夢想
「兄ちゃん、昨日はメロン、御馳走さんな。美味がったよぉ」
昼も過ぎて面会時間が始まろうという頃、俺のパーテーション内に顔を出した老人が愛想よくそう言った。斜め向かいのベッドにいる患者で、確か根岸という名前だったと思う。いつも隣の患者や見回りに来た看護師を捉まえては、早口な方言でまくしたてるように世間話を始めるのだった。しかし入院しているということはやはり体のどこかが悪いには違いなく、皺やシミの多い肌は黄疸症状のためか黄ばんだような色をしていた。
石鹸やタオルを入れた洗面器を抱えた根岸老人は、「風呂、空いたがら」と言って入浴の順番を示すカードを俺に寄越した。そのまますぐに出てゆくかと思いきや、老人は好奇心を覗かせた目で無遠慮に俺のことを眺めまわしている。
「それにしでもお前さん、いい体しでんね。仕事、何しでんの?」
初めて言葉を交わすにもかかわらず、気安く馴れ馴れしい口調で問われ、俺は僅かに眉を寄せた。だが、年配者ということで一応は丁重な態度で応じる。
「自衛官です」
「あぁあ、なるほどねぇ! そりゃあ結構だ」
何が結構なのか分からないが、老人は大いに納得した顔つきでしきりに頷いている。そして目尻の皺を深くして意味ありげに目を細めた。
「兄ちゃん、あの娘――ハルカちゃんさ、ほんとええ子だよ。気立てええし、愛嬌はあるしさぁ」
突然何を言い出すのかと面食らっていると、根岸老人は妙に光る目に笑みを浮かべて俺を窺い、幾らか声を低めて勿体をつけるように続けた。
「前聞いた時にゃ、付き合ってる男はいねぇっで話しでだっげぇ」
そんなことまで知っているとは。あからさまに彼女に訊いたのか――驚き半分呆れ半分で目の前の話し手を見やったが、同時に、交際相手はいないらしいと聞いて安堵を覚えた自分に気づき、内心決まり悪くも思う。
何と相槌を打ってよいか分からず、俺は黙ったままだった。しかし老人は構うことなく薀蓄めかして続ける。
「男はどうしだっで若ぇうぢは派手で見てくれのええ女さ目ぇ行っちまうげんど、ほんとはああいう子がええ嫁さんになるんだよ。んだげんど、そういうのって、歳取んねぇど分かんねぇんだよな。俺だってもう四十も若げりゃ、ハルカちゃんに結婚申し込んだよ――」
「根岸さん、爺様が若モン同士の事さ余計な口出すんじゃねぇの」
唐突に部屋の奥から笑い混じりの嗄れ声が飛んだ。根岸老人の隣のベッドにいる患者で話仲間だ。名前は――何と言ったか。
水を差された根岸老人が反論する。
「だってよ、ちょうどいい感じだっぺよ。歳だって……兄ちゃん、幾つだ? 独身だろ?」
「まあ……」
「ほら、そんならいがっぺ? 何も問題ねぇべ?」
根岸老人が離れたベッドの相手に得々と応酬する横で、俺はこういう状況でどんな態度を取るべきか困惑していた。老人は風呂桶を抱えたまま、病室の出入り口を塞いでいることも構わずに無駄話に熱心になっている――その後ろから不意に声がした。
「こんにちはぁ、お邪魔しますよぉ」
にこやかに挨拶して病室に入ってきたのは、日に灼けた丸顔の中年女性だった。
訪問者を振り返った根岸老人が大仰に声を上げる。
「あれぇ? 今日はハルカちゃん来ねぇの?」
「ハルはお出かけ。仕事休みだからって随分早起きして鉄砲玉みたいに出かけてったよぉ。今日はこんなおばちゃんしか来らんなくてごめんなさいねぇ」
血色のいい頬を上げ、おどけた様子で笑いながらそう交ぜ返す婦人は、恐らくハルカさんの母親だろう。黒目勝ちの目元や楽しげに笑う表情がよく似ている。
「いやいやぁ、奥さんだって美人だがら嬉しいよぉ。母娘で別嬪さんだもん」と根岸老人は調子よく付け加え、また二人の笑い声が上がる。
同じ場にいて会話に入れない所在なさを感じながらも、何気なく発せられた「お出かけ」という言葉が気にかかる――休日に出かけるといったら、やはりデートだろうか……。
反射的にそう考えてしまってから、いや、根岸老人はついさっき男はいないと話していたではないかと思い直す。とは言え、特別な相手がいたとしても何ら不思議ではない……実際のところはどうなのだろう……。
「そうそう、昨日ハルカちゃんがメロンむいてくれで。この兄ちゃんが持っでだメロン、みんなで食べだんだよ」
一時考えに耽っていた俺は、根岸老人の言葉で話の輪に引き戻された。
「あらぁ、それじゃあ、うちのがお役に立てたみたいで良かったわぁ。でもあの子、きっとまたあれこれお喋りしてるんでしょ? うるさかったらそう言ってやってくださいねぇ」
ハルカさんの母親の気さくな笑顔が自分にも向けられたので、俺は咄嗟に「いえ……」と曖昧に返した。
彼女がふと俺の背後に視線を移す。何かに気を取られている様子だ。
自分の居室に珍しいものでもあっただろうか――つられて俺も振り向きかけたが、ハルカさんの母親はまたすぐに目を戻すと元のにこやかな表情に戻った。そして根岸老人と俺に「それじゃあ、どうもぉ」と朗らかに会釈して会話を切り上げると、去り際にもう一度俺の顔をしっかりと見てから奥のカーテンの中に入っていった。「お父さん、来ましたよぉ。具合はどう?」と優しく話しかける声が小さく聞こえてきた。
一瞬逸れた視線、あれは何だったのだろう……。
首を捻りつつ根岸老人とも別れた俺は、風呂道具を取り出そうとキャビネットの前で身を屈めた。その時、上に置かれたものに目が留まる。
白いぽってりとした花瓶と、今はもうしっかりと花弁を開いて生き生きと咲いている、素朴な季節の花。
ああ、そうか――そこでようやく合点がいった。きっとあの時、ハルカさんの母親はこの花瓶と花を捉えたのだ。
見覚えのある物を他人のベッド脇に見つけて一体何を想像したのか、気にならないでもなかった。だが、もしハルカさんが母親にそのことに関して訊ねられたとしても、単に祖父の同部屋患者の一人に余った花を分けたのだという返答で話は終わるだろう。それ以上どう答えようもないのだから。
そこまで勝手に結論づけた俺は、洗面器を引き出そうとしていた手を止めた。眉根を寄せてすぐに考えを改める。
いや――彼女が母親に何と説明しようがいいではないか。どうも自分はハルカさんのことを意識しすぎているようだ。普段、民間の異性と出会う機会も話す機会もほぼ皆無なために浮かれているのか……いい歳をしてみっともない。
何であれ、多少の顔見知りとなっただけで、ほんの幾許かでも彼女の頭の中に自分の存在を期待するなどというのは、不遜であり傲慢でもあり、自意識過剰だ。
自戒のつもりで己にそう言い聞かせると、病室を出て廊下の奥にある浴室に向かった。
今はほとんど人の行き来がなく静かな廊下に、自分のサンダルの底が床を打つ音が響く。
古びた蛍光灯の冷たい光が等間隔で灯る廊下は、病室のドアが並ぶばかりの殺風景な場だったが、突き当りの窓から日差しが入る奥の付近だけは陰鬱な雰囲気も幾分薄らいでいた。清掃係の女性が箒やバケツなどを載せたワゴンを押して、挨拶しながら病室の一室に入って行くのが見えた。
それにしても――根岸老人の無駄話を思い返すと、苦笑が浮かんでくる――付き合っている男がいるのいないの、いい嫁さんがどうのこうのと、随分と好き勝手に喋り散らしていたものだ。いったい体のどこが悪くてここに入院しているのかと疑いたくなるほどの活力だ。
『俺だってもう四十も若げりゃ、ハルカちゃんに結婚申し込んだよ』
あっけらかんとした老人の声が蘇る。
――結婚……。
今まで自分には縁遠く、平素思い浮かべもしなかった言葉だ。
気づけば俺も三十を過ぎた。同じ操縦職の人間を見ていると、二十代前半という比較的早い時期に結婚する者と、三十代以降に伴侶を見つける者と、そのどちらかに分かれる傾向があるように思う。考えてみれば、今現在も自衛隊に残っている航学同期四十数人のうち、多くはもうだいぶ前に結婚していた。吉報を聞いていないのはあと何人だったか。俺も含め、十人にも満たない気がする。
――所帯を持ったとしたら、一体どんな日常になるのだろう……。誰かと一緒に暮らすことになったとしたら……例えば、ハルカさんと……。
ついさっき自分を戒めたばかりだというのに、頭には自然と彼女を思い浮かべていた。
大して広くはない脱衣所に入って入院着を脱ぎ、一般家庭のものと大差ないユニット式の浴室に足を踏み入れながら、自分ひとりではない日々の暮らしに想像を馳せてみる。
……あのアパートの狭い部屋で生活を共にすることになったら……。毎朝、目を覚ませば隣に自分以外の存在がいるというのは、営内生活を離れて久しい今の自分からしたら不思議な感覚だ……。間違いなく朝は俺が先に出勤し、帰宅時間も俺の方が遅いだろう……帰った時には部屋に灯りがついていて、ドアを開ければ「お帰り」という明るい声と彼女の笑顔にほっと気が緩むのかもしれない……。食事は……彼女は料理ができるのだろうか? 不器用そうでもあるし、仕事をしていたら食事作りもままならないこともあるだろう……別にそれならそれで構わない。時間がある時なら俺が作ってもいい……。きっと彼女はその日一日の嬉しかったことや楽しかったことを一生懸命に話して聞かせてくれることだろう。もちろん愚痴も……。それでも、どんな話題であれ彼女の話に耳を傾け相槌を打ちながら共に過ごすひとときは、きっと穏やかで心地よいものに違いない……そして夜には……。
知らず知らずのうちに彼女との生活を際限なく、具体的過ぎるほどに想像している自分にはたと気づき、我に返る。突然速まった胸の鼓動を、強く、はっきりと意識して狼狽する。
何てことを考えているんだ。
俺はひとりで酷く赤面した。まさか自分がここまで夢想的になるとは考えてもみなかった。これまで常に現実だけを見据えて何事もこなしてきたつもりだったが……今の自分は明らかにおかしい。
力任せに水栓を捻る。頭上のフックに据えられたシャワーヘッドから勢いよく湯が迸り、たちまち浴室に湯気が立ち込めた。熱めの湯が煩わしく思えて、温度の調節ハンドルを無造作に引き下げる。
降り注ぐ水は髪を伝い、筋となって絶え間なく流れ落ちていた。その様を視界の中にぼんやりと捉えながら、俺は身じろぎもせず、ただ足元を流れ去ってゆく水の淀みない動きに目を当てていた。
再び同じ言葉が思い浮かぶ。
「――結婚か……」
シャワーの水音に紛れ込ませるようにして躊躇いがちに呟いてみたが、馴染みのない言葉の響きはまったく現実味を帯びることなく、幾分の寂寥感を伴って自分の耳に届いた。




