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生簀の街・前編

ごく普通のサラリーマンに訪れた邂逅、そしてバトル。

※暴力表現が含まれています

 大都会でもなく、田舎町という訳でもないとある町。


 戸建と小規模な集合住宅が混在する住宅街。 イベント会社の社員である岡本は

その住宅街の一角にある二階建てのアパートの住人だった。 徒歩での移動圏内に

駅とそれに併設された幾つかの路線のバス停があり、交通の便が良い割に家賃は

安目に抑えられている現在の自宅を岡本は気に入っていた。

 朝を迎えた街中を、スーツ姿の岡本が左手に鞄を持って通勤の為に駅へ向かう。

岡本が進む歩道には集団で登校する黄色帽を被って黒や赤のランドセルを背負った

小学生や朝の散歩を満喫する老人達が行き交い、センターラインが引かれていない

道路は利用者達に片側一車線と認識されていずれの車線も車でごった返していた。


「いつも思うけど、何でだろうな……」


 車や他の歩行者に接触しないよう周囲に気を配りながら、岡本は心の中で呟く。

岡本が現在の通勤経路を使うようになってから二年の月日が経っていた。 初めは

ごく普通の光景と捉えて気にも留めていなかったものの、ひとたび噴出した疑問は

掻き消える事無く岡本の脳内にくすぶり続けている。


『中高生や大人が通勤通学で歩いている姿を見ない』


 これが岡本の脳内にくすぶっている疑問だった。 岡本が出勤、帰宅する時間は

イベント会社勤務という性質上ばらつきはある物の極端に早かったり遅かったりの

時間帯のみに集中しているという事はない。 本来ならば自分と同じ駅を利用して

通勤や通学をしている人々と顔を合わせてもおかしくない筈だった。

 駅に辿り着くと岡本の疑問は更に深まる。 駅は入口、改札、ホームのいずれも

岡本と同じくスーツ姿の男女や学生と思しき制服や私服姿の若者達でごった返し、

駅前のロータリーでは助手席や後部座席から人を降ろした車が再び住宅街の方へと

戻って行く光景があった。


 つまり、これらの人々は徒歩でも充分に通える距離の駅に徒歩や自転車ではなく

わざわざ自動車で送迎して貰って通っている事になる。

 数人の面倒臭がりがそうしているというのなら話は解る。 しかし毎日のように

自分と同じ住宅街の多くの駅利用者がそうしている事に岡本は腑に落ちないという

思いを抱いていた。


「誰かに訊いてみれば、この謎が解けるかも知れないけど……」


 そう考える岡本は、住宅街に友人と呼べる相手はおろか顔見知りすらも居ない。

勤務の都合で休日が世間と違うという事情もあるが、土日の住宅街も見かけるのは

小学生以下と思しき子供か老人ばかりだった。 自家用車でどこかへ出かけている

家族連れも居るようだが、やはり街中で中高生以上の世代を見かける事は稀……

ほぼ無いと言って良い。 そして岡本には見知らぬ他人に積極的に話しかけてまで

この疑問を解決しようという意欲も無かった。


 ホームに到着した電車の扉が開かれ、岡本は周囲の乗客と共に車内へ乗り込む。

これから始まる一日を前に、岡本は答えの出ない疑問を頭から追い出した。



───



 別の日。 その日の天気は一日中雨だった。


 夜を迎え、厚い雲に覆われ雨粒を落とし続ける空の下で傘を差した岡本は街灯の

光を頼りに帰路へ就いていた。 普段から人通りが少ない住宅街だが、雨となれば

道を歩いているのは岡本のみ、後は時折ヘッドライトを点した車が通る程度だ。

 道に面した家からは光が漏れ、静まり返った町にも確かに人が住んでいるという

実感を持ちつつ岡本は自宅への道のりを足早に進んで行く。 集合住宅の廊下から

漏れている光に岡本が顔を上げ、自宅がある二階部分へと視線を向けた。


「……ん? 何だあれ」


 集合住宅の二階部分、ちょうど岡本の部屋のドアの前に黒い人影のようなものを

見つけた岡本が眉間に皺を寄せる。 それが人間であることを認識した岡本がまず

思い浮かべたのは現在交際している彼女の事だった。 だが、岡本はすぐに自身で

その人影が彼女だという憶測を否定する。


「いや、絵梨なら来る前に連絡してくるだろうし」


 集合住宅の入口へと辿り着いた岡本は傘を畳み、階段から二階の廊下へと上る。

人影に見えたのは女だった。 全身を黒尽くめの服で固めた女は、男性の岡本にも

碌な手入れをしていないと判る髪を長く伸ばしている。 雨に当たったのか全身が

僅かに濡れている女が立っている場所が間違いなく自分の部屋の扉の前である事に

眉間に皺を寄せながら岡本は女に声をかけた。


「すいません、そこ俺の家なんですけど何か……うげぇっ!?」


 声に反応して女が振り向くと岡本の言葉は途切れ、代わりに呻き声が飛び出す。

蛙を連想させる扁平な顔立ちをした女はだらしなく口を半開きにし、口角に唾液が

泡立って溜まり、滴り落ちる雫が顎を伝ってポタポタと服の胸元へと落ちていた。

 女が動いた事により岡本の鼻孔には湿気を吸った人体の老廃物に由来する悪臭が

侵入し、生理的な嫌悪感に岡本は顔を歪めて右手の掌で鼻と口を塞ぐ。 胃袋から

酸が込み上げる不快な感触と戦い、女の足元に視線を落とす。


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」


 野太い絶叫と共に岡本の視界から女の汚らしい靴が消えた。 ふと視線を上げた

岡本の体が強い力で押され、雨で濡れていた床や靴の裏はその力を受け止め切れず

派手に滑って岡本は後頭部から背中にかけて床へと叩き付けられる。 その衝撃で

一瞬暗転した視界が回復すると目の前に女の顔が迫っている。 細く腫れぼったい

印象だった女の目は一杯に見開かれ、無数の細く赤い血管が浮き上がっていた。


「あ"がぢゃ"あ"あ"あ"ン"! あ"がぢャ"あ"あ"あ"ぁ"ぁ"ン"!!」

「ぐえぇっ!?」


 転倒した岡本に跨った女が絶叫を挙げつつ岡本の首を絞め始める。 女の力とは

思い難い強さが篭もった両手の手首を無意識に掴み、岡本は女の手を振り解こうと

必死の抵抗を始めた。 視界を塞いだ絶叫を発し続ける女の顔は頬の肉だけが別の

生物であるかのように激しく動き、大きく開く口の中に並ぶ歯はおびただしい量の

歯垢や歯石に塗れ、かなりの部分が黒く変色している。 その汚らしい口の中から

絶叫と共に飛び散る唾液が顔や服に垂れ、岡本の生理的嫌悪感は最高潮に達した。

 岡本は体を動かしてもがきながら、女の手首に思い切り爪を立てて力を込める。

女の手首部分から剥げ落ちた垢が首筋に降り注ぐのも構わず、歯を食い縛りながら

全力で抵抗を続ける岡本の肩に何かが接触した。


 それは、岡本が手に持っていた傘だった。


 岡本は女の手首から右手を離して傘を握り、先端で女の顔面を思い切り突いた。

先端は女の右の頬骨部分に直撃し、その両手が岡本の首から離れた。 上を向いて

突かれた部分を手で押さえつつ絶叫を挙げ続ける女の顎を目掛けて再び傘の先端が

突き立てられると女は岡本の体から離れ、その隙に岡本は這いずって後ずさる。

 岡本が床に手を付いて立ち上がろうとした瞬間、転倒した時に強打した後頭部に

激痛が走った。 両腕に込めた力が抜け、再び倒れこんだ岡本の視線の先では女が

絶叫を挙げ続けながら上半身を激しく振り乱している。 遠くからサイレンの音が

聞こえてきたが、岡本の視界がぼやけていくと同時にサイレンの音も女の叫び声も

徐々に遠ざかっていった。


 岡本の意識は、そこで途絶えた。



後編へ。

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