黒不幸帳~Black Note~
俺の名前は天井 晴彦。今は中学生だ。
勉強も運動もイマイチで、顔は地味。友達もいない。
同じクラスの奴が友人と雑談したり、勉強を教え合ったりしている間、
俺はただ自分の席に無愛想な顔して座っているだけだ。
俺は嫌われている。入学したての頃は、友人を求めて俺に話しかけてきた奴もいた。
だが、俺の普段の言葉や態度はそういった奴らを俺から遠ざけ、しまいには
俺をいじめの対象にしようとしてた奴までも無視をするようになった
それに、俺は不幸体質らしい。日常の何気ない場面でたびたび不運な目に遭い、
しばしば近くの人を巻き込んだ。
俺の名前「晴彦」は、周りの人々を夏の青空のごとく晴れ渡らせることを願って
つけられたと言うが、俺が関わった人物の表情は曇ってばかり。
そもそも、親の願いなんて俺の知ったことじゃない。
……俺は、不幸のまま生きてきた。他人の幸せを見て恨めしく思うことはあっても
自分から幸せを探そうとは思わなかった。
そして、不幸を呼び寄せるだけで幸せを得る努力をしない自分に失望して、
苦悩しながらもずっと同じ生き方をしてきた。……変えることができなかった。
ある日、そんな暗い俺の人生に、ある事件が起きた。
それは、実は何年か前に起こることが決まっていた事件だ。
この日も俺は学校が終わると、そのまま家にまっすぐ帰る。
家が好きな訳ではない。家以外でふらふら出歩くのが性に合わないだけ。
「ただいま」
家に着くとつい習慣でそう言ってしまうのだが、
返事はなく、ただ俺の声がむなしく響くだけだ。
俺の親や兄弟は、ちょっとした訳があって一緒には住んでいない。
冷蔵庫にあったコンビニ弁当を1人で食べ、その後風呂に1人で入る。
空色の浴槽に浸かりながら、1人心の内をつぶやく。
「分からねえ。何で俺だけが不幸なのか。他の奴は幸せそうなのに。
俺が不幸なのは俺のせいだが、俺以外が不幸じゃない理由は一体何なんだ」
風呂から上がり、暗い灰色の寝間着でリビングへ戻る。
家具は全体的に茶色系統の落ち着いた色調だが、灰色の寝間着が雰囲気から
浮いているようで何となく息苦しさを感じる。
俺1人だけ世界から外されているような、不快な気分だ。
冷蔵庫のジュースを飲んだら、さっさと自分の寝室へ引き揚げる。
白い天井、黒い床、灰色の壁、無彩色の家具が並んだ正真正銘俺の部屋だ。
黒一色のカタいベッドに入って、また呟いた。
「あーあ、やってらんね。せめて誰かを不幸にする能力が手に入ればな~」
……軽く冗談で言ったつもりだった。
気がつくと、俺は白い空間に1人でぽつんと立っている。ここはどこだろうか。
「………………彦…………晴彦……」
誰かが俺の名前を呼んでいる。誰だろうか。
「……晴彦、聞こえているんでしょ? こっちよ」
俺が振り返ると、整った顔立ちに笑顔を浮かべた少女がいた。
薄い青色の長い髪が、幼い中にもどこかしっかりした雰囲気を漂わせる。
この見た目に、この声……どこか懐かしいのは気のせいだろうか。
お前は誰だ? そう聞こうとしたが、なぜか声が出ない。しかし……
「私が誰かは、今は教えられない。それより、あなたの欲しがっている物がある」
少女はそう言うと、いつの間にかそこにあった、真っ白に輝く机の前に立ち、
幻のようなその机の一番上の引き出しを開ける。
…………この机にも見覚えがある。どういうことだろうか?
どうも頭がぼんやりして、考え事がうまくできない。
少女は引き出しの中の板を1枚取り除くと、1冊の黒いノートを取り出した。
…………黒い、ノート? これも見覚えがあるような気がする。気のせいだろうか?
「ブラックノート。書かれた相手を不幸にするノートよ」
……これが、少女の言う『俺が欲しがっている物』なのか?
書かれた相手を不幸に……確かにそんなこと言った気もするが、
俺は本気でこんなことを望んだのか?
「今になって何を悩んでいるの?
あなたが望んだから、このノートはあなたの前に現れたのよ?」
確かに俺は望んだかもしれない。だけど、実際に手に入ればやはり怖い。
「ふふっ、別に書かれた相手が死ぬわけじゃないんだから怖がらなくても」
そういう問題じゃないだろ、と言ってやりたい。
「さて、ノートに関する注意。
まず、ノートに書かれたことを、書かれた相手が知らないと効果はない。
次に、いつ、どんな不幸が訪れるかをあなたが決めることはできない。
だから、交通事故とか大きな不幸が訪れる保障はない。
最後に、あなた以外がこのノートを使っても何も起こらない。以上」
少女はそれだけ言うと去っていった。
まだ聞きたいことはある。俺は少女を追いかけようとしたが…………
「待てよ……え?」
気がつくと、俺はモノクロな自分の世界に戻って来ていた。
「夢か、どうりで考えがまとまらなかったり、少女が妙に大人びた口調だった訳だ。
…………しかし、あの白い机はたしか……」
俺は飛び起きて、部屋の中のくすんだ白い机の、一番上の引き出しを開ける。
「……これはッ!!」
引き出しの中に隠されたスペースには、まさに夢の中で見た、黒いノートがあった!
「人を……不幸に……俺が望んだ……?」
この日は俺にしては珍しく、朝早く学校に行くと
直接教室には向かわず、体育館裏で様子をうかがう。
嫌になるくらいの晴天で、遠くの人影まではっきり見える。
しばらく待っていると、いじめ集団がいじめ相手を連れて来たのが見えた。
俺の目的はあいつらだ。悪いがこのノートを試させてもらおう。
「八柱 誠、七宝 剣次、六角 氷弼だな。悪いが不幸になってもらおう」
ノートを手に持ち、いじめ集団らに言い放つと、相手は呆然とする。
「このブラックノートに俺が名前を書いた奴は、程度の差こそあれ不幸になる」
そこまで言ったところで、いじめ集団のうち2人が笑い出した。
「クッ、ハハハハ! 聞いたか剣次、こいつが言ったことを!」
「ヘッ、聞いたぜ氷弼! ノートに名前を書いて不幸とか、どんな厨二――」
べしっ!
集団のリーダー的な人物、八柱誠が2人を叩いていさめる
「お前ら、そいつを相手にするんじゃねぇ。ロクなことにならねぇぞ。
……白けた。引き揚げるぞ」
「え、あ、はい」
去っていくガラの悪い3人組、特にリーダーの八柱に、俺は後ろから声を投げかけた
「去るということは、俺が誰だか分かっているんだろう。その意味を考えておけ」
八柱は一度立ち止まったが、再び歩き始めてどこかへ消えていった。
これで本当に効くのだろうか、と俺が思っているところへ、
先ほどいじめられそうになっていた、気の弱そうな奴が話しかけてきた。
「あの……助けていただき、その……ありがとう……ございます……
か……かっこよかった……です……」
一体こいつは何を言っているんだ。別に俺はお前を助けるつもりはなかったし、
そもそもあんな陰湿なのが格好いいわけないだろう。
……いるんだよな、こういう誰かの影に逃げようとする奴。
気に入らないからこいつでも試してやろうか。
「お前の名前を聞こうか」
「はい、……氷見 影介といいます」
「漢字ではどう書く」
「えーっとですね……氷を見て、影を介する……で、伝わりましたか?」
「ああ、これでいいか?」
俺は、こいつの名前を書いたノートを見せてそう尋ねた。
「はい、合ってます…………って…………」
氷見というひ弱な奴の表情が、氷のように凍りついていったことは言うまでもない。
「ん? あ、悪いな、お前の名前までブラックノートに書いちまった。すまん」
無表情のまま告げて、俺は校舎へ戻っていった。
その日、空はしだいに曇っていって、夕暮れには激しい雨が降った。
次の日も空は曇ったままだ。
この日、学校で臨時集合があり、2つのことが公表された。
1つは、2年生の八柱誠の交通事故。無免許でバイクに乗り、
信号無視したところでトラックに轢かれたそうだ。
もう1つは、1年生の氷見影介の自殺未遂。遺書の内容といじめの現状より、
八柱らのいじめが原因のものだと断定され、
八柱の仲間、七宝剣次と六角氷弼に罰が下されたらしい。
2人とも一命は取りとめたものの、八柱は意識不明、
氷見は記憶喪失だという。
校長は、校内の規律の乱れが原因だと思っているらしいが、
本当の原因は俺……もとい、俺のブラックノートに違いないはず。
「奴らが不幸になることは、始めから決められていた。
……この俺の手によってな」
人を不幸にする恐怖は、不思議と感じなくなっていた。
その代わり、何か奇妙な感じがした。
すこし懐かしいような、嬉しいような、それでいて少し寂しいような……
夜、夢の中の白い世界でまた例の少女が現れた。
夢だということが分かっていた俺は、何とか少女に話しかけることができた。
「ブラックノートすげぇな。書かれた4人があっさり不幸になったぜ。
交通事故に、自殺未遂とその責任追及。ちょっと気の毒な気がするな」
俺の言葉を聞いた少女は満足そうに微笑んだ。
「今回すぐ不幸になったのは、たまたまなんだけどね」
少女がそう言うので、念のため確認はしておこうか。
「ところで……本当にこのノートで人を不幸にできるんだよな?」
「…………」
少女は一度言葉を詰まらせた。……まさか、ブラックノートはインチキなのか?
「その答え、あなたは知っているはずなんだけどね」
「……何だって? それはどういうことだ!?」
少女は微笑んだが、返事はなかった。
「…………本当にこのノート、なんなんだよ。分からねえよ」
白い世界から戻り、黒いベッドの中で俺は不満を洩らした。
それから、俺はノートにクラスメイトの名前を書いては、
そのこと告げることを何度も繰り返した。
一通り名前を書き終わると、他のクラスや、他の学年の奴にまで同じことをした。
俺と俺のノートの噂はたちまち学校中に広まり、
ノートに名前を書かれた奴らは自分の遭った不幸を報告し合っていたり、
これから起こるであろう不幸に怯えていたりした。
中には笑い飛ばす奴もいたけど、俺がどれほどの不幸体質なのか知っている奴が
裏で宣伝してくれているらしいので、100%嘘だと思っている奴はいないだろう。
俺に話かけてくる奴はいない。以前とは違う理由で。
しがない、ただの不幸体質であった俺は今や、
学校中の不幸の恐怖の象徴になった。たった1冊のノートによって……
支配欲はなかった。脅迫もしなかった。ただ、他人の不幸を眺めるだけ。
そうしている時、俺は奇妙な安心感に浸ることができた。
しかし、その代わり夜には不安になる。自分が何に安心感を覚えているのか、
それが分からず不安になる。
夢の中の少女はその答えを知っているようだが、俺に教えてはくれない。
「お前からは、ブラックノートの使い方以外何も教えてもらってないんだが。
俺が気に入らないのか? だいたい、お前の望みは何なんだ」
「残念ながら、そういう問題じゃないの。全ては、あなたの望んだこと。
それに、あなたの質問には、私は答えられる範囲で全て答えているはずですよ?」
いつ、何度尋ねても、得られる答えはほとんど変わらない。
『俺が望んだから』
……本当にそうなら、俺の望みは一体何なんだ?
無彩色の俺の世界を眺めても、答えは見つからなかった。
……ここのところずっと気分がすぐれない。
それに応えてか、空も一面灰色に覆われている。
最近は、学校に来てからでさえ不安に悩むようになった。
本を読む気にもならないし、ノートには既に一通り名前を書いた。
わざわざ書いてない奴を探すのも面倒だ。
俺を恐れている奴を眺めるのもいい加減飽きてきたし、時間を持て余している。
何もない時間が、苦痛に思えてきた。以前は何とも思ってなかったのに。
……このまま、何も変わらない退屈な毎日が続くのだろうか?
「それは違うと思うな」
いつの間にか白い世界にいて、また例の少女が俺に話しかけてきた。
退屈な毎日が続かないとしたら、今度は何が起こるというのだろうか?
この少女の対応にいい加減腹が立ってきたし、問い詰めてやるか。
「何を企んでいる?」
「さあ、どうかしら? 企んでいるのはどっちかな?」
またこのパターンか。俺はこんな説明で納得するつもりはない。
「また『俺が望んだ』ことにする気か? 言っとくけど俺はそんなこと知らねーぞ!
だいたい、『俺が望んだ』ってどういうことだよ! 説明しろ!」
「今のあなたは知らないでしょう。だけど、もうすぐ分かる時が来るはず」
「今、知りたいんだが? 俺が望んだことだというのならば、
俺が知っていても構わないだろう、違うか? 」
「残念ながらそれはだめ。今のあなたはまだ知るべきじゃない」
いい加減腹が立ってきた。やっぱり何の説明もないじゃないか!
「説明を求めても要領を得ないし、意味不明。
……俺が馬鹿だったよ、お前みたいなクズに質問するなんてな!!」
「…………」
少女は、しばらく黙ると急にうつむいた。
こういう奴は、ここまで言っても口を割らないだろうけど……
「……言えることには限界がある。これは真実よ」
うつむいたまま急に話し始めたな。――今さら、何を話す気だ?
「そしてすべてはあなたが……少なくとも、過去のあなたが決めたのよ。
私があなたのもとへ現れるきっかけを作ったのも、そして
その記憶を消す決断をしたのも、全部あなた」
……おいおい、冗談だろう? すべて過去の俺が望んだことだと?
そもそも、記憶を消すって何だよ。そんなことできる訳……
「信じるのも信じないのもあなたの勝手だけれど。
……でも、信じないなら、ブラックノートをどう説明するつもりかしら?
あれは、あなたの部屋から見つかったはずよ」
た、確かにそうだけれども……それって、まさか……
「まさか、お前は、俺があのノートを作ったと言う気か!?」
「実際に作ったのはあなたではないけど、
ある意味あなたが生み出したものでもあるかな」
違ったか……だが、少なくともノートを机に隠したのは俺だ。
とすると、俺は誰かからあのノートを受け取った訳で……
「ノートを作ったのは、お前か?」
「それくらい、自分で思い出しなさいよ」
相変わらず少女はうつむいたままだが、今、少し口調が強くなった気がする。
何か俺を恨めしく思っているような声だったが、気のせいだろうか?
「……言いたいことがあるなら言えよ。何か気に入らないことがあるようだな」
「…………」
「……うつむいて黙ってても分からねーよ! 顔を見せろ!!」
勢いで、少女の空色の髪を掴んで無理やり正面を向かせたんだが、
「……うわっ!!」
少女は泣いていた。目にたまった涙が、顔を上げさせた勢いで白い世界に落ちた。
俺は驚いて思わずその場から飛びずさった。
「…………何か問題でも?」
涙をぼろぼろ流しながらも、少女は俺に平然とした口調で言った。
表情と一致していない言葉が、この上なく不気味に聞こえた。
「な……何で泣いてるんだよ……いつから泣いてたんだよ……」
「そんなことも分からないの……?
あなたがさっき私に『クズ』と言ったからに決まってるでしょ?」
……確かにそう言ったけど、それだけのことで本当に泣くものなのか?
ただそう思っていた俺にとって、少女の次の言葉は衝撃的だった。
「その言葉は、あなたが初めて、そして唯一他人に使った悪口なのよ?」
「………………な…………」
俺はしばらく口がきけなかった。
確かに俺は、他人に面と向かって明らかな悪口を言ったことはなかったし、
そもそもそんなことを言うような荒れた性格ではなかったはず。
いつから変わってしまってのだろうか……?
そもそも、昔の俺はどんな性格だったのだろうか?
いや、そもそもなぜこの少女がそのことを知っているんだ?
「…………お前は一体何者なんだ? 俺の何を知っている?」
俺の問いに、少女は止まらない涙を一度だけぬぐったあと、ただこう答えた。
「もうすぐ、分かる時が来るはず」
数週間経って、俺は周囲の雰囲気の変化に気がついた。
最近まで俺に怯えたり、怖がっていた奴らが、
俺のことを大して気にしなくなってきた。
それに、どこか生き生きとしている気がする。
それも、ノートに名前を書かれる以前よりもだ。
一体どうなっているのだろうか? 皆、ノートに名前を書かれて不幸のはずなのに……
なんとなく教室を見回しているうちに、ふと後ろの席の会話が聞こえた。
「やべっ、教科書忘れた。社会の」
「うわー、あの鬼教師の教科をか、やっちまったな。大丈夫か?」
「なに、大丈夫さ。忘れようが忘れまいが、どのみち俺は不幸だろ?」
「ああ、そういえばそうだな。お前のせいじゃないから仕方ない」
「しっ、あまり大きな声で言うな。気づかれるだろ」
この会話を聞いた後、俺は奇妙な感情を感じていた。
その感情は、俺が考えもしなかった感情だった。
色彩のない自分の世界に、夕食も食べずに戻ってくると、
自分の感情がどういうものなのか考えてみた。
悲しみ、怒り、諦め、脱力感……違う。いつも感じているそんな感情ではない。
俺は考え続けた。夕日が沈み、月が空に浮かぶ頃まで。
不可解ではあったが、最終的には俺はその感情を理解することができた。
安堵感、達成感、そして喜び。……こんな感情、俺にもあったんだな。
「どう? 思い出したかしら?」
振り返ると、白い夢の世界で何度も会ったあの少女の姿が見えた。
なぜ夢の中でもないのに少女が見えるかは、特に疑問を感じなかった。
「いまいちピンと来ないけど、なんとなく分かったよ。
このノートで、俺は他人の不幸を背負いこもうとしていたんだ」
ノートに名前を書かれ、そのせいで不幸になると言われた相手は、
実際に不幸が起きたとき、原因は俺にあると考えるだろう。
ブラックノートを冗談として考えるにしろ本気にするにしろ、
その相手は原因を俺になすりつけて、不幸を乗り越えられる。
ブラックノートは、相手自身の不幸に気づかせ不幸にするだけではなく、
不幸を乗り越える道を示すものでもあったのだ。
「そして俺が最初に背負うと決めた不幸は……お前の不幸だった」
昔、俺がまだ小学生だった頃、俺には親友がいた。薄い青色の長い髪をして、
整った顔にはいつも笑顔を浮かべて、幼いながらもしゃんとした女の子。
時には一緒に遊び、時には俺のいたずらを叱ってくれて、
俺にとって彼女は妹のようであり、姉のようでもあった。
俺は、彼女の健気さには励まされ、凛々しさには憧れていた。
だがある日、1つの出来事によって、彼女は変わってしまった。
……彼女の母親が病気で倒れたんだ。
原因は不明、意識は戻らない。体は徐々に衰弱していく。
どの医師も、現状維持以上の治療は出来ないと言ったそうだ。
死んだも同然……彼女にとって母親を失うことは、あまりに厳しすぎることだった。
彼女は次第に元気をなくしていき、ついには笑顔を見せることがなくなった。
俺と話すことも少なくなった。たまに話しても、
彼女はどこか虚ろな目をしていて、生気があまり感じられなかった。
仕方ないとは思いつつも、彼女の変容ぶりに俺は困惑していた。
その最中に出た話が彼女の転校だった。彼女の父親が転勤になったらしい。
転校の話を聞いた俺は、その日までに何とか彼女の生気を取り戻せないか考えた。
そこで最初は、プレゼントをあげたり一緒に出掛けたりと、無難な方法で
元気づけようとしたのだが、まったく効果はなかった。
普通の方法では何も変わらない。そう思った選んだ方法、それが、
あえて憎まれ役を引き受けることだった。
幸いにも俺は不幸体質。だから、俺が彼女の母親に不幸を被せたという嘘には
真実味があった。憎まれ役になるため、彼女に『クズ』とも言い放った。
その結果、彼女の目には生気が戻った。それと同時に涙を流し、
恨みのこもった目で俺を見ていたのだけれど。
その少女こそ、今俺の目の前に見える少女だ。
それも、俺の記憶の中の、笑顔とやさしさに満ちていたあの頃の。
「……つまり、今俺が見ているお前はただの幻想か?」
「ある意味そうね。でも、あなたにとって重要だから現れたの」
そう、この目の前に現れた少女は確かに幻想だけれども、
過去の俺の考えを伝えてくれる重要な役割を持っている。
今や心の中の疑念はほとんど消えた。だけど、まだ聞きたいことはある。
俺はまだ、すべてを思い出した訳ではない。
「……聞いていいかな? 昔の俺はなぜ、今の俺にブラックノートを託したんだ?」
「それは、もしあなたが他人の不幸を望むようなことがあったとき、また
昔の自分を思い出してほしかったから」
「次で最後だ。俺は他人の不幸を背負って、他人に不幸を乗り越える方法を示した。
なら、俺が不幸を乗り越える方法はいったい何なんだ?」
「それは分からないわ。でも、昔のあなたはこう信じていた。
『どんなに時間がかかろうと、その方法はきっと見つけ出せる。
そしてその方法は、気づけば案外簡単なものだろう』って。
自分を信じなさい。きっといつか、分かる日が来るから……」
そう言い終わるか終らないかのうちに、いつの間にか彼女の姿は消えていた。
奇妙なノートに関する出来事はこれでもう終わり。
このノートはもう俺には必要ないだろう。
結局、いくつかの謎は残ったまま。俺が不幸を乗り越える方法は分からなかったし、
そういえばあの少女の名前も忘れたままだった。
……でも、もういいんだ。今は分からなくても、いつかきっと
分かるときが来る。
……この日、黒い1冊のノートがこの世界から消えた。