第一章 Ⅲ
そこは、典型的な地方都市といえた。元来は、山向こうからもたらされる農産物や日用品等と、近くに広がり主要な水源となっている湖の恵みたる魚介類との交換の場、市場だったのが発展、拡大したところだった。今日でも、その役割は定期的に中央広場で開催される市場が果たしてはいる。しかし、時の流れと共に他の街道の整備や運搬手段の発達等により、その規模は縮小しつつある。中央広場をほぼ南北に貫く大通りを少し外れれば、低層の、みすぼらしい建物がひしめき合う。それでも住人達は、日々を騒々しく、逞しく生きていた。
静かな裏道の、一軒の商店。軒先の、薬屋の看板が無ければ、商売をしているとは思えない。二階建ての、その付近では立派な建物ではある。二階の一室に、今その女性は居た。三十代であろうか、大人の女性の色香を漂わせた、メリハリのある体のライン。薄手の、スリットの入ったタイトなドレスが、それを際立たせていた。肩まである銀髪を一度掻き上げる。サラサラと、音がする様に流れ落ちた。しかし、その部屋は、その出で立ちにいささか不釣り合いな場所と思われた。ロッカー状の大きな鳥籠が置かれ、独特の臭気が鼻をつく。女性の胸の高さに設けられた幅の狭い棚。その前には、横に細長い網付きの窓があり、つい今し方そこから入ってきた一羽の鳥が、棚の上で翼を休めていた。白と灰色という、地味な配色のそれは鳩に似ていた。女性はそれを、右手の上に乗せた。その足に括り付けられた、小さな金属筒を取ると、鳥籠へ運ぶ。扉の一つを開け、中に入れる。
「疲れたろう、今、餌を与えよう」
近くのテーブルから、餌と水の入ったプレートを引き寄せると中に入れる。鳥は、それを食べ始めた。扉を閉じると、格子越しに暫くその様を見詰めていた。無事役割を果たした者へ向けられるべき、優しげな目で。
「お師さまぁー、ただいま戻りましたぁー!」
階下から、少し間延びした可愛らしい声が掛けられる。階段を上がってくる物音はしない。
「エレナか?今行く」
短く答え、部屋を後にした。声を掛けてきたのは、彼女の弟子でありこの薬屋の店員だった。二階には一切上がってこないよう、厳に言い含めてあった。危険な薬物等を保管してあるからと。実際にその通りだったが、それだけが理由でもなかった。鳩小屋に鍵をかけ、女性は階段を下りていった。
調合室に行くと、艶やかな黒髪をおかっぱにした少女が、そのスリムな体型には不釣り合いなナップザックから、小瓶や紙包み等を作業机の上に並べているところだった。愛嬌のある顔立ちに、そばかすが似つかわしくすらある。
「あ、お師様、頼まれた物はこれで宜しいですか?」
折り畳まれた紙片を差し出され、女性は開いて作業机の上に置かれた品々と、紙に書き留めた薬品の材料の名を見較べる。もっとも、名前にはチェックマークと、価格が走り書きしてある為まず間違いはないが。
「…オオシロツメクサの価格が、また上がったか…」
小さく溜息をつく。
「はい…また、大きな戦いが起きそうです」
暗い表情で、少女も店先で耳にした噂を話す。オオシロツメクサは、煮出してその汁を止血剤の材料にする事が多いのだった。彼女の様な職業の者には、世の情勢を知るのに手近な指標となっていた。
「そうか…まあ良いわ。昼食にしようか」
紙片を折り畳み直し、作業机の引き出しに入れる。二方の壁一面を覆う薬品戸棚への整理を後にして、二人は調合室を後にした。
昼食といっても、朝の野菜シチューの残りと固いパン、果物ジュースくらいである。少女が配膳をする様を、女性はダイニングテーブルに着いたままじっと見守っていた。ランチョンマットの上に、木製の食器とスプーンがきちんと置かれ、満足げに一つ頷くと、少女も女性の向かいに着席した。
「それでは」
居住まいを正し、少女は両手を組み合わせた。女性もそれに倣う。
「生命の息吹をこの身に。頂きます」
「頂きます」
互いに一礼し、二人は食事を始めた。
「…バーナード氏が言っていたのか?」
パンを千切りながら、女性は静かに訊ねた。先程の、戦い云々の話の続きだった。
「はい…今、アリスト王国は、あの火竜兵団で、同盟に圧力を掛けてきていますから…」
「ふむ。メヒコ辺りは、容易く同盟に背反しそうな気がするな」
「政変から四年余りで、ここまで関係が後退するなんて、この先どうなるのか、と心配そうでした」
ジュースが半ばまで入ったコップを両手で温める様にしながら、少女が言う。女性の右眉がピクリ、と震えたが、少女は気付かなかった。
「…ゾルダンス摂政は、強硬路線に逆戻りしてしまったからな。ろくな手腕も勢力もなかったあの者が、まさかこうなるとは…」
「?お師様は、王国の事にお詳しいのですか?」
「いや、揶揄混じりの噂を耳にした程度なのだが。ともかく、今はそういう者が実質的な最高権力者、という事だ」
「そうですか。前の王様が亡くなって、今は幼児が王様なのですね?」
「だから摂政が居る。この者、その背後に控える魔術師集団とで、王国を恣にしているとか。どの様な魔法、薬品で火竜を従えているのか、興味を惹かれるところではあるな」
シチューを一口、良く噛み飲み下す。
「お師様、そんな薬があるのですか?」
「さて、竜用は知らんが。もし出来たなら、需要はあるだろう。研究する価値はあるか…」
「お師様…」
不安げに少女は女性を見た。その様な薬品の使い途は一つ、軍事用以外有り得なかったから。
「いや、止めておこう。もし、その様な物で火竜を手懐けられたとして、もし薬効が切れた、あるいは何かの拍子に正気に戻った、などという事になれば、間違いなく大暴れするだろうからな」
「もし、そんな事になったら…」
「大型の火竜ならば、燃料次第でこの街くらいは焼き尽くそう。それほど凶暴なのだ」
事も無げに言う女性。しかし少女には、その身が震える程のインパクトがあった。
「そんな事…」
「だから、手懐けるならば風竜が良い。いや、手懐けるは失礼か。風竜は賢いのでな」
「お師様には、そんな経験が?私は、見かけた事もありません」
「この付近は、鳥が多くはないからな」
「?風竜と、鳥と、どんな関係が?」
食事の手を止め、不思議そうに女性を見詰める少女に。
「風竜の食糧が、鳥だからよ」
「え?鳥を、食べるんですか!?」
「生きとし生けるもの、何かを口にせねばならんさ」
シチューを掬ったスプーンを掲げてみせる。
「我らとて、鶏を口にするであろう?それと同じ事」
スプーンを口に運ぶ。
「ああ、ご無沙汰ですねぇ…でも、羽根は付いていませんけれど?」
鶏の丸焼きでも思い浮かべたのか、うっとりした様な表情もすぐに冷め、疑問を口にする。
「風竜も羽根は食えぬ様だ。後で吐き出すのを見たな」
「…うっ」
風竜が羽根を吐き出す様を想像し、少女は眉を顰めた。竜という存在に対する神秘性のヴェールが剥ぎ取られた気分だった。
「まぁ、他に食糧を調達する方法もある様だが。それは見た事がない」
「今、人で良かった、と少し思いました」
「ふ、人とて大したものではあるまい?様々な武器を生み出し、魔法を生み出し、今度は火竜まで従わせて戦いを繰り返す。まぁ、魔術師の私が言うべき事ではないか?」
自嘲気味な、冷めた物言い。少女の前で魔法を使って見せた事はなかったが、彼女の操るそれらの中には、死と破壊をもたらすものが多数含まれていたのだった。
「そんな!お師様は、ここで人々のお役に立っておられます!ご立派な事だと思います!!」
「…有難う」
なぜか、女性の顔が翳る。少女は知らないが、薬屋を始めたのは生計を立てる為、という他に、もう一つ理由があった。
「そもそも、お師様が孤児の私を引き取って下さらなかったら…どうされましたか?」
言葉の途中で相手の変化に気付き、何かまずい事でも言ったかと、少女は不安げに訊ねた。
「いや…何でもない。私は嬉しいのだ。エレナの様な、素晴らしい弟子を持てたのだ、これ程の幸福はない」
無理にでも作った微笑で見返すと。
「そんな…」
美女である師匠に改めて見返され、知らず、頬が紅潮した。
「さぁ、早く済ませてしまおう。依頼のリストは、まだまだ溜まっている」
再び手を動かし始めた女性であった。