生簀の街・後編
果たして岡本の運命は……。
※暴力表現が含まれています。
※グロテスクな表現が含まれています。
奇妙な女の襲撃から数日が経ち、警察署からの呼び出しを受けて出頭した岡本を
待ち受けていたのは予想外の出来事だった。 頭部に痛々しく包帯が巻かれている
岡本が通された小さな部屋には中央のテーブルの向かい側にスーツ姿の男が座り、
部屋の端の小さなテーブルにも同じく男が座っている。 岡本が中央のテーブルの
男……刑事と対面する形で座ると刑事が口を開く。
「あんたが暴行した女性とその家族から被害届が出てんだよ」
「暴行って、私は『した』んじゃなくて『された』んですが……」
刑事の第一声を否定しながらも困惑を隠せない岡本に向けて肉を切り、骨を断つ
牛刀を振るうかのような刑事の言葉が続く。 岡本を襲った女は知能の発達面に
障害を持ち、『岡本が女を騙すような形で性的関係を持った上で女の妊娠を知ると
女の腹を殴りつけて流産させた。 それでも女が岡本の家に行ったところ、岡本は
更に女に暴行を加えた』というのが女側の主張らしかった。 一通りの説明を終え
刑事が懐から取り出した煙草を咥えて火を点ける。
「……相手側からは医師の診断書が出てる。 女性が妊娠してた事、及び通常では
執られないような強引な手段での中絶が行われたのは証明されてんだ」
話し声が消えた室内に刑事が煙を吐く音が虚しく響く。 俯く岡本の視界には
『自分が冤罪をかけられている』という絶望感から何も映っていなかった。
現状のような事態に陥る事自体が初めての経験となる岡本は激しい動揺と混乱に
支配されている状態だった。 もし、対面している刑事が強い口調で威圧しながら
岡本に自供を迫っていれば容易くそれに屈し、自身の現在と未来や人間としての
尊厳を放り投げて『犯罪者』の烙印を押される事になっていただろう。
刑事は無言だった。 吸っていた煙草がフィルタの直前の部分まで燃え尽きると
吸殻を灰皿に押し付けて火種を消す。 まるで岡本の反応を待っているかのように
その後頭部を凝視して動かない刑事の視線の先で岡本が急に顔を上げた。
「……いつの話ですか? いつ私と知り合って、いつ腹パンされたって……」
「それがな、判らねえんだ。 本人は会話が殆ど成り立たねえんで相手の父親から
供述を引っ張ったんだが『正確な時期は犯人に訊け』だとよ」
「……あと、女性の方が妊娠してたのは嘘じゃないとしてもその子の父親が私だと
証明するものはあるんですか? DNA鑑定とか!」
「向こうは『胎児はあんたが踏み潰してどっかに捨てた』って供述してる」
岡本と刑事は再び無言となった。 錯乱状態から脱し、幾らかは考える力を
取り戻した岡本の脳裏に一つの疑念が産まれる。
『父親が娘の知的障害を悪用して自分に罪を被せようとしているのか?』
「つまり、相手からは私とあの女の関わりを決定付けるものは何も出てない」
「だから警察も今日は事情聴取って形であんたを呼んだんだ」
釈然としない部分はまだ多いものの、考えにある程度の踏ん切りをつけた岡本が
刑事の目を見据えると刑事は小さく頷く。 その様子から刑事も立場上迂闊な事は
言えない物の岡本と似たような疑念を女と父親に持っているだろう事を窺わせた。
「……まず、あんたの口から今回の件の一部始終を聞かせてくれないか」
刑事に促され、岡本は女に襲われた時の事をありのままに話し始めた。
───
岡本が目覚めたのは、病院の個室にあるベッドの上だった。 上半身を起こして
きょろきょろと周囲を見回す岡本は後頭部に走った激痛に顔を歪める。
「病院……? 何で俺、また病院に居るんだ……」
事態を把握できないまま岡本は呟く。 後頭部の割れるような痛みに耐えながら
何故自分が病院の一室で寝ているのかを思い出そうと目を瞑った。
警察署の一室。 岡本が自分にかけられた容疑が事実無根である事と女の暴行と
父親の虚偽申告に対して被害届けを出す意向を伝えるも刑事の反応はあまり芳しい
ものではなかった。 眉間に皺を寄せた刑事がぽつぽつと話し始める。
「これは個人的な見解になる。 あくまで参考として訊いて欲しいんだが……」
「何でしょうか?」
「現状で起訴された場合、相手が『女性』、かつ『知的障害者』という事情から
裁判ではあんたがかなり不利になる。 あんたが自分の無実を証明できるような
証拠を提示できない限り『推定有罪』が適用されると……」
刑事の言葉を思い出している途中、不意に病室の扉が音を立てて開くと外から
壮年の男女が入って来た。 その二人の事を岡本はよく知っており、二人は岡本が
目を覚ましている事に気付くと驚きを隠せないといった表情をする。
「一也!? 目が覚めたんだね」
「父さん、母さん、俺なんで病院に……」
暫く会わないうちにすっかりと老け込んだ印象の岡本の両親は話を始めた。
岡本が警察署に行った日から既に一ヶ月が経過しており、その間に両親が動いて
相手の父親に大金を払って示談を成立させ、岡本は不起訴処分となった。 先ほど
冤罪と戦う決意をしたという認識の岡本にとって両親の話の内容は自身を根底から
破壊するに等しいものだった。 怒りのあまり脳の温度が下がる感覚に襲われつつ
岡本が声を荒げる。
「何で勝手にそんな事をしたんだよ! 俺はやってないんだ!」
「黙れ!!」
「ぐぅっ!?」
岡本以上に激昂した父親が岡本の襟首に掴みかかった。 頚動脈を絞め上げられ
後頭部の激痛と事件の日に女に首を絞められた記憶が蘇る。 苦しげに呻く岡本に
父親は更に怒声を浴びせた。
「被害者のお父さんが家まで来たんだぞ! お前のせいでまだローンが残ってる
家を売って引越す羽目になったんだ! 何をやらかしたかまだ解ってないのか!」
父親の言葉に含まれていた単語が引き金となり、首を絞められる岡本の脳内では
堰を切ったように記憶が溢れ出る。
事情聴取を終え、警察署の廊下に出た岡本に中年男が近付いて来た。 中年男は
だらしない天然パーマの髪に四角形に近い輪郭、顔全体に対してやけに細く小さい
目が印象的だった。 くすんだ灰色のトレーナーとズボン姿の薄汚い男はそのまま
岡本に掴み掛かる。
「テメェがウチの娘にヤらかしてくれたクソ野郎か! どう落し前付ける気だ!」
その言動から岡本は眼前の中年男が女の父親である事を理解した。 何の脈絡も
無く女に襲われた上に冤罪までかけられた岡本の胸中に、普通の生活を送る上では
関わってはいけないタイプの男に対する敵意が込み上げてくる。 岡本が男の手を
強く振り払うと、抵抗を予想していなかったのか男は呆気に取られた顔をした。
「あ"っ……!? ア"ッ……ア"ア"ア"ケセェェェェエエッギィ"ィ"ィ"!!」
全身を痙攣させながら絶叫した男が拳で岡本の顔面を殴りつけ、岡本は廊下の
コンクリートの壁に勢い良く後頭部を打ちつける。 後頭部に熱いものが伝わる
感触を受けながら、眼前で内容が聞き取れない叫びを発しながら取り押さえようと
組み付く警官達に抵抗して暴れる男の姿は、徐々にぼやけていった。
いつの間にか、父親は岡本の首を絞めるのを止めていた。 岡本が現実に返ると
両親は既に手荷物を持って帰り支度を始めている。 岡本の様子の変化に気付いた
父親が病室の扉を開けながら吐き捨てた。
「お前とは今日限りで絶縁だ。 もう二度と顔を見せるな」
扉が乱暴に閉められる音が病室内に響き渡った。
───
岡本は、気付いた時には全てを失っていた。
絶縁を宣告した両親は勿論、恋人だった絵里や大半の友人達には着信を拒否され
連絡を取れた僅かな友人達によると女の父親は岡本に実家付近で相当騒いだらしく
事件については岡本を加害者とする女側の主張が事実として流布されていた。
職場は解雇され、示談金の一部として使われたのか貯金も残っていなかった。
半ば追い出されるような形で病院を出た岡本は、襟に血痕が付着したスーツ姿で
ふらついた足取りで行く宛ても無く街を彷徨い歩いていた。 その異様な姿を見て
行き交う通行人達は顔をしかめ、なるべく近付かないように通り過ぎる。
当の岡本には、通行人の態度を気に留める余裕は無かった。 あまりにも突然に
また抵抗する事すら許されずにこれまでの人生の全てを否定され、ゼロどころか
マイナスにまで落ちてしまった自身の現状を受け入れる事が出来なかった。
『何故、自分がこんな目に遭わなければならなかった?』
虚ろな表情の岡本が時折発する呟きに答える者は居ない。
とある晴れた日。 小さな神社の境内に植えられた木々の中でも一際大きな木が
時折吹く風に揺られる周囲の木々とは異なる不自然な揺れ方をしていた。 その
木の枝からは一本のロープが伸び、円形に結ばれたその先端にはかつて岡本だった
ものが首を吊る格好でぶらぶらと揺れている。 断続的に軋むロープは人の気配が
全く無い境内に不快な音をばら撒き続けていた。
補足編へ。