第二章 Ⅳ
散々な目に遭った彼は、ススキの様な草の一面生い茂る草原で、じっとしていた。彼の墜落した軌跡を、なぎ倒された草が示していた。既に日は暮れ、少し離れた所を流れる川の音が耳に心地よい。しかし、彼の心は先程まで沈みがちだった。空腹に加え、魔法や弓矢により負った傷の痛みに動く気力もない。空腹に我を忘れた事、随分と、人に迷惑を掛けてしまった事、みっともない悲鳴を上げた事などを思い、情けなく惨めな気分になったのだった。しかし、と、今では幾分気分が持ち直している。この世界の人間が用いていた不思議な技術に、胸躍らせていた。
「あれって、魔法だよね?」
絵本や小説の中にしか存在し得なかったそれを、目の当たりにしたのだ。たとえそれで痛い目を見たとはいえ。
「あんなものがある世界なんだ、ここ」
自分も含む竜等が闊歩する世界なのだ、むしろ当然、という気もしないではないが。しかし、自分がいつかラノベか何かで読んだ様なファンタジー世界の住人になっていた事を認識して、心が沸き立つのを抑えられないのだった。しかし、そんな気分を体内からの、地を這う様な低音が後退させる。このままこうしていても、空腹が解消される事はないのだ。もはや鳥を捕食する体力さえない。
「ああ、万事休すだ!」
悲しげな咆哮が、風に流される。それを聞きつけた訳でもないだろうが。
『全く、情けないのぉー』
タイミングの良すぎるこの謎の声を、これ程頼もしく感じた事はこれまで無かった。背景で、男性の声と板書する音が小さく聴こえている。
「フラッパ。いや、アキオさん?何か変だな…」
つい最近まで自分のものだった名を、他人の様に口にするのにまだ違和感があった。
『どちらでも良い。だが、そうそろそろ受け入れるべきじゃろう?』
「受け入れる…」
自分でも、そうだとは思うのだった。しかし、今はまだ出来そうにない。
『…まぁ良い。どうしたのじゃ?』
「お腹が空いて、動けなくて」
『何じゃ、鳥を食わんかったのか!?』
「いや、羽根付きのは…」
『仕方がないのぅ。そういう所から、自分を受け入れる事は始まるのじゃぞ?』
「そんな事、言われたって…今まで経験が無かった事ばかりだし」
『そんな事を言っておったら…いや、良い。今、貴様はどこにおる?』
「どこって?地名とかは」
『そうではない、どの様な所じゃ?山間か、平原か?』
「ええと、草原、かな?ススキの原みたいな所。近くに川があるけど」
『そうか。川辺に、水鳥はおるか?』
「どうだろう?…何か、小さな鳴き声が聴こえて来るけど」
『そうか。ならばおるな。よいか、ここからが肝要じゃぞ?まずは目を閉じよ』
「目を、閉じるの?」
『そうじゃ。そして、胸の内で唱えよ。「我が声を聴く者よ、答えよ」と』
「え、何それ?」
『良いから唱えい!もう会話を止めてもよいのじゃぞ!?』
「は、はい!」
言われた通り目を閉じる。胸の内で、『我が声を聴く者よ、答えよ』と唱えるが。
「…あの、何も起きないけど…」
『見えてくるまで続けるのじゃ!全く、勘の悪い奴じゃな!』
いや、勘が悪いとか言われても、と胸中で愚痴をこぼしつつ、同じ言葉を唱え直す。何度か繰り返ていると、不意に脳裏にある映像が浮かんだ。星明りに煌めく川面。かなり低いアングルから、低い土手が見えている。
「あっ!」
思わず小さく叫んだ。と、映像は消えてしまった。
『うむ。どうやら、見えた様じゃな』
得意そうな謎の声。
「何、今の!?」
『近くの川におる水鳥と、意識が一時的に同調したのじゃ。もう一度同調し、今度は魚を獲ってくるようお願いするが良い』
「そんな事、出来るんだ…」
半信半疑ながらも、同じ事を繰り返す。今度は一度で同調出来た。『お魚を獲って』とお願いしてみると、川面に視界が下り、少し間の空いた後、不意に動いた。俊敏な動作で、川魚を嘴に銜え、上昇しだす。間もなく見えてきたのは、彼自身だった。上空から徐々に近付き、目を閉じたままの、その口元に川魚を置く。再び飛翔し、川へと戻る。幾度かその行動は繰り返され、鼻先にちょっとした山が出来た。同調が切れ、目を開いた彼のその視界に、未だ跳ねのたうつそれらが飛び込んでくる。川魚とはいえ、体長三十~四十センチはあるだろう。魚に疎い彼だったが、鮎か何かを大型化した様に見えた。
「こんな事出来るんだ…何で鳥を食べてたの?」
この方法を使えば、勝手に食料がやってくるのに、と思い訊ねると。
『我は貴様の様に適応能力の欠如した”渡り者”ではないからな。そもそも、この行為は他者の獲物を横取りするに等しい、卑しい行為じゃ。教えを受けたものの、試した事はない』
「いやいや、自分が食べられるより、よっぽどましだと思いますけど?」
『…我はあくまで、自然の摂理というものを』
「はいはい。ところで…”渡り者”って、何ですか?」
『ふむ。仕方がないのう、教えて進ぜるか。我や貴様の様に、他者と肉体を交換出来る者の事じゃな』
「へぇ、そうなんだ。この言葉って、普通に使われるんですか?」
『知らん。我に最初に”渡り”を持ちかけた者が、そう呼んでいただけじゃ』
「えっ、貴方が元祖じゃないんですか!?」
『違う。いつ、誰から始まったのか、どういう仕組みなのか、”渡る”相手がどう決まるのか、我にも判らん』
「…要するに、殆ど何も知らない、って事ですか?」
『まぁ、そういう事じゃな。何度繰り返そうと、判らんものは判らんのじゃ』
「えっ、何度繰り返したんですか!?」
『忘れた』
「じゃあ、どれくらい前だったんですか、最初の”渡り”って?」
『さて、良くは覚えておらんが…少なくとも、二百年以上は前じゃろうな』
「二百年!?じゃあ、繰り返す限り死なない、って事!?」
『繰り返せれば、あるいはな。準備が整う前に絶命すればそれまでじゃろうし、相手が現れなくても終りじゃろうな。いつその時が来るかは判らんし、来ないかも知れんのじゃ』
「そっかぁ、結構不自由なんですね」
『覚悟はしておくんじゃな。せいぜい体を大切にする事じゃ。では、さらば』
音が消える。彼は一つ溜息をつくと、目の前の魚を一尾、銜えた。もはやぐったりした川魚を丸呑みする。予想していた生臭さは殆ど感じない。つるり、と喉を通り、胃に収まった。これならいける、と、次々と胃に流し込んだ。空腹感は解消され、有り難くない事に、体中の痛みが鋭利なものとなってくる。
「痛たた…」
風竜に涙腺があるのか判らなかったが、泣きたい気分だった。と、地上に付いた彼の軟着陸の軌跡を辿り、二つの小さな光源が近付いてくるのに気付いた。やがて、それが日本のがんどうの様な照明器具だと気付く。ただし、光源は蝋燭でなく、小さなランプの様な物だったが。
「兄様!」
周囲を見回していたアラドの肩を、エレインが叩く。彼女ががんどうを掲げ照らし出す先に、ぐったりとした風に蹲る風竜がいた。
「急ごう!」
アラドを先頭に、兄妹は風竜へと駆け付けた。風竜の周辺には、血が濡れた土に広がり赤く染まっている。アラドは動かないその主翼の先端を、注意深く捲った。確かに、瑠璃色の羽根が見える。
「やはりフラッパか」
「酷い…」
怪我の様子をざっと確認していたエレインが、主翼を優しく撫でつけながら呟いた。着地の時に折れた矢や、焼け焦げた羽根も痛々しい。
「風竜だ、回復は早いと思うが…」
ずた袋を漁りながら、アラドが言う。応急処置用のキットを見つけた。
「怪我の状態を確認したい。ちょっと立って貰えるか…言葉が、判るか?」
言いながら、足を屈伸させて立つ事を示す。風竜は暫くの後、もぞもぞしだすとすっく、と立ち上がった。土に汚れているが、血に塗れ、半ば炭化した羽根が見える。予想以上のやられ振りだった。一通り確認し、前に回る。
「とりあえず、傷口を消毒して止血剤を塗っておく。どうか、私達を信じて欲しい」
風竜を正面から見詰め、アラドはゆっくりと話し掛けた。相手は大型の動物なのだ、不用意に触れれば手酷い攻撃が来るかも知れなかった。暫く見詰め返してきていた風竜は、やがて小さく首を縦に振った。
「そうか、有難う」
首を軽く叩く。羽根の感触が心持ちくすぐったい。エレインは一足先に、応急措置を始めていた。
結局のところ、応急措置には三十分余り掛かった。鏃を抜き、傷口を消毒薬で拭う。止血剤を含ませたサラシ状の布を当て、粘着シートで覆う。二人がその作業に集中している間、風竜はじっとしていた。
「さて…こんなところか…」
周辺を一回りし治療漏れが無いのを確認したアラドは、再び風竜に向き直った。
「言葉は判るのだな?では、幾つか質問に答えて欲しい。肯定なら先程の様に首を縦に、否定ならば横に。さて。貴方はフラッパか?」
まずは意思の疎通を確認する為、回答の明確な質問をする。僅かな間ののち、風竜は頷いた。
「そうか…それでは、ネアラ師はどうしている?」
大分間が空き、風竜は首を振った。
「?ネアラ師がどうしているか、判らないのか?」
今度は頷く。アラドの面に落胆の色が浮かんだ。
「そうか…では、何故あそこに来たのだ?我々を救う為ではなかったのか?」
首を振る。そう、あれはただの偶然だったのだ。奇跡的な偶然。しかし、アラドには信じ難い回答だった。
「あれが偶然だった、とでも言うのか!?信じられない…」
風竜が嘘をつくとも思えず、また出来たとして、その必要性があるとも考えられなかったが。思わず猜疑の目を向けてしまう。と、エレインが袖を引いた。振り返る。
「お兄様」
「ん、何だ?」
妹に袖を引かれるまま、風竜から離れてゆく。
「お兄様、あの風竜は本当に、ネアラ師と関係があったのでしょうか?」
風竜をチラ見しつつ、アラドに囁くエレインに。
「ああ、その筈だが?」
アラドも思わず小声で答える。
「それでは、何故ネアラ師を知らない、と答えたのでしょうか?」
「それは…理由があって別行動を取って久しいのかも」
「そうでしょうか?あるいは、私達を疑っているのかも知れません」
「我々を?しかし、先程まで治療を受け入れていた筈だ」
「風竜がどこまで利口なのか存じませんが、私達を利用しようとしているだけなのかも。私は一度、遠目に見掛けただけで、恐らく私の事は知らないでしょう。お兄様は如何ですか?」
「そうだな…」
改めて考え直してみれば、自分も確かに数度、見掛けた程度に過ぎないな、と気付いた。風竜が覚えているか、微妙だった。
「…なら、どうすればいい?我々を信頼して貰うには?ここに留まって、説得し続ければ良いのか?」
「その猶予があれば良いのですが」
「そうだな…馬車が発見されて、捜索が始まっているかも知れない…一日、ここに留まろう。風竜の様子を見ながら説得する。あるいは、異常を察知したネアラ師が、姿を現わすかも知れないな」
「それならば、良いのですが…」
不安げなエレインの返答。しかし、他に代案も無く、また賭けてみる価値のある可能性にも思えた。
「不満か?」
「いえ…お兄様の、仰せのままに」
少し畏まった仕草で返答をしてみせる。顔を見合わせると、小声で笑い合った。すぐに風竜へと視線を向け、その傍らへと戻っていった。




