘機です」

「戦闘機!」


 彼女は更に目を瞠った。一生懸命イメージを思い浮かべようとしている様子だ。軍用機に興味を持ったことがなければすぐに想像できないのも当然だろう。

 それ以上の詳しい説明は控えることにして、彼女の反応を待つ。


「私の家、霞ケ浦のすぐそばなんです。よく灰色や緑っぽい飛行機が何機か一緒に通ったりするのが見えるんですけど、ああいうのですか?」


 もしかしたら彼女が言っているのはF-15ではなく偵察航空隊のF-4の方かもしれないと思ったが、細かい点には触れずに頷いた。


「そうです。ちょうどあの辺りは飛行ルートに入っているので」


 機上から見下ろす霞ケ浦周辺の景色を思い出す。

 遥か彼方まで広々と続く関東平野。二つの峰がそびえる筑波山の他にはほとんど起伏のない台地に、広大な湖が満々と水を(たた)えて横たわる。湖上には漁にあたる小船がぽつぽつと浮かび、水面(みなも)にきらめく陽光はヘルメットのバイザー越しにも眩しく映った。毎年、春が近づき湖岸沿いに広がる水田に水が入り始めると、光は更にそこかしこに散り、あたりの様子はなお一層明るく活気づく。夏の頃になると休日には帆曳船(ほびきぶね)の姿も加わり、スクランブルを終えて帰投してくると、大きな白い一枚帆に風をめいっぱい孕ませて湖面を進む光景を目にすることもあった。


 上空を通過するのはほんの僅かな間だが、眼下に広がるのどかな田園風景の中に、もしかしたら彼女がいたかもしれない――そう思うと不思議な気がした。


「じゃあ、私が見た飛行機に須田さんが乗っていたかもしれないんですね!」


 ハルカさんが弾んだ声を上げる。


「今まで特に気にしたことがなかったですけど、これからは目にする度に『もしかしたら須田さんが乗ってるかも』って思ってワクワクできそうです! 思いっきり手を振ったら上から見えますか?」


 あの辺りの通過高度では、往来する車程度ならまだしも、人の判別はさすがに難しい。しかし彼女の顔はもう、機会があったら手を振ろうという意気込みで輝いていた。

 楽しそうな彼女を見て、俺もつられて微笑んだ。


「今度飛ぶことがあれば、ハルカさんを探してみます」


 もしまた飛べるのであれば……目を凝らして見てみよう。ひょっとしたら本当に、こちらを見上げて満面の笑みで大きく両手を振る彼女を見つけられるかもしれない。そうしたら俺は、翼を振って応えよう――。


 非現実的なことは承知している。だが、空と地上との間で交わすささやかなやり取りを想像すると、仄かな幸福感を覚えた。


 隣で彼女が深く息をつき、微かに夕暮れの気配を含みはじめた空を仰いだ。


「飛べるって、本当に凄いなぁ……。私なんかにしたら、こうやって空を見上げて綺麗だなって感じることしかできないのに、そこへ自分の力で飛んでいけるんだもんなぁ……」


 感慨深げにそう呟いて、再び俺に屈託のない眼差しを向ける。


「戦闘機に乗りたいと思ったきっかけって、どういうものだったんですか?」


 俺は一時(いっとき)考えに沈んだ。過去の記憶を手繰(たぐ)りつつ、戦闘機乗りの道へと駆り立てた想いを――今も変わることはない想いを口にする。


「自分の力を試したい――その一念でした」


 その考えを持つに至ったそもそもの動機は、親への反発心だ。

 物心ついた時には既に、俺は両親が敷いたレールの上を従順に進んでいた。「勉強はしっかりやれ。学歴は大事だ。大学も就職先も一流を目指せ。そうすれば申し分のない社会的地位を得られ、充実した人生を送ることができる」――幼い頃から繰り返し言い聞かされてきた言葉を、そういうものだと何の疑いもなく信じていた。


 小学校の頃には同級生から、「お前んちって金持ちなんだろ。お父さんもエリートだって? 凄いよな」と言われることも多かった。

 当時はまだ祖父の名義だったとはいえ都心の一等地に一戸建ての広い持ち家があり、両親共に最難関と言われる国立大学の大学院卒という学歴、父親は大蔵省のキャリア官僚、学者や中央省庁の役人が多い家柄……今思えば、同級生の親たちが交わす世間話の中で、我が家の事が口の()にのぼることもあったに違いない。その横で無邪気に遊びながらもしっかりと話を耳に入れていた同級生たちが、大人同士の会話をそっくりそのまま、他意も気兼ねもなく俺に言ってきたのだろう。

 俺はそう言われることを取り立てて嫌とも思わなかった。彼らが言うとおり、確かに自分の家は周りと比べて裕福なのだろうと思っただけだ。そして何不自由のない生活ができているということは、常々両親が口にする「学歴こそ大事」というのは正しい事なのだと、ごく素直に信じていた。


 しかし、「お前のためだ」と諭して自分たちと同じ道を進ませようとする背後に、親自身の体面やプライド、虚栄が濃く入り混じっていることに気づき始めた頃から、両親の言動に不信感と反発を覚えるようになった。


 我が子が家風に外れるようなことがあってはならない、知識階級に属する者として恥ずかしくない職業に就いてもらわねば困る、まかり間違っても他人から見下されるような仕事を選ばせるわけにはいかない――親自身の歪んだエゴの押し付けと、狭量で傲慢な考えに我慢ならなかった。反吐(へど)が出そうなほど気に食わなかった。そんな時だ――。


「本屋で何気なく手に取った雑誌に戦闘機パイロットの特集があったんです。記事を読んで、頭だけでは決して勝負できない、体力も精神力も共に必要とされる仕事だと知って、これだと思いました」


 それからというもの、図書館に通いつめて関連する書籍を読み漁り、自衛隊の一般向け案内窓口である地方連絡部の募集事務所を頻繁に訪れては話を聞いた。何度かは基地や駐屯地を見学する機会も得た。仔細に調べ、詳しく知るようになるにつれ、志はいっそう強固になっていった。


 航空自衛隊の飛行要員は防衛大学校や一般大学からも目指すことができる。しかし俺が注目したのは、高卒で受験資格を得られる航空学生という採用枠だった。空自パイロットの大部分を占め、主となって防空の最前線を支えているのが航空学生出身者であるという話に、俺は航学こそ挑むにふさわしいと奮い立った。


 仕事で不在がちな父親が家にいる僅かな機会をとらえ、進路についての意志を両親に明かすと、当然のことながら猛反対を受けた――いや、「猛反対」というほど激情を露わにされた訳ではない。怒鳴り散らされることも、涙ながらに懇々と説き伏されることもなかった。問答さえも一切なく、ただ、短慮な限りだと冷淡に一蹴された。それでも自分の意志を突き通すつもりで食い下がると、父親は蔑むような目で俺を見て傲然と言い捨てた。


『お前が自衛官になったら家の恥だ』


 どんなに学力が低かろうが、入隊試験の答案用紙に自分の名前さえ書ければ合格できるようなところ、社会からあぶれた人間たちの吹き溜まり――それが、自衛隊という組織に対して親世代の多くが抱く認識だった。自分たちの息子がそんなろくでもない(・・・・・・)集団の一員となるなど、両親にとっては到底許容できるものではなかったのだ。


 親の反応は予想していたとおりのものだったが、侮蔑の態度であしらわれたことで俺はなおさら意地になった。そしてよりいっそう奮起した。

 必ず合格してみせる。親の出身大学にも、航空学生にも。そして大学を蹴って自衛隊に入るのだ。それなら少しは親も世間に対して体面を保てるだろう。我が子が自衛隊に入ったとしても、「あの子は知力学力に欠けるようなことは全くなかったのだ。行こうと思えばどんな大学にも進めたのだ」と体裁ぶることができるのだから――皮肉めいた気持ちで当時の俺はそう考えた。


 今にして思えば子どもじみた反抗心だった。今ならどうするだろうか。親と話し合う場を設け、努めて冷静に根気強く、理解を得ようと試みるだろうか。


 いや――即座に否定した自分に、醒めた(わら)いが湧いてくる――相談することも決意を伝えることも、当てつけに大学を受験することもなく、「自衛隊に入るから」とだけ言い置いて家を出ただろう。あの両親と分かり合えるとは思えない。価値観が違い過ぎる。


 記憶を遡り(すさ)んだ気分に囚われかけた時、ハルカさんの溌溂とした声で我に返った。


「自分自身に挑戦してみたいって思う気持ち、よく分かります。私、陸上で長距離をやってたんですけど、本番ではどれだけタイムを縮められるか、どこまで力を出し切れるか、毎回が挑戦でした。しんどくても踏ん張って続けてきたことが結果に繋がった時の達成感や充実感は格別ですよね!」


 真っ直ぐなひたむきさがあふれる口調で、彼女は力を込めてそう語る。その明るく朗らかな笑顔に、強張った感情が緩やかに解れてゆくのを感じた。笑みが漏れ、ハルカさんの言葉にゆったりと頷く。


 彼女がはたと真顔になった。


「でも、私の経験と比べたら須田さんが挑戦されていることはスケールが全然違いますよね。毎日こつこつ努力して訓練を重ねて、自分を鍛えることがそのままこの国を守る力に繋がっているんですもんね……」


 神妙な面持ちで、しきりに「凄いなぁ」と呟いている。そんな彼女の率直さが微笑ましく、俺はまた少し笑って穏やかに答えた。


「そこまで特別なことではないです。人それぞれ挑戦しようと思うものは違っても、何より大事なことは、やろうと心に決めたことを実行に移す行動力とそれを続ける意志、そして不断の努力だと、自分自身は思っています。だから、ハルカさんが長距離走に取り組む時の真摯な気持ちと、自分が訓練に臨む時の気持ちに変わるところはないと思いますし、やっていることに優劣はないと思いますよ」

「それでも、須田さんのお仕事は命に関わることもあるでしょうし、やっぱり訓練にしても真剣味が違うんでしょうね」

「もちろん――」


 これまで十年近くもの間、日夜専心してきたことを思い起こす。


「――万が一にも交戦という事態になった時には、技量や判断力が自分の命だけでなく部下の命をも左右するので、たとえ訓練であっても求めるものに妥協することはありません。訓練でできないことが実動の際にできるはずはないですから。平時ではそこまで緊迫した状況には至らなくても、例えば緊急発進で上がって他国の軍用機に対処する時などは一歩間違うと外交問題に繋がる可能性もあるので、ひとつひとつの手順や行動を間違いなく確実に実施できるよう、平素から訓練を通して頭と体に叩き込みます――でも、どんな訓練であっても『これで良し』と満足できることはないので、とにかく反省と研鑽を繰り返す毎日です」


 ハルカさんは息を詰め真剣な眼差しで聞き入っていたが、俺が話を終えると感心したように大きな溜息をついた。


「本当に、責任の重い、厳しいお仕事なんですね……。普段私たちがのんびり不安もなく暮らせるのも、見えないところで頑張ってくれている方たちがいるからこそですよね……。緊急発進のこと、前にテレビのニュースでやってました。その時は『空の上ではそんなことが起こっているんだぁ』って、まるで他人事(ひとごと)のように観てましたけど……実際にそういうお仕事に携わっている方からお話を聞くと、間違いなく現実のことなんだって実感できます」


 難しい顔になって考え深そうにしていた彼女は、ふとまた目を上げると窺うように俺を見て、幾分声を潜めて続けた。


「須田さんも他の国の軍用機の近くまで行ったことが……?」

「はい」


 俺が淡々と頷くと、彼女は大きな目をいっそう見開いた。


「どんな国の飛行機を見たことがあるんですか?」

「そうですね……まあ、周辺各国様々です」


 スクランブルの対象となった航空機の内訳については都度の報道発表や年度毎の防衛白書で公にされるので、全てが秘という訳ではない。とは言え、現場のことを得々と話して聞かせるのも何となく(はばか)られる。


 曖昧な笑みで言葉を濁した俺を困惑気味に見つめ返していたハルカさんは、しかしすぐに察したようだった。「あっ、もしかして秘密なんですね!」と、いたく感じ入った様子で合点(がてん)して話題を変えた。




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