プロローグ
ファンタジーものに挑戦です。かなり長くなると思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。
プロローグ
窓の外で、小鳥が鳴いていた。雀だろうか?姿は見えない。
快晴の朝だった。雲一つ見えない。少年は、小鳥について考えた。実際には、少年は殆ど小鳥を目にした事が無かった。殊に、この数年間は。あの小鳥達は、鳴きながら空を飛び、餌をとっては命を長らえ、あるいは自身が餌となり、生き延びてはやがて子をなして、何処かに朽ち果て別の命の糧となるのだろうか?その事に、どの様な意味があるのだろう?それが自然の摂理だから?だとしたら、自分はどうなのだろうか?このままいっても、自分が何処かで朽ち果てる事は無いのだ。この病室から飛び立つ翼も無い。それどころか、満足に立って歩くのでさえ一苦労の体たらくなのだった。一日の大半をベッドに横たわったまま、気怠い微熱と倦怠感に包まれ、それほど先ではないであろう終焉の時を待つよりない。もとより子をなす事など望むべくもない。それが少年の運命であった。これでは、小鳥以下ではないのか?自嘲じみた笑みが浮かぶ。
「…」
窓へ向け、右手を伸ばす。痩せ細った腕。はたして、この手は何を掴めただろうか?野球の軟球やバスケットボール等を手にしたのは、もう随分と昔の事の様に思われた。小学生の頃、なりたいと作文に書いた職業には、どうあってもなれはしないと今では理解している。ならば、将棋やチェスでもしていたら、栄光、栄誉を掴めただろうか?しかし、全ては遅すぎた。自分に時間の余り残されていない事を、少年は自覚していた。
病室の引き戸が開かれた。そちらへ視線だけ送る。入ってきたのは、顔馴染みの看護師ではなかった。
「アキオ君、具合はどう?」
バッグを手にした、人の良さげな中年女性。少年の母親であった。笑顔を浮かべてはいるが、両の目は充血し、涙で化粧の乱れも見える。
「…うん」
まともな回答など求められての問いでない事は判っていたが、少年はどう答えて良いかいつも迷っていた。相も変わらず、とも言いたくはない。
「あら、今日は良いんじゃない?」
顔を覗き込みながら、母親はそう言うが。
「そう?」
大して変わり映えしないだろうに、と少年は胸中で呟いた。それは、どうせただの挨拶。ちょっとした励ましに過ぎないのだ。
「今日はね、新しい本を持ってきたのよ。好きでしょう?」
バッグの中から、書店のビニール袋を取り出す。受け取ると、ずっしり重い。中からは、ハードカバーの本が姿を現わした。表題は『航空戦の歴史』、複葉機から最新鋭のジェット戦闘機までの写真が、モザイク状に組み合わされデザインされている。彼がなりたかったもの、ジェット戦闘機のパイロットには、紙上で擬似的にしかなれない。サイドボードには、その類の航空機関連の書籍、ムックなどが何冊も置かれていた。
「…ありがと」
溜息混じりにお礼を口にする。
「気に入ってくれた?」
洗い物をバッグに詰めながら、母親が訊ねてくる。中をパラパラと捲ってみれば、写真や図解が豊富に取り入れられており、裏表紙の結構な価格も宜なるかな、であった。恐らくは、決して安いといえない買い物であったろうに、と少年は少し、胸を痛めた。
「…うん」
両手で本を弄びながら、少年は考えていた。親にとって、自分はどういう存在なのだろうか、と。自分が両親より長生き出来ないであろう事は、予測出来ていた。ならば、自分は何の為に生まれたのだろうか?親孝行と呼べる様なものをした憶えもない。する機会も、恐らく巡っては来ないであろう。ならば、自分はただの重荷なのではないか?
「母さん…」
本をサイドボードに置く傍らで、母親に語りかけた。
「ン、何?」
サイドボードの本を整理しつつ訊ねた。少年が語を継ぐ。しかし、旅客機の轟音が、それに被さる。
「なぁに?」
聞こえなかったのか、母親は問い返した。
「…何でもないよ」
少年は、会話を打ち切る事にした。「僕を産んで幸せだった?」という問いは、余りに残酷だと気付いたから。母親の耳に届いていたであろう事は、その双眸に溜まった涙で判った。それをハンカチで拭う。
「そう…それじゃ、またね」
バッグを持ち直すと、そそくさと母親は部屋を後にした。少年の胸に、棘が刺さった。
夜が来た。消灯時間が来るのを、少年は恐れていた。闇は、彼にとってほんの一時であろうと、その存在を意識ごと呑み込み、消し去ってしまうもの。それがいつ、一時でなくなるのか、そう考えただけで発狂しそうなほどの恐怖心に苛まれる。だから、彼は睡眠導入剤を処方されていた。ろくに夢も見ず、必要な睡眠を取る、それがベストであったが。それでも、彼を悩ませる夢はあった。
暗闇の中。彼の目は、何者も捉えてはいない。しかし、不思議とそれほどの恐怖を感じないのは、音が聞こえるからであろう。それらは、動物の鳴き声。恐らくは、彼がこれまで実生活の中で耳にした事のない様な。テレビ等で耳にした事があったかも知れないが。それはともかく。問題は、それらではない。彼に、語りかけてくる声であった。語りかけるのであるから、少年の知る言語である。
『…私と…交換…』
リバーブが掛かり、年の頃は判然としない。年配であろうか?男性のものである。ただ、その声はそれだけを繰り返す。何を交換せよ、というのか?夢の中の少年は、問いを発する事も出来ぬまま、その声を聴いている。やがてその声は、いつの間にか遠ざかり、彼は目覚めるのであった。さて、どれ程前から夢を見ているのか?覚醒の途端夢の残滓は霧消してしまい、判然とはしない。しかし、ごく最近ではない筈であった。
「少し、外に出ようか?」
午後、やって来た母親は、少年にそう提案した。一日中部屋で寝たきりでは、気が滅入るだろう、との配慮だった。少年も、特に反対する理由は無かった。倦怠感や微熱は通常であったし、特にどこかが痛い、という訳でもなかったから。
「うん」
読みかけの本を枕元に置き、布団を捲るとベッドの横に座る。母親が持って来た車椅子を前に置くと、自力で腰を下ろした。母親に押されながら、部屋を後にする。
病院の広々とした廊下を少し行くとエレベータがあった。すぐにエレベータはやって来た。乗降者は無かった。奥行きのある箱の、奥に陣取る。
「ねぇ。もし退院出来たら、何がしたい?高校に行きたい?」
「そうだね…」
そんな時が来るとも思えなかったが、曖昧に答える。実際のところ、自分の通学風景など想像もつかない。
「あら、それとも、高校卒業資格をとって、一足飛びに大学に行く?」
「…それも良いね」
それきり、会話は続かなかった。エレベータが一階に着くまで、沈黙を二人は通した。
中庭には病棟の影が落ち、半分程が薄暗くなっている。その中で、母親は車椅子を止めた。直射日光は良くないとの判断があった。少年はゆっくりと、空を見上げた。風は殆ど感じられない。外気は心地よい温度で少年を包んだ。
「どう、気分は?」
少年の耳元で、母親が囁く。「良いよ」という代わりに、数度頷く。自分が今、光の世界から影の世界へと足を踏み入れたのだと、自分でもよく判らない事を思う。住む世界が一変してしまった。変わってしまった世界には、もはや自分の居る場所はない。否、実際には、もう少しすればあの病室へ戻るのだが。一陣の風が吹いた。
「あ…」
鳥が、小さく上空を過ぎってゆく。鳴き声は無いが、鴉か。黒い十字形の物体でしかない。不吉の象徴ではあるが、もはや人の住む所では見慣れた存在。人類の未来が不吉、という事であろうか?無性に、少年はそれを手に入れたいと欲した。この影の世界でも、自由に飛翔する事の出来る翼。右手を伸ばし、立ち上がる。不意に、頭の芯に痺れが走った。彼にとっては急激に姿勢を変えた時に起こる、軽い目眩。いつもならば、すぐに去る筈であったが。
「ああ…」
その声は、ジェットエンジンの轟音に重なった。何かを追い求める格好のまま二、三歩進み、少年は前のめりに頽れた。
「?アキオ君、アキオ君!」
悲痛な母親の声が、急速に遠くなっていった。
暗闇。彼が恐れてきた漆黒の世界に、彼の意識はたゆたう。己の姿は見えない。否、無い。たとえ目の前に翳した手でさえ、見えはしないであろう。頼りなく投げ出された意識は、もはや自分がここから逃れ得ないであろう予感に、あえなく押し潰されそうになった。狂気に囚われ絶叫する。
「あぁぁ、ここは嫌だぁぁ!」
己の絶叫が誰かの耳に届くかなど判らない。それが声であったかも。その様な事は、どうでも良かった。彼にとって唯一の問題は、どうすれば暗闇に放置された、この寄る辺なさに押し潰されないか、という事であったから。
『騒々しい、何事か?』
老人の様な、低く掠れがちの声。それは彼の心の内に、直接問い掛けてきた。少なくとも、そう思われた。もはや肉体が意味を持たないその世界に、外も内もないであろうが、しかしそれは酷く近い所で訊ねてきたのだった。
「え、誰?」
『我か?我は、そう、フラッパと呼ばれる者じゃ。貴様は?』
「僕?僕は、アキオ」
姿もなく、得体の知れない相手に自己紹介しながら、その声に聞き覚えがある様な気がした。
『なるほど、アキオか。若いか?』
問いに答えず、暫く逡巡した後、アキオは問い返した。
「あの、夢の中で、僕に呼び掛けてきてたのは、貴方?」
『夢?ふむ、これが夢ならば、正しく胡蝶の夢よの』
「え、何?」
『いや、どうでも良い。ともかく、我には一つ、判っている事がある』
「それは、何?」
少年は、ようやく見出した一条の光に縋り付く思いで問うた。しかし、その返答は、といえば。
『ふむ。間もなく、貴様は絶命する、という事じゃ』
「え?」
情け容赦のない宣告。
『これまでは、途切れ途切れでしか交信の叶わなかったのが、こうして会話出来る、という事は、つまりそういう事じゃ。貴様の魂は、肉体から離れつつあるのじゃ』
「そんな…そんな!」
肉体があったならば、膝から崩れていたであろう。さほど遠くはない、と予感はあっても、いざその時となれば、周章狼狽せずにはいられない。
『ふむ?さほど悪い事ではないと思うが?』
「何で!?死んじゃうんだよ!?」
『いや、貴様の決断次第で、まだまだ命長らえる事は可能、という事じゃ』
「え?」
『なに、簡単な事じゃ。我と肉体を交換すればよい』
「なに?いや、そんな事出来るの!?」
普段ならば正気の沙汰とも思えない提案であったが、この状況ならば可能な気になってくる。たとえそれが、重大な欺瞞を忍び込まされていたとしても。
『出来る。肉体を魂が離れる瞬間、一心に強く我が名を思えばよい。我は貴様の名を思う。それで、肉体の交換は可能じゃ』
「そんな事で!?そもそも、その瞬間なんて判るの!?」
『判る。己の魂が消え去る、そう思った時じゃ』
「そうなの?でも…」
『まだ何かあるのか?』
声は少々面倒臭そうになってきていた。
「あの、僕は、貴方がどんな人か知らないんだけど」
『ははは、案ずる事はない。我が肉体は雄々しく、力強い。必ずや貴様も気に入ろう。それは請け合うぞ』
楽しげな声。
「何か、軽いなぁ…そもそも、僕の体で良いの?生まれついての病気でボロボロだし」
『それも案ずるな。交換された魂の入った肉体は、多少なりと修復されるのじゃ。場合によって若返りなどもある』
「そうなんだ…何か、詳しいね。経験あるの?」
『はてさて?はははは!』
上手くはぐらかされてしまった。胡散臭さに尚も躊躇していると。
『どうするのじゃ?余り時間は残されておらん様じゃが…』
その声の後半を、少年は朧気にしか聞いてはいなかった。不意に意識が遠のきだしていた。まるで、自分という砂袋に穴が空き、そこから砂が零れだした様な。”自分”というものが消えてゆこうとしている事実を、彼は実感していた。もはや選択の余地は無いのだ。
「あぁぁぁ」
『どうするのじゃ?』
「…フラッパ?」
『そうじゃ。そう唱えるが良い』
「フラッパ…フラッパ!」
強くそう唱えた。謎の人物も、自分の名を唱えたらしい事が微かに判った。砂の流出は止まったか?否、加速度的に増した。嘘吐き、と呼ぼうにも、もはや声も出せない。やがて、アキオという少年は、消滅した。
病室には、電子音が鳴り続けていた。モニタ上に波打っていた少年の心拍数は、今や一本の直線で示されていた。医師と看護師が、出来うる限りの蘇生措置を試みたのではあるが。
「…」
まだ若い医師は、黙って両親を振り返った。母親は泣き崩れ、父親に抱きかかえられている。父親も辛そうに、その頭を撫でつけていた。
「まだ、蘇生措置を、希望されますか?」
母親が、小さく頷く。父親も頷き返した。
「…宜しく、お願いします」
「…判りました」
一つ頷き、医師は向き直ると心臓マッサージをしようと両手を少年の上に翳したが。
「え?うわっ!」
固まってしまう。両親も、何事かと視線を向ける。少年が、全身から光を放ち始めたのだ。最初は青、紫、緑、赤、そして白。次々と色が変わり、十数秒で消える。
「な、何だったんだ…」
医師が呟くうちにも、更に異変が。モニタ上の直線が、再び波打ち始めたのだった。瞬く間に、各グラフが平常時に復帰する。
「え?アキオ君!?」
「アキオ!」
両親は泣き顔もそのままに、ベッドに駆け寄る。医師達は、何が起きたのか理解出来ず、呆然としていた。
「アキオ君、アキオ君!」
「アキオ、アキオ!」
口々に両親が呼び掛けるうちに、少年は目を開いた。周囲を見回し、邪魔とばかりに酸素吸入器を外す。スッ、と上体を起こすと、両手を、上半身を、そして下半身を見遣り。
「?アキオ…」
違和感を感じ、両親が一歩、下がる。今の少年は血色も良く、顔付き等も、自分達の知っている息子とは違っていた。まるで、別人が乗り移ったかの様な。
「うむ、悪くない」
少年は、少年の声のまま、そう呟いた。