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癒し(1)

 ニュースと天気予報を知りたいと思ってつけたテレビからは、大して興味も湧かない番組が流れていた。

 普段はテレビ自体なくても支障のない生活をしているので、土曜の午後というこの時間帯にどんな番組がやっているのか意識することもなかったが、チャンネルを切り替えてみても画面に出てくるのは再放送らしいサスペンスドラマや旅番組の類ばかりだった。敢えて見ようと思えるほどのものでもなく、ニュースが始まる気配もなかったのですぐに消してしまった。


 リモコンを置き、暇に任せてこれという目的もなく病室を出る。

 新聞は朝一番に売店に買いに行って隅々まで目を通し、数日前にアディーが差し入れてくれた小説や料理の本もとうに読み終えてしまっていた。洗濯や花の水替えなど、僅かばかりのやるべきことを済ませてしまった今、時間だけが有り余るほどあった。


 廊下の窓からは、湿度の低い冬の関東らしい澄んだ青空が見渡せた。大通りを行き交う車や立ち並ぶ家々の屋根を陽の光が明るく照らしている。近くの木々の梢がまったく動かないところを見ると、風はないようだ。穏やかな陽気に思えるが、空気は冷たいのかもしれない。道を歩く人々は厚手の上着を着こんでいる。七分袖の入院着でも問題なく過ごせるほどに暖房が効いた院内にいると、季節感に疎くなりそうだ。


 不意に、人工的に暖められた空気に息苦しさを覚えた。


 俺は踵を返すと足早に一階に下りていった。外来の患者で混み合うロビーを抜け、エントランスに向かう。

 自動ドアが開いた途端、ひんやりとした空気が流れ込んできた。屋外に出て駐車場脇の通路を歩きながら、日本海側の地方では初雪が観測されたと今朝のニュースで言っていたのを思い出す。薄手の入院着ではさすがに肌寒く感じたが、それでも潔い冷涼感のある空気を吸い込むと気分が紛れた。


 病院の建物沿いに置かれたベンチに腰を落ち着け一息つく。エントランス付近からは離れているために人通りは殆どなく、ひっそりとしている。病院前の高架道路を車が走り過ぎてゆく度に、騒々しい音がここまで響いてきた。遠くで救急車のサイレンが鳴っていたが、それは徐々に大きくなり、やがて赤色灯を閃かせた車両が別棟の救急搬入口に横付けされるのが見えた。


 そんな喧噪の(はざま)に、ふと航空機のエンジン音を聞いた気がして空を仰いだ。青空をバックに長く白い雲を曳き、陽の光を受けて輝く小さな機影がひとつ――それはもちろん旅客機だった。


 ここ土浦の上空は、百里基地を離着陸する自衛隊機の飛行ルートには入っていない。そもそも今日は土曜で飛行訓練はない。そんなことは当然承知しているが、それでもつい、空の中に見慣れたF-15の姿が現れないものかと当てもなく視線を彷徨わせてしまう。しかし、見上げる空はとても遠く、澄み渡った青さが――今まではキャノピーを通してすぐ目の前に広がっていたその青さが――今は酷くよそよそしいものに思えた。


 リバーもこんな気持ちで空を見上げていたのだろうか……。


 不運な事故によって二度と飛ぶことができなくなった先輩のことが思い浮かぶ。

 不可抗力とは言え、自分の意志に依ることなしに、長年歯を食いしばって積み重ね、掴み取り、アイデンティティーとしてきたものを否応なしに手放さなければならないというのは、何と残酷なことか。不気味に開いた深い穴の際に立たされ、その深淵から目を逸らすことも許されず、今にも崩れ落ちそうな足場の上で立ちすくんでしまうような恐怖……。


 その感覚をまざまざと身の内に覚えて、黒々とした穴の底から吹き上げてくる風に容赦なく体を弄られているような錯覚に囚われる。


 ……いや――俺はいつの間にか握りしめていた両の拳を意識して開いた。手のひらにはじっとりと汗が滲み、指先は冷たくなっていた――考え過ぎるな。事態はそこまで悪くはないはずだ……。


 身体機能の不可逆的喪失という訳ではないので、依願退職という形で自衛隊を辞めさせられることはまずないだろう……客観的に考えても、現状であれば操縦特技の取り消しまでには至らないだろうとは思う。だが、治癒の程度によってはF転――戦闘機を降りて輸送機や回転翼機に機種転換となる可能性はある。

 覚悟は、しておくべきかもしれない……。


「――須田さん……?」


 どこからか名を呼ばれて我に返る。顔を上げると、少し離れたところに立っている小柄な女性が目に入った――ハルカさんだった。


 俺と目が合ったハルカさんは安堵したように微笑むと、ベンチのそばまでやってきた。シンプルなアノラックにカーゴパンツという機能的な格好で、いつものように重そうなトートバッグを肩に掛けている。


「こんにちは。さっき病室に顔を出してきてこれから帰るところだったんですけど、須田さんの姿が見えたので――お散歩ですか?」

「はい、天気がいいのでリハビリがてらに」


 当たり障りなくそう答えて笑みを見せようとしたが、つい今しがたまで息詰まるような思考に陥っていた自分の表情がまだ強張ったままなのが自覚できた。


 彼女が気遣わしげに俺を見る。


「でも、そんな薄着だとさすがに寒くないですか? 上着とか、羽織ったほうが……」

「救急車で来たので、入院の準備もちゃんとできなくて」


 やるせない思いが再び蘇り、視線を落として苦い笑みとともに弁明気味にそう言うと、「――あっ、それなら……そうだ……これを――」と彼女が呟くのが聞こえた。大きなバッグの中を探る気配に目を上げると、彼女が一枚のブランケットを取り出したところだった。


「肩に掛けるだけでも違いますから。良かったら使ってください」


 いえ、大丈夫ですから――そう言おうと口を開きかけた俺は、覚えのある柔らかな香りを鼻先に感じて言葉を飲み込んだ。彼女の手で広げられたブランケットが俺の背中に回される。すぐ間近にハルカさんがいた。不意に狭まった彼女との距離にたじろぎ、思わず目を伏せる。


 華奢な手が、フリンジのついた深緑色の布の端を俺の胸の前で丁寧に重ね合わせた。一枚だが、大判のブランケットに(くる)まれると確かに暖かかった。


 俺は急に詰まったようになった喉からようやく礼の言葉を絞り出した。彼女は屈託ない笑みで頷いたが、唐突に思い出したことでもあったのか、可笑(おか)しそうにくすりと笑って口を開いた。


「そう言えば……母に、須田さんのこと聞かれました」


 数日前にたまたま顔を合わせた中年女性のことを思い出す。

 なるほど、母親にしたら年頃の娘が素性の分からぬ男に親切にしているらしいことを知ったら、気になるのも当然だろう。


 ハルカさんと母親の間でどんな会話が交わされたのか気になったが、彼女は楽しそうな顔をしたままそれ以上詳しくは話さなかった。そして再び何かを思いついたように訊ねてきた。


「須田さんは、ご結婚は――?」

「いえ、まだ独り身です」

「じゃあ良かった」


 笑顔で言われたひと言にどきりとする。適切な相槌も打てぬまま、目の前に立つ彼女を見上げる。

 もちろんハルカさんに他意はないのだ――他意はないに決まっているのだが……どういう意味だろうか。


 内心動揺する俺に気づくはずもなく、彼女は朗らかな口調で続けた。


「同じ病室の方たちが須田さんは独身だって言ってたんですけど、ベッド脇の棚の上に可愛らしい置物や折り紙が並んでいるのがちらっと見えて、もしかしたらお子さんがいらっしゃるのかと……」

「あれは、見舞いに来てくれた人の子どもたちが作ってくれたものなんです」

「そうだったんですね。もし結婚されてるんだったら、お花なんかあげたらかえって迷惑だったかもしれないって、ちょっと心配してたんです」


 ああ、そういうことか――よく分からない吐息をついた俺の前で、彼女が急いで言い足す。


「あの、もしご迷惑だったらそうおっしゃってくださいね」

「いえ、迷惑なんて、そんなこと思ってもいないですよ。花があると気分が和みます」


 気を取り直してそう答えた俺に、ハルカさんは「良かった」ともう一度嬉しげに呟いてにっこりと笑顔になった。

 彼女が重そうなバッグを肩に掛け直すのを見て、俺は今更ながらに体をずらし、広く空けたベンチの片側を彼女に勧めた。


「もし良ければ、ここ――どうぞ」


 若干緊張してぎこちない言い方になってしまったが、ハルカさんははにかむように微笑んで軽く頭を下げると、バッグを抱えて俺の隣に腰を下ろした。




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