【三】涙珠の鎖、別離、この世界のむこう。
「深見に、会わせてください」
彼女の姿が『ラスヴィエート』から消え、数か月が経った。再会したあの秋から数えて、一年あまりが過ぎていた。深く頭をさげると、心底うっとうしげな溜め息が降ってきた。
「……しつこいやつだな。なぜ、そこまであれを気にかける」
あれほど気に入っていた深見がいないにも関わらず、海棠はやはり常連客として『ラスヴィエート』へやってきているようだった。どう頑張っても二週間に一度しか来ることができず、悪くすれば一か月はゆうに足の遠のいてしまうぼくと居合わせる頻度を考えると、ぼくが思うよりもよほど足しげく、海棠は来店しているはずだ。
深見がいないのに、海棠は『ラスヴィエート』にやってくる――深見をとりまくあれこれに、この男がまったく関与していないなどということは考えられない。悩みに悩んだ結果、クリスマスを目前にひかえた深夜、海棠と居合わせた『ラスヴィエート』の店内で、ついにぼくは彼に頭をさげたのだった。深見不在のいま、ひとりで彼に声をかけるのは死ぬほど怖ろしいことだったが、『ラスヴィエート』でならいくらなんでも殺されたりすることはないだろうと、そう思った。
「いや、それは……その、高校のときの」
海棠のまえで、堂々と「彼女のことが好きだったんです」、「むしろいまでも恋している感じなんです」とは言えなかったが、しかし海棠のほうはとうにそんなことはお見通しといった調子で、
「ガキのころのくだらん色恋に未練を残していると、じきに痛い目に遭うぞ」
喉の奥で低く笑って、そう言った。
「死んだと思っておけ」
「……。……は……?」
「深見瀬里は死んだ、そう思っておけと言ったんだ。そのほうが、おまえにとって幸せだと思うがな」
海棠が何を言っているのか理解できないまま、唇だけが勝手に動いた。
「ど、どういうことですか、それ」
「言葉のとおりだ。存在していないものと思え。あれはもう二度と『ラスヴィエート』に帰ってこないし、世間にも顔を出さない」
死んだと思っておけ、ということは、すくなくとも深見は死んではいないのだ、だが――。
異様に喉が渇き、しかし何をどう訊けばいいのかわからずに、ぼくは茫然と海棠のネクタイの結び目あたりを凝視していた。骨ばった大きな手がロックグラスを持ちあげるのが、硬直したぼくの視界の端に映る。聞かぬふり、見ぬふりを続けるマスターと若いバーテンダーのことが、ふいに憎らしくなった。彼らはなんの助け舟も出してはくれない。
「ひとつだけ、教えてやろうか」
と、ふと思いついたように海棠が言った。あわててぼくが顔をあげると、彼は獲物をいたぶるような眸で、こちらを見ていた。
「あれは、俺と取引をした。たがいに納得のうえで、たがいの求めるものを手に入れた。それだけのことだ」
「と、りひき、って何です、それ。死んだと思っておけって、そんなの無茶ですよ、取引って何なんですか……!」
彼はわざと、ぼくがいっそう知りたがるような言いかたをしたのだ。
「知ったところで、後悔と絶望にまみれるだけだと思うがな。ひとの親切心は、素直に受けとっておいたほうがいいんじゃないか」
いやらしい男だ。何が親切心だ、とぼくは内心で歯噛みしたが、当然のことながら「何が親切心だ」とは口が裂けても言えそうにはなかった。
「そんなことは、……わからないじゃないですか、ぼくは、ただ深見が心配で……」
自分で予想していたよりは強気な物言いができているが、海棠の底光りする眸でじっと見つめられると、語尾がつい小さくなる。海棠のグラスのなかで、まるい氷がすずやかな音をたてた。思わせぶりにウイスキーを舐め、たっぷり沈黙してから、
「この調子で今後もまとわりつかれるくらいなら、いっそ教えてやったほうがいいか……?」
独り言めいたふうで、彼は言った。翻弄されている。分かっていながら、ぼくにはどうすることもできない。ここで「教えてください、なんとしてでも教えてください」、そんなことを言おうものなら、ある意味、この男の思うつぼだと分かっているのに、
「お……教えてください」
気がついたときには、しぼりだすような声で、そう願いでていた。
「いいだろう」
海棠が、グラスを置いた。
*
海棠に命じられたとおり、それから一週間後の深夜零時、ぼくは『ラスヴィエート』に足を運んだ。見わたしても海棠の姿はなく、ぼくを見つけたマスターが、
「こちらへどうぞ」
小声で言って、バックヤードへぼくを導いた。もちろんのことながら、はじめて足を踏みいれる場所だ。ひっそりと裏に入ると、さほど長くはない廊下があり、その左右にふたつずつ扉があった。つきあたりはただの壁で、どうやら右に廊下が折れているようである。非常階段になっているのか、それとももっとべつの何かなのか、とにかくぼくはそこまでは行かずに、廊下の右側にあるふたつめのドアのなかに招かれた。
「あ……」
小奇麗な事務所といった感じの部屋だった。シンプルすぎない縦長のロッカーが四つ並んでいて、白い長机が向かい合わせにふたつ、そしてそれぞれの机に二脚ずつの椅子がある。さらにそのスペースのむこうに大きめの観葉植物の鉢があり、奥にソファセットが据えられていた。ソファに腰かけていたらしい深見は、ひとの気配を察してか、中途半端に立ちあがってこちらに視線を投げていた。
「楠木くん」
「深見……」
マスターがぼくに頭をさげ、退室した。ふたりで話してかまわない、ということらしい。深見に手招かれてソファスペースに行くと、ガラステーブルにはすでにグラスがふたつとアイスペールが置いてあった。ぼくを待っているあいだに飲みはじめていたのか、片方のグラスには美しい麦わら色の飲みものがわずかに残っている。
「先にちょっとだけ飲んじゃった」
笑う深見に、ぼくが心配していたような暗さはない。違和感のために、ぼくは眉をひそめた。
「ほら、楠木くん、座って」
空いていたグラスに氷をいれ、深見はボトルを手にとる。氷、削らないけどいいよね、という彼女の言葉に、ぼくはただ黙ってうなずいた。マッカランの三十年だ。
「これ、店のお酒?」
マッカランの三十年といえば、ずいぶんな高値のはずだった。
「お店っていうか、海棠さんの入れたボトルだから、遠慮せずじゃんじゃん飲んじゃって」
と、深見はいたずらっ子のような笑顔をみせる。一方、海棠の名を聞いただけでぼくの心臓は跳びあがって、なかなか存分に味わう機会のない酒をまえに、つい絶句してしまった。深見とひさしぶりに会った喜びや安堵が、半減したように思われた。じゃんじゃん飲めるわけがない。注いでもらったマッカランに口をつけないまま、ぼくは声が震えそうになるのをこらえて切り出した。
「あのさ、深見、訊きたいことがいっぱいあるんだけど」
彼女はわかっていたはずだ。海棠が、ただ黙って彼女をここに寄こすわけがない。
「なあに」
眩しいものでも見るような眸で、深見はぼくを見た。
「なんで店に出てこなくなったの」
「……辞めたのよ。ごめんね、いきなり何も言わずに。常連さんだったのに」
「な、んで辞めたの。なんかあったのか? いま、どうしてるの」
深見は苦笑した。突っこんだことを訊くぼくを敬遠したような、そういう雰囲気はなかった。ただ、困ったなという空気だけがやわらかく漂ってきて、ぼくを憂鬱な気分にさせた。
「ちょっといろいろあってね、海棠さんに助けてもらったの。いまは働かずに海棠さんに面倒みてもらってる」
「いろいろって、でも海棠さんて普通じゃないだろ、やばくないのか。なんか危ないことに、巻きこまれたりするんじゃないの」
少なくとも深見は、『ラスヴィエート』でそこそこ楽しく働いているようにみえた。仕事を失って、ただ助けてもらったからという理由で海棠の庇護下に置かれることが、ほんとうに彼女にとっての幸せになるのだろうか。
「楠木くん、かなり海棠さんに粘ったみたいね」
深見は、また笑った。さして憂いの感じられない、ほがらかな笑顔だ。ぼくのなかの違和感が、大きくなっていく。あの晩の海棠は、意味深なことばかりを言っていた。「死んだと思っておけ」「知ったら絶望するだけだ」――あんな不穏なことを言ったわりには、深見の表情に暗さがない。
「粘ったっていうか……だって気になるだろ、いきなりいなくなっちゃったら」
深見の細い首に、黒いチョーカーがはめられている。真ん中にさがっているのは、きらりと輝く、おそらくダイヤだ。なんだか首輪みたいだな、と、ふと思って、ぼくはぎくりとした。気づいてはならないことに気づいてしまったような、嫌な感じがした。
「……海棠さんは、深見のこと、死んだと思っておけって言ったんだ。事情を知ったら絶望するだけだって。どういうことなんだよ、そんなの、言われたからって言われたとおりにできるわけない。そうだろ?」
「あのね、楠木くん。会えるのは、これが最後なのよ。今日はとくべつに海棠さんがセッティングしてくれたから……」
「は? なに言ってるの、それどういう……」
「海棠さんに言われたよ。楠木くんが、わたしがどうしてるかものすごく気にしてるし、どこにいるのか知りたがってる。会いたがってるって。ほんとうのことを言わなけりゃ、納得しないって」
海棠は、ぼくの様子をありのまま深見に伝えたらしかった。
「そりゃそうだよ」
声が掠れた。会えるのは最後、はっきりと深見本人に言われてしまうと、もうそれ以外の選択肢がないように思われて、ひどくつらかった。
海棠は、男のぼくから見ても、いい男だった。金はありあまるほど持っているだろうし、容姿も振る舞いも申し分ない。気品があるのに野生的で、存在そのものに滴るような色気がある。生きもののなかで、堂々と頂点にたつことのできる立派な雄だ。彼が獲物に狙いをつけ、ものにするのを、ぼくたちは指をくわえて眺めていることしかできないのだ――。
わかっていた。だが、それでもよかったのだ。それでもたまに、『ラスヴィエート』で、彼女の差しだしてくれるウイスキー・マックを味わうことができれば。甘酸っぱい高校時代を懐かしく思い出させる、やさしい笑顔を眺めることができれば、それでよかった。再会してしまえばもう、「会えなくなる」などということは、考えることができなくなった。
「わたしねえ、海棠さんと取引したの。おたがいに、ひとつずつ言うことを聞くって」
「取引……」
ぼくの頭は、すこしぼんやりとしていた。これから知らされる事実が、けっして自分にとって喜ばしいものではないということを、脳が察して拒否していたのかもしれない。
「わたしを助けてくれるかわりに、海棠さんの言うことをひとつ聞くって、そういう取引」
「……その、言うことって……」
深見はそこで一瞬黙って、何ともいえない表情でぼくを見た。できれば言いたくないという顔だったが、言わねばなるまいという顔にも見えた。グラスの残りを一息に飲みほして、ついに深見は言った。
「生涯、海棠さんのもとで飼われる、って」
「……か」
深見の眸が、ぼくを憐れんでいるようだ。海棠とおなじ、眸のいろだ――ぼくの胸がかっと熱くなった。
「かわれるって」
「海棠さんの飼い猫になるっていう、そういう取引をしたの。びっくりでしょ?」
「……そ、れは、っていうか深見、は、なんでそんなに平気な顔して……」
「言ったでしょ? 海棠さん、わたしを助けてくれたの。助けてもらえずにそのままでいるのと、海棠さんの飼い猫になるのとを天秤にかけたとき、海棠さんの飼い猫になるほうがずっとずっとましだと、そう思ったのよ」
深見の声に、躊躇がない。彼女はおそらく、決意したのだ。隠さずにほんとうのことを言って、ぼくを退かせようと決意したのだ。
「そんなの、犯罪だろ……ひとを飼うだの何だのって……」
「だからね、楠木くん。心配してくれるのは嬉しいけど、だいじょうぶよ。わたしは望んで海棠さんのもとに行ったし、海棠さんの言いつけに従うことに何の苦も感じない。楠木くんには信じられないかもしれないけど、たしかにちょっと風変わりな関係かもしれないけど、わたしいますごく幸せだから」
楠木くんがそんな悲しい顔をしてどうするの、と彼女は笑った。今日の彼女は、よく笑う。
「家族とか、何も言わないの……そんな、男に飼われるなんて、結婚してるとかじゃないんだろ……?」
「家族なんていないってば。いないから、海棠さんのところでのんびりしてられるのよ、わたし。妹がひとりいるけど、念願かなって海外留学してるしね。それも海棠さんのおかげ」
深見は、ほんとうにすっきりとした顔をしていた。
「それに」
と、彼女は続けた。
「海棠さんといると、わたしが楽なんだよね」
「楽、って?」
「……性格のいい、明るくていい子を演じなくてすむから。素のまんまでいられるから、すごく楽」
ぼくは思わず言葉を失って、見るともなく深見の美貌を見ていた。ほんとうに、彼女はいま幸せなのかもしれない。ふとそのことに思い至って、そしてまた、そのことを喜んでいない自分を思い知って、愕然とした。
男に飼われて幸せなはずがない。幸せなはずがない――否それともぼくが、不幸せな彼女を求めていただけだったのか? 不幸せな彼女をぼくが救う、そんな幻想を抱いていただけなのか。深見の顔は、あまりにもあかるすぎた。それはけっして、好かない男に飼われた女の、悲しいあかるさではなかった。愛する男といっしょになった、満たされたあかるさだった。
ぼくは音をたてて、立ちあがっていた。
「……おかしい。そんな取引は……」
「楠木くん」
ひとにはいろいろな生きかたがある。深見が悲愴な顔をしているならともかく、彼女は現状に不満を抱いているようには見えない。ならそれでいいはずだ。
「深見は、あいつに命令されただけで……何もそんな素直に言うこと聞かなくたって」
吐き棄てるように言って、ぼくはドアに向かって歩きだした。
「楠木くん……わたしは」
「仕事も辞めて、首輪なんかつけられて」
「わたしは海棠さんのことが」
ぼくを追うように数歩踏みだした深見が、足をひきずっているようなのを、ぼくは視界にとらえた。彼女の言葉の続きを遮るように、ドアを閉める。
(言わなくたって、わかってる)
わたしは海棠さんのことが好き。
(あいつの言うとおりだった)
知れば絶望するだけだ、死んだと思っておけ――あの男の言うとおりにしておけばよかった。不幸な女を、かつて恋した女を救いだす、そんな思いあがりが、たしかにぼくの心のなかにはあった。わたしは海棠さんのことが好き。つまり、ぼくのこのやりばのない感情は、ただの嫉妬にすぎない。そういうことなのだ。




