助言(1)
翌日――午後の外来受診患者の出入りが落ち着く時間帯に差しかかった頃、看護師から診察があることを告げられた。指示されたとおり先にレントゲン撮影を済ませ、フィルムの入った大判の封筒を持って診察室を訪れた。
画像に目を通した担当医は手術創の状態も確認して聴診まで終えると、カルテに走り書きしながら「月曜日に退院ということでいいでしょう」と晴れやかな口調で言った。
週明けには退院できるだろうという見込みは聞いていたものの、月曜と聞いて俺は幾分途惑った。単調で代わり映えのない入院生活を送るうちに、日付感覚がすっかり希薄になっていた。読影用の光源装置の横には製薬メーカーの社名入りカレンダーが貼られていたが、そこに並ぶ数字を注意深く辿ってみて初めて、今日が金曜で、しかも11月もまもなく終わることに気がついた。
あと二日で退院か……。
診察室を辞し、いつものように階段を使って病棟へと戻りながら、ここで過ごした日数をもう一度数えてみる。事故からまだ一週間ほどしか経っていない。こんなところでのんびりしている訳にはいかないという焦りともどかしさに苛まれる一方で、ベッドの上でやり過ごす長い時間の緩慢な流れに呑まれ、このまま延々と同じ日々が続いていくような錯覚に陥っていた。退院の期日をはっきりと告げられた際、うたた寝からはたと目覚めた時のような軽い驚きさえ感じたほどだ。
これでようやく、とりあえずは日常に戻れる。退院したらすぐにでもリハビリを兼ねてトレーニングを開始しよう。基地の衛生隊にも出向いて、航空身体検査に関して医官に相談しなければ――とにかく、出来る限り早く。
そう考えると無闇に気が急いて、一段一段を踏む足取りにも力が籠った。まだ幾らか残る痛みのために右脚を無意識に庇ってしまっているようで、階段が続く狭い空間に反響する足音には若干の左右差があった。それでも今までになく速いペースで病棟まで上る。胸の痛みと激しい息切れに喘ぎながらようやく歩いていた時のことを考えると、殊更に快復を実感できた。まだまだ本調子とはいかずに多少息は上がっているものの、今はもう大した困難は感じない。
薄暗い階段ホールを抜け、病棟の廊下に出た時――俺はふと足の運びを緩めた。
目の前に延びる廊下に夕暮れの気配を濃く含んだ陽の光が差し込み、行き来する看護師や患者の姿を斜めから照らしている。
不意に思い出す――そうだ……ハルカさんに初めて声をかけられた時も、確かこんな光景だった……。
あの時、自分は無下に彼女の親切心を突っぱねてしまった。彼女の困惑したような、それでいて気遣わしげな表情は今でもよく覚えている。まさかその後に言葉を交わすようになるとは、あの時は考えもしなかった。
夕日の差す廊下をゆっくりと歩きながら、彼女とのやり取りが自然と浮かんでくる。
余所見をして俺にぶつかってしまった時の驚き慌てた様子や、自分で作った歪な花瓶を持ってきた時の、少し恥ずかしげな笑顔。メロンを受け取って無邪気に喜ぶ姿――思い浮かべるだけでも不思議と和らいだ気分になってくる。
……ここを出たら、彼女と接する機会は恐らく二度とないだろう。退院するまでに、また、もう一度くらいは会えるだろうか……。
もしかしたら見舞いに来てはいないだろうかと、若干の期待を胸に病室に戻る。
俺と入れ違いに、空の点滴容器を持った看護師が部屋を出ていった。奥のベッドの方から漏れてくる軽い鼾が耳につく。手前のカーテンの中では根岸老人が寝返りを打ったのか、微かな布擦れの音が聞こえてきた。病室は黄昏時特有の気怠く安閑とした雰囲気になっていたが、見舞客の気配はなく、ハルカさんの姿も見当たらなかった。
つい落胆しかけた自分に気づき、努めて気を取り直す――もちろん彼女にも仕事があるのだから、そう頻繁にここを訪れるという訳にもいかないだろう……。
夕食を終えてからも、「あと二日」という言葉が奇妙にいつまでも頭の中を占めていた。退院日を待ち望み気持ちが逸る一方で、名残惜しさも湧いてくることに我ながら驚く。
日常に戻ってしまえば、もう彼女と再び顔を合わせることはない――。
キャビネットの上の小型テレビに繋げたイヤホンからは、ニュースを読み上げるアナウンサーの声が絶えず流れていた。しかし気もそぞろなせいか、報じられるニュースもとりたてて特別な印象を残さずに耳の中をただ通り抜けるばかりだ。
気が付くと、テレビの映像を追っていたはずの目はいつの間にかその横に置かれている生け花に向いていた。
今日も一応、器を洗って水を替えておいた。木瓜の枝には、丸くふっくらとした花が幾つかまとまって薄桃色の花弁を広げている。花の付け根に覗く若々しい緑の葉が目に映え、枝元に挿された紫苑の花の清楚な薄紫色とも相まって、花瓶が置かれた一角だけは穏やかで落ち着いた空気が漂っているようだった。
今日はもう、来ないのだろうか……。
「――ジッパー」
不意に背後から遠慮がちな声で呼ばれ、俺ははっと我に返って振り向いた。
半開きになったカーテンの間に私服姿のリバーが立っていた。
「いいか……? 入るぞ」
「あ、はい。どうぞ……」
ぼんやりと考えに耽っていたところにいきなり声を掛けられ、まごついたまま返事をする。呆けたように花を眺めている姿を折悪しく見られ、どことなくばつが悪い。
リバーは丸椅子に腰掛けてダウンジャケットを脱いでいたが、イヤホンを外しベッドの上で座りなおした俺のことを妙に真面目な面持ちでまじまじと見ている。
「――何ですか?」
「ん?……何か、お前……」
言いかけたリバーは思い直したように言葉を切ると、ふと笑みを浮かべて「いや、まあいいや」とはぐらかした。そして小振りの花瓶に挿された花に視線を向けると、「こういうの、いいな」と言い添えて屈託のない笑顔を見せた。
自分が意識しすぎているせいなのか、微妙に含みが感じられなくもないその言葉に、如何とも答えようがなく目が泳いでしまう。
もしかすると、イナゾーあたりがこの花に纏わる目撃談を早々とリバーの耳に入れたのかもしれない。ブリーフィングのために飛行隊を訪れたこの先輩を捕まえて早速耳打ちしたか、もしくはリバーがいる司令部までわざわざ出かけて行き、勇んで報告したか。
しかし目の前のリバーは改まってその件に触れるでもなく、温和な笑みを浮かべたままだ。
何も言わずに微笑むだけの先輩の視線に居心地が悪くなり、俺はとにかく話題を振ろうと、どうにか言葉を捻り出した。




