第三章 Ⅳ
エレナは少なからず動揺し、また怒っていた。朝食の席でアラクネことネアラが、旅に出るので店を任せたい、と言い出したのだった。どこへ何をしに行くのか訊ねてもはぐらかされ、とうてい納得出来る話ではなかった。もうすぐ昼食の時間だったが、彼女は準備をする気にもなれず部屋に籠っていた。
「自分勝手、過ぎます」
椅子に座り、机の上に突っ伏したまま、何度目かの呟きを繰り返す。いよいよ戦争となればと、この店を守る覚悟を固めようとしていた、そんな折だった。急に、自分の都合でここを離れると言い出したのだ。自分勝手と詰られても仕方のない状況だろう。出会ってから初めて、ネアラに対する疑念が心を占めた。そこへ、扉をノックする音が響いた。
「我が可愛い弟子よ」
ネアラの、珍しい猫なで声が扉の向こうから聞こえてくる。
「何でしょうか、お師様?」
突っ伏したまま無感情な口調で訊ねた。それだけで自分が怒っている事の表明にはなった。
「…急な話だったとは思う。しかし、覚悟をしておくよう話した筈だが?」
カチン、ときて、エレナは荒い足音と共に扉の前に立つ。
「状況が違うではありませんか!?お師様は、ご自分の都合でここを離れると仰るのでしょう!?」
「…そうだ。酷く身勝手な話と思われても仕方がない」
「何故なんですか!?はっきりさせて下さい!私の事など、もうどうでも良くなったのですか!?」
「そんな事はない。今でも、お前の事は大事なのだ。だからこそ、この店を任せるのだ」
寂しげなネアラの口調。
「でしたら、理由をはっきりさせて下さい!」
「…ふぅ。全てを語る訳には、ゆかない。ただ、私には、しなければならない事がある。今、人々が怯えている問題に終止符を打つ為に、私の過ちを償う為に」
過ち、という言葉に、エレナは違和感を覚えた。
「まさか!?お師様が過ちなど」
「私とてただの人間だ。過ちを犯す事はある。私の過ちは、命を懸けてでも償わなければならない」
「命懸け、なんて…」
余りに深刻な話に、心がついて行けない。ただ、頬を生暖かいものが伝うのが判った。
「密かに、準備も進めてきた。いよいよ、動くべき時が来たのだ。お願いだ、行かせて欲しい」
「ですが、行ってしまったら、お師様は!」
「案ずるな!」
唐突に、ネアラの口調が激変した。躁状態かと思われる程明るく。思わず息を呑むエレナに。
「命懸けではあっても、むざむざ命を落とすつもりはない。そうならない為の成算が立つからこそ動くのだ。案ずる事はない」
「…では、生きて戻って来て下さるのですね?」
暫しの沈黙。エレナの抱く不安が一気に膨らんだ。
「…どうなのですか!?」
「…我が可愛い弟子の、美味しい食事が待っているのだ。さて、まずは朝食かな」
再びの猫なで声。問いに何ら答えていないネアラの言葉に、しかし不安は見る間に萎んでいった。それこそ、まるで魔法を掛けられたかの様に。涙を拭う。
「そうですね…お待たせして、申し訳ありません」
扉の鍵を開け引くと、優しく微笑むネアラと正対する。
「今日はもう店仕舞いだ。教えておくべき事がたくさんある」
「はい、頑張ります」
微笑みあいながら、二人はダイニングへと向かったのだった。
その夜遅く、いつもの場所でネアラとフラッパは落ち合った。旅姿の彼女は、凛々しくマントを風にたなびかせていた。
「待たせたか?」
「ううん、全く。全て、済ませてきたんだ?」
ネアラの現状については説明を受けていた。荷物鞄を革バンドで自分の首に留めているネアラに訊ねると。
「必要な事は全て教えた。必要な物は全て預けた。問題はない」
「ふぅん…預けた、っていう事は、また戻ってくる気なの?」
ネアラの手が止まる。
「…事が成って直ぐ、という訳にも行くまいが。いつかは全てを話さなければならない、とは思っている」
彼女にとっては、その時は待ち遠しいような、避けたいような、複雑な感情を抱かせるものなのだ。自分が、敵国の人間だった事を告白した時、エレナがどの様な反応を示すのか、それを知るのが恐ろしい。
「そっか。ちゃんと理解してくれれば良いね」
「もう、その話はよさないか?」
荷物を括り付け終え、フラッパの頭を軽く叩く。
「大丈夫、行くよ?」
「問題ない」
鞄を留めた革バンドに掴まり答えると、フラッパは一羽ばたきした。中空に浮かぶと、見る間に加速し間もなく見えなくなったのだった。




