第四章 Ⅰ
第四章
籠った湿気に薄ら汗を浮かべ、不機嫌そうにむっつりと押し黙っているその小太りの男性は、兵士達に守られながら石造りの階段を降りていった。年の頃は五十台に届くか、というところ。心許ない黒髪には、白いものが目立つ。身に纏う物は立派で、艶々とした生地に、金糸銀糸と宝石を鏤めた上下。典型的な、衣服に着られている風だった。その上に首飾り等の装身具がクドい。指にも大ぶりの宝石が嵌められた指輪の数々。しかし、その中にあって、刻印を施された銀色の、慎ましい指輪が一つ。実際のところ、その王城に勤める者達にとっては、その指輪こそが最重要だった。なぜならそれは、アリスト王国摂政の印章なのだから。
「足元に、お気を付けて」
階段が終わり、ランプを手に前を行く兵士が注意を促す。石積みの通路を暫く行き、一行はとある鉄格子の前で停まった。その向こうには、簡易な机に向かい革表紙の本を開いている、初老の男性の横顔があった。机上のランプが、理知的で穏和なそれを、薄闇の中に浮かび上がらせている。摂政より年上だろうが、黒髪はまだまだ豊かだった。
「…何事も無い様に読書とは、全く良い趣味だな」
癖である印章弄りをしながら、摂政は精一杯皮肉に聞こえる様に呼び掛けた。
「ここでは、余りして良い事が無いのでね。他に楽しみと言えば、食事くらいのものか…そういえば、厨房頭のリンチは元気なのかな?最近インゲン豆のスープが塩辛くなった様なのだが…まぁ、私としてはそれでも」
「スープの味付けなど知るか!」
自分へは一瞥もくれず喋る男性に、摂政は苛立ちの声を投げつける。
「と、これは失敬。ゾルダンス摂政閣下が、一料理人の消息なぞ知る由も無いですな。何しろ王政の要でおられる」
微塵も嫌味らしくなく、男性は言ってのける。自分を幽閉している張本人であるのに。
「味付けが気に入らんなら、食事抜きにしてやっても良いのだぞ!?」
その一言に、鉄格子の向こうで男性が初めて大きく動いた。体の向きを、摂政に向けたのだった。
「それは困る。数少ない楽しみなのでね」
困った様な顔をしてみせるが、どことなく揶揄している風にも見え、どこまで本気なのか判らない。しかし、摂政は幾らかでも優越感を得られたのか、見下げ果てた様な視線を向けた。
「ふん!かつては王宮一の知恵者と持て囃されたアウグストともあろう者が、食事一つで情けない!こうなっては、もはやただただ惨めだな!」
「先程も申した通り、食事は大きな楽しみなのでね。摂政殿は違うのかな?」
「儂とて同じだ。しかし、貴様の様な塩辛いスープなぞではない!香辛料のたっぷりと利いた肉料理に美酒が、卓上に所狭しと並ぶのだぞ!?まぁ、最近では、少々食傷気味ですらあるがな!」
自慢のつもりか得意げに鉄格子へと身を乗り出すが、アウグストと呼ばれた老人は、むしろ寂しげに見返す。
「なるほど…どの様な美食も、繰り返されれば心から味わえなくなるとは。どうですかな、時折塩辛い豆のスープでその有難みを思い起こされては?それにもう少し野菜の類も摂られた方が」
「下らん忠告など聞く耳持たんわ!」
絶叫して、我に返った様に周囲を見回す。兵士達は困った様な表情を浮かべており、鉄格子の向こうからは、アウグストが生温かい視線を向けてきている。摂政は、わざとらしく咳払いを一つ、した。
「うおっほん!無駄話はここまで!本題に入らせて貰う」
「はて?」
鉄格子の向こうで小首を傾げてみせる男性に、白々しい、と摂政は言ってやりたいのを堪えた。
「いい加減、ここから出たくはないのか?じめじめして黴臭い、こんな所に居続ければ、長生きは出来んぞ!?」「私めなぞの健康を気遣って下さるとは、何と摂政閣下はお優しい!全くもって痛み入るばかりですな」
「おぬしが官僚として有能な事は認めておるのだ。つまらぬ意地など捨て、儂の元で働かんか?」
「つまらぬ意地とは、何の事ですかな?」
これまでと変わる事のない、飄々とした口調。しかし、その身に纏う空気が変わった。
「判っておるだろうが!?火竜兵団の解体と連合との不要な衝突の回避、クレメンティナ母子をアインリヒト領に戻す事、じゃ!」
「よくぞ覚えておられた、お見事!」
小さく拍手する。
「人を子供扱いするな、忌々しい!」
鉄格子に両手を掛け揺すろうとするが、ビクリともしない。
「私めの条件は変わりませぬよ。それさえ確実に履行して頂けるならば、いつでも政務に復帰させて頂きますとも」
「偏狭な貴様には理解出来ぬかも知れんが、我らの成し遂げようとしている事は、王国に比類無き栄光と繁栄をもたらすのだ!その偉大なる事業に加えてやろうというのだぞ!?」
「おお。寛大なるご配慮、恐悦至極ですな。ならばせめて、クレメンティナ母子をアインリヒト領に戻されては?さすれば領民達は、皆畏敬の念をもって、執政閣下の前に跪きましょうぞ」
「馬鹿な、あり得ぬ!反乱が起きるわ!」
「いえいえ、英邁なる閣下の胸懐に触れれば、必ずや母子はアインリヒト領を王国の為、閣下の為、平穏に治めて下さるでしょう」
感銘に打たれた様な表情でそう訴える男性を、摂政は胡散臭げに睨み付けた。
「…やはり、貴様は出さん方が良いのかもな」
「私め抜きで王政が滞りなく行くならば、そうかも知れませんな」
摂政は血が出るかと思われる程、強く唇を噛んだ。政変によって多くの有能な官吏、官僚がその職を追われた。その為に、王政は少なからず混乱を来していた。特に財務状況は、収支の正確な把握もおぼつかず、混乱をよい事に、少なからず私腹を肥やす者が居ると推測された。その中に、摂政も含まれるのだが。
「私めに帳簿を任せて頂けるならば一年、いえ半年で財政状況を明確にして差し上げましょう」
全てを見透かしたかの様な一言。摂政が呼吸を整えるのに、多少の時間を要した。
「…ふん、貴様だけが有能だと思うな!」
「滅相もない!世には幾らでも優れた方々がおられましょう。そういった方々をどうぞ登用下さいますよう」
恭しく頭を下げてみせる。しかしこれも嫌味だった。それを可能とする体制、制度が機能しているなら、四年もの時間があってこの体たらくの筈がないのだから。
「くっ…今度来る時までに、考え直しておくのだな!」
言い捨て、来たのとは反対の方向へ向かおうとする。
「おや、いずこへお出でになるのですかな?」
「貴様には関係ない!」
判っていようが、と摂政は胸中で舌打ちした。
「もし、クレメンティナ母子の元へお出でになるのであれば、言伝を願えませんかな?」
「何だ!?」
鬱陶しそうに振り返る執政に。
「なに。簡単な事です。『どれ程心細かろうと、このアウグストめが傍におります』と」
「ふん!牢に繋がれた身で白馬の騎士気取りか!」
「もちろん、ほんの気休めに過ぎませぬよ。この様な所に、未だ若き婦人と幼子が幽閉されているのです。せめて微力ながら、心の支えとなれるならば、と愚考致しましたばかりでしてな」
「…ふん。判った、伝えよう」
「これはこれは。寛大なる摂政閣下に心よりの感謝を」
恭しく頭を下げてみせる。その様を胡散臭げに一瞥し、摂政は兵士達に守られながら奥へと歩いて行った。




