第八話 天使の羽の中で
その後、誰とも出くわすことなく保健室まで辿り着いて、ラウラさんを先生に預けた。最初は何事かと目を丸くしていた先生だが、「ふらふらしているのを見かけて運んできた」ことを告げ、ラウラさんもそれを認めると、疑うことなく受け入れてくれた。
ベッドに彼女を寝かせてきっちり謝罪し(蹴られはしなかった)、さあ帰ろうとしたとき、「君、結構大胆だね」と先生に意味深な笑みを向けられた。苦笑を返しておくと、「おんぶで運んできたことは内緒にしてあげる」と言われた。やっぱり苦笑いしか浮かべられない。
保健室を出ると、今までの出来事が遠い昔のことのように思えてきた。カフカ、大罪の力、ラウラさんからの告白、戦い……。
ああ、わかっている。全部本当にあった出来事だ。一日でかなり色々な出来事があったせいで、記憶の処理が追いついていないのかもしれない。
ぼーっとしたまま校門を出る。
帰り道は、いつものように一人。数時間前には、もしかしたらラウラさんと一緒に帰宅などと夢を見ていた。今朝の偶然に感謝して、どうしてこんな自分を好きになったのか、自分は貴女のどういうところに憧れていたのか。来年はクラスが同じだったらいいな。そんな話をしながら帰ることができたのかもしれない。
「本当、夢みたいだったなあ」
夢だったんだ。楽しくて、楽しくて、悲しい夢だったんだ。
「実里さん」
いつからか、カフカが隣に立っていた。思わず声を出しそうになるのを抑えて、しかし体はビクゥッと飛び跳ねた。
「おま、先に帰ったんじゃなかったの?」
「いえいえ」
一応人目を気にしているようで、空には浮かんでいない。
彼女は柔らかい笑みを浮かべる。
「お疲れのパートナーを置いて帰ることなんてできませんよ」
そんなセリフを優しい声でかけてくれた。
「……いいのに」
照れくさくって、つい顔を背けて歩き出す。きっと頬が真っ赤だ。
「待ってくださいよーう」
後ろからカフカがとてとてと追いかけてきた。
それ以降、家に着くまで無言だったのだが、家に入るなりカフカが、
「おかえりなさい、実里さん!」
なんて言ったものだから、少し戸惑った。
「え?」
「ほら、おかえりなさい、実里さん!」
「……えーと、た、ただいま?」
「はい!」
太陽の笑顔を向けられ、また顔が熱くなる。
逃げ込むように転がり込んだ自室で着替え、リビングに入ったところで、奥からカフカがふわふわと飛んできた。家の中では人目がない分自由だ。
「今日はお疲れさまでした!お風呂にしますか? ご飯にしますか? それとも」
「カフカ」
「はい?」
「……君の住む場所のことなんだけど」
カフカの表情が見てわかるほど硬くなる。
「帰ってくる道すがらずっと考えていたんだ」
すでに、答えは決まっている。
「……行く宛てがないならさ、もうしばらくここにいてもいい」
「ふぇ……」
「今日は君に助けられた。そのお礼っていうか、借り? じゃない。何というか、ともかくだな!」
首の裏を軽く掻き、気恥かしさでいっぱいになりながら、
「ご飯、食べる?」
……やっぱり気恥かしさを誤魔化せないでいた。女の子、それもとびきり可愛くて天使ときたら、もう緊張するしかない。
対して、カフカはきょとんとしていた顔を華やかに輝かせて、
「ありがとうございます実里さーん!」
思いっきりタックルをかましてくれた。倒れないように何とか踏みとどまったものの、少し咳き込んだ。でも、
「ありがとうございます! ありがとうござびばじゅみのりざあん!」
今は許そう。
「……泣くなよもう」
「だっでだっでえ」
見知らぬ女の子で、しかも天使を家に泊めるなんて、なんて怖いもの知らずなのだろうか、そう思わなくもない。けれど、今日一日で彼女の全部とまではいわなくても、ある程度まではわかったことがある。
おっちょこちょいだけど、他人のことで必死になれる、優しい女の子ということだ。
「ご飯作るから、ね?」
「……ずずっ……オムライスがいいです」
「ああ、オムライスな」
「……タマゴスープも付けてください」
「ああ……」
少し図々しいのが、たまに傷だけれど。
普段は母さんが料理をしてくれているが、仕事が忙しいときなどは僕が作ったりしていた。父さんはしない。作れないことはないのだが、男の料理が得意、とでもいうか。美味しくはあるけれど。
「実里さん、随分慣れているんですね」
「たまにやってたからね。それより味はどうかな? 口に合えばいいんだけど」
「はい……んぅ! これはおいしいですよ実里さん! ふわふわとろとろです!」
「そっか」
頬に手を当てて満面の笑顔を浮かべるカフカに、胸のあたりが少し暖かくなったような気がした。
すっかり泣きやんだカフカと一緒にオムライスを食べ、ほっと一息をついたところで、カフカに風呂に入るよう言った。
「覗いちゃやーんですよ?」
その一言で、例え覗く気が予めあったとしても失せる。
「しないよ。いいから、ほら、早く入っちゃって。着替え……は母さんのでいいかな?」
「わっかりましたー、問題ありません!」
カフカがリビングを出て、風呂場の方から「わー、ジャパニーズバスです!」と歓喜の声が聞こえてきたところで、ふうと肩の力を抜いた。
「……はは」
思わず笑い声がこぼれて。
視界がぼやけて、机の上に水滴が落ちた。
「……僕は、馬鹿だなあ……」
浮かれて、事実を知って、落ち込んで、それをカフカにもラウラさんにも見せないようにして。
結構がんばった。もう、泣いてもいいだろう。そう思ったら、自然と涙が出てきた。
「……ふられた、だけで、こんなに泣く……なんて、情けない……なあ……っ」
僕の憧れの人。超能力を手に入れて、世界を救うために近づいてきて、僕の力を奪おうとした人。それでも彼女を憎む気持ちなどない。彼女は真に世界を救いたくて力を集めようとしていて、自分のやっていることが許せないと心を痛めていた。そんな人を恨めるわけない。
でも、悲しいと思うのは、止められない。
「実里さん」
「!」
顔を上げると、バスタオルを巻いただけのカフカが目の前に立っていた。思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「って何て格好してるの!」
「着替えがなかったので、致し方なくというやつです」
それより、とこちらの爆発寸前の心臓と思考を知らぬカフカが柔らかくほほ笑んだ。
「……悲しかったんですね」
「え?」
「男の子が泣いていいのは、失恋した時と、小指を柱の角にぶつけたときだけなんだそうです」
最後のは男女関係なく泣きそうだ。
「だから、今はいっぱい泣いていいんです」
「……いや、別に泣いては」
「ほら」
ぽんと頭にカフカが手を乗せてきた。温かくて、優しい感覚がして、そうしたらもう止まらなくなった。
声を抑えて泣く僕を、カフカは何も言わずにただ抱きしめてくれた。それだけで、十分だった。
「よしよし、辛かったですね」
天使の両手は、羽根のように優しく僕を包み込んでくれた。その中で、ずっとずっと泣いた。
「…………実里さん?」
泣きやんでからの最初の言葉は「ありがとう」。そして次の行動は土下座だ。カフカが当惑した声音でおそるおそる声をかけてくる。
「別に気にしなくてもいいですよ」
「僕が気にするよ……」
母さんには中学生の時に少し泣いたときに抱き締めてもらったことがあるものの。母さん以外の女性に慰められたとあらば申し訳なさ過ぎて、しかも相手が美少女で天使で、バスタオル姿とあればもう土下座しかない。それ以外に誠意を示す方法がわからない。まったく冷汗ものだ……。
「……ごめん、本当にごめん、マジごめん」
「顔をあげてください」
「でも……」
「いいですから」
顔を上げる。屈託ない天使の笑顔が待っていた。
「私は、実里さんの優しさに助けられました。円迎寺さんもです。だから、もし実里さんが泣いているのなら、私がそれを受け止めてあげます」
「……カフカ」
本物の天使による励ましの言葉に、ぐっと目元を拭う。目が熱い。きっと酷い顔になってる。けれど、
「ありがとう」
笑顔を向けることくらいはできた。
カフカはうんうんと頷くと、もう一度頭を撫でてくれた。
「……ところでカフカ」
「なんですか?」
「……着替え……用意させてくれ」
その後、速攻で着替えを用意して、普段は使用していない客室に彼女を通した。
「もし寂しいのであれば、一緒に寝てもいいですよう?」
先ほどの気恥かしさやもろもろが薄れるカフカの戯言をスルー。「おやすみ」と告げ、自室へと踵を返した。




