助言(2)
「すみません、先輩。金曜の夜なのにわざわざ来てもらって……」
そう言って頭を下げた俺に、リバーはいつもの気のいい笑顔を見せた。
「そんなこといいんだよ、気にするな。ここ何日か仕事で遅くなることが多くて顔出せなかったから、様子見に来たかったんだ――体調の方はどうだ?」
俺は退院が月曜に確定したことを告げ、私服やスポーツバッグをアパートから持ってきてもらえないかと頼んでみた――事故当日に身に着けていた服は救急処置のために細切れにされたらしく、一応まとめて身元引受人のリバーに渡されたということだったが、もう使い物にならないので処分してもらっていた。
退院日の前日までには持ってくると請け合ったリバーは、「あ、そうだそうだ」と膝の上に置いていたショルダーバッグを思い出したように引き寄せた。
「今更な感じだけど、これな――」
バッグの中を探り、膨らんだ茶封筒を取り出す。
「うちの子どもたちがお前にって」
リバーから手渡された封筒の中身を引き出してみると、飛行機や何かの形に作られた折り紙が幾つも出てきた。角はきちんと合わさっておらず、余計な部分に折り目がついていたり皺になっていたりしたが、一生懸命に折ってくれたということはよく分かった。
その中に単に四つ折りになっているだけの色紙があった。広げてみると、裏側に字が書かれている。
『ジッパーのおじちゃんへ。早くげん気になってね。またあそんでね。ゆう太ろう』
もう一枚、同じように折られた紙があった。こちらはピンクのハートのイラストが周りを囲む便箋だったが、そこには大きさも不揃いなたどたどしい文字で『おじちやん はやく よくなてね また あそびに きてね おさけも いぱい のんでいいよ のぞみ』と書いてあった。
一文字一文字目で追っていき、「お酒もいっぱい飲んでいいよ」の箇所で思わず口元が綻ぶ。きっと利根家の子どもたちの中で俺は酒飲みというイメージで定着しているのだろう。
封筒の中にはまだ何か丸みのあるものが入っていた。手のひらに受けてみると、転がり出てきたのはドングリだった。丸い形をしたものが二つと、細長いものがひとつ。三個の実にはそれぞれマジックで顔が描いてあった。丸いものはどちらもにっこりと笑った表情で、細長い実の方は目も口も眉も一本線の顔だった――いや、口の線は辛うじて笑っているように見えなくもない。
「そのドングリな、希美が幼稚園で拾ってきて作ったんだと。勇太郎と希美とお前だって。子どもって案外よく見てるもんだと感心してなぁ……お前の顔とか、結構似てると思うんだよ」
可笑しそうにリバーが言い添える。
やはり自分はこんな不愛想な顔に見えているのかと当惑する部分はあるものの、わざわざ作ってくれたと思うと純粋に嬉しかった。座卓の上いっぱいに折り紙や色ペンを取り散らし、兄妹ふたりでわいわい騒ぎながらあれもこれもと作る様子が目に浮かぶ。
俺は素朴なプレゼントを花瓶の周りにひとつひとつ置いていった。折り紙のカラフルな色彩が加わって、キャビネットの上が途端に賑わいを見せる。最後に、一番手前にドングリを並べた。
俺の手元をにこにこと見ていたリバーが思い出したように口を開いた。
「そうそう、金ちゃんは元気にしてるぞ」
「金ちゃん……?」
振り返った俺に、リバーが頷いて続ける。
「預かってるベタ、勇太郎が『金魚の金ちゃん』って勝手に名前つけて、張り切って世話しててなぁ。『僕はクラスで生き物係やってるから任せてよ!』って――あっ、でもちゃんと俺が監督してるから心配しなくて大丈夫だぞ」
金ちゃんという名前につい笑ってしまった――自分では特に名前は付けていなかったのだが、随分と江戸前な呼び名にしてもらったものだ。一応ベタは熱帯魚なのだが。
「何でか知らないけどすっかり気に入ったみたいで、『金ちゃんひとりで寂しそうだから、お嫁さんを見つけてあげたい!』ってメスのベタを欲しがるし、暇さえあれば餌をやりたがるしでなぁ……お前のところに戻る頃にはまん丸になってるんじゃないかと心配してたけど、あと二日で退院できるなら大丈夫そうだ」
リバーの話を聞くうちに、飲みに誘われて官舎の部屋に招かれた時の記憶が蘇ってきた。
来客に興奮し、部屋の中ではしゃぎまわる勇太郎君と希美ちゃんの元気な笑い声。子どもたちに目を配りつつ台所に立って料理を作る合間に、俺とリバーの話に笑顔で相槌を打つ聡子さん。波状攻撃でちょっかいを出してくる子どもたちに大雑把に応じながら、機嫌よく酔っぱらって饒舌になるリバー……。
微笑ましい光景が思い出される。俺はキャビネットの上のドングリにもう一度目を向けると、穏やかな気持ちのままに呟いた。
「きっと毎日賑やかなんでしょうね……理想の家庭ってこういうものなのかと、先輩のお宅にお邪魔する度に感じます」
俺の言葉にリバーは眉を上げた。
「そうか? いつもいつも騒々しい事この上ないぞ? 子どもたちはちょっとしたことでワーワーギャーギャー喧嘩始めるし、俺だってしょっちゅう聡子からチクチク言われたりしてるしなぁ」
苦笑を見せながらもまんざらでもなさそうにそう言ったリバーは、ふと意味深長な笑みを滲ませた目で俺を見た。
「でもお前も――いい出会いがあったんじゃないのか?」
やっぱり聞き及んでいたんだな――話を振られ、イナゾーの顔が思い浮かぶ――まったく、口の軽い奴め……。
諦め気分で曖昧に笑い、「いえ、そんな……出会いというほどのものでは……」と言葉を濁す。
「気になる娘がいるなら、積極的にアプローチしていけよ」
笑みを含んだ声で畳みかけるようにそう言われ、俺は目を伏せて考え込んだ。
「……よく、分からないんです。本当に――自分でもよく分からなくて……」
ハルカさんのことが気になっているのかと問われれば、頷かざるを得ないだろう。だが、だからと言って「アプローチを」と勧められると、たちまち気後れして二の足を踏んでしまう。
今までずっと一人でやってきたために、仕事の繋がり以外の誰かと――それも異性と――積極的に関ろうという考えも、その方法も浮かばなかった。そもそも、彼女と特別な関係になりたいと望んでいる訳ではない。俺はただ……入院中のこの限られた時間の中だけであっても、彼女が生き生きと目を輝かせて話し、楽しそうに笑う様を見ていられれば……多分、それで満足なのだ……。
顔を上げると、リバーが感慨深げな面持ちで俺を見ていた。「まさかこんなジッパーを見ることになるとはなぁ」と、嬉しそうに目を細めて独り言ちている。先輩の眼差しに決まり悪くなって、俺はまた目を逸らせた。
「月曜に退院だろ? 連絡先、訊いたか?」
「いえ……そういうのは……。軽い気持ちで訊くのもどうかと思って……」
俯いたまま口ごもると、苦笑まじりの溜め息が聞こえた。
「ジッパー、お前、どうせまた小難しく考えてるんだろ」
その指摘に何とも返答できずに黙り込んでいると、業を煮やした声で「なぁ、ジッパー」と再び呼ばれた。こちらに向かって身を乗り出したリバーが大袈裟に眉を寄せる。
「考え過ぎるなって! 何でも四角四面に捉えすぎるのはお前の悪いところだぞ。もっと肩の力を抜いてみろ」
同部屋の患者たちを憚ってか、声音を抑えながらも懇々と続ける。
「もうあんまり時間がないかもしれないけど、とにかく機会を見つけて話をしてみろ。ちょっとでも気持ちが惹かれるようだったら連絡先を教えてもらえ。相手のことが好きなのかどうなのか、厳格に白黒明確にさせてからじゃないと声をかけちゃいけないなんてことはないんだから。何度か接するうちに相手に対する気持ちがだんだんはっきりしてくるだろうし、そうなった時に改めて自分がどうしたいのか、お前自身の胸に訊いてみたらいいんだよ――いいかジッパー、頭に訊くんじゃないぞ、胸にだからな」
リバーは至って真剣な目で、ひと言ひと言、噛んで含めるように続ける。
「それが自覚できたら、後は全力で、真摯に向かっていけ。言葉にしてきちんと伝えるんだぞ。これぞと思った相手なら絶対に諦めるな」
どんな時でも親身に心を砕いてくれる先輩からの助言はありがたかった。俺は謹んで聴いていたが――この後、たったの二日でハルカさんと接するきっかけをどう掴んだらいいものか。漠然と考えを巡らせる側からもう、混乱して頭が飽和してくるような気がする。
情けない心持ちになって目の前の先輩を見つめると、リバーは呆れたように頭を掻き、盛大に息を吐き出した。
「まったく――初歩的すぎて、何だか初心な中学生にアドバイスしてる気分になってきた……。いや、今時分の中学生の方がその辺はよっぽど達者かもなぁ」
……恐らくそのとおりだろう。




