【二】慕情、花のようなひと、絶望の淵。
深見の顔色が変わった――『ラスヴィエート』の仄暗い灯かりのなかでさえ、それがわかった。カウンターに立っている彼女のちょうど真ん前の席に、ひとりの客が座った、そのときのことである。海棠ではない。海棠がやってくるとき、深見はむしろリラックスしたような様子になる。残念ながらというべきか何というべきか、ぼくはそのことをすでに学んでいた。
その客は、仄暗い屋内だというのに薄い色のついた眼鏡をかけていた。これといって乱暴なふるまいをするわけではないが、チンピラめいた雰囲気を身のまわりにくすぶらせている男だ。何となくいやな感じだな、とぼくがうっすら思う程度にはいやな感じだった。これよりもよほど気品があり、なおかつよほど底冷えのする雰囲気をもっていた海棠を相手に物怖じのひとつもしない深見が、あきらかにその表情をこわばらせた。
「瀬里チャーン、マティーニ」
と、芝居がかった、間延びした調子で男が言った。とりたてて大声を出しているわけではないが、席が近いうえにぼくがそっと耳をそばだてているせいで、話す内容がよく聞こえる。男は堂々と深見の下の名を呼びつけ、品が良いとはとても言えないような笑いかたをした。
「……かしこまりました」
応じる深見の声が、いつになく低い。触れればはじけるような緊張感が漂っていた。
海棠をはじめて見た真冬のあの晩から、ぼくはふたりのことが気になってどうしようもなくて、かといって何かできるかといえばぼくには何もできず、仕事の合間を縫うようにしてひたすら『ラスヴィエート』に通いつづけてきた。あれからはや二か月、およそ五度目の来店でぼくは、深見が顔色をなくす緊迫したシーンに居合わせたというわけだ。その間にはもちろん海棠の姿も見かけたが、いま深見のまえに腰をおろしているのは、少なくともぼくにとってははじめて見る顔だった。
日付がそろそろ変わろうとしている平日の深夜、しかも外はどしゃぶりの雨で、今夜の『ラスヴィエート』はさほど混んでいない。ぼくはいつのまにかお決まりの席になったカウンターの隅、そしてひとつ空けた左隣に、その招かれざる雰囲気の男が腰かけている。ぼくたち以外に、カウンターまえに座る客はいない。深見の異変を感じとったのか、マスターや例の若いバーテンダーも、さりげなくこちらに気を配っているようだった。
「お待たせいたしました。どうぞ」
緊張感のあまり表情をなくしたような、のっぺりした声だ。
「瀬里ィ」
カクテルグラスを差しだしてすぐにカウンターにひっこめた深見の手が、ぴくりと震えたような気がした。ぼくはぼんやりしているふうを装って、深見の手もとを見つめていた。盗み見や盗み聞きのテクニックばかりが上達していくようで非常に情けないが、かといって無関心でいられようはずもない。
「そういえば佳奈は、新宿に引っ越したらしいな」
「…………」
不自然な沈黙に、思わず彼女の顔を見あげてしまった。そこにはこわばりも緊張もなく、いっさいの表情が彼女の顔から消え失せて、気配だけが凍りついたようにみえた。ついぼくは、
「すみません、あの」
後先も考えずに声をかけていた。はっとはじかれたように、深見がこちらを見る。自然、隣に座る男の視線もこちらにむいた。攻撃的な視線だと、薄いサングラス越しでもよくわかった。
「あ……っと、あの、キルケニーを一杯……」
深見が深呼吸をする。そして一拍の沈黙をおいてから、いつもの笑顔がぼくにむけられた。
「かしこまりました」
ぼくの割りこむような注文が効果をもたらしたかどうかははなはだ疑問だが、深見はそのときを境に、ふたたびいつもの平静さと笑顔をとりもどした。むしろそれこそを鉄仮面といいかえてもいいような理想的な接客態度は、以降いっさい崩れることはなく、低く舌打ちをした男は三十分も経つか経たないかというころに店を出ていった。
ビルのエントランスで待ちうけていたぼくをみて、深見は一瞬ひどく狼狽したような顔をみせたが、すぐに笑いかけてくれた。もちろんぼくは、この数か月で悟ってしまっている。十年もまえから変わらない彼女の、このやさしい笑顔は、けっして彼女のほんとうの笑顔ではない。あのころぼくたちが接していたのは、すでに偽られた感情のこもらない笑顔だったのだ。
「びっくりした、どうしたの? 楠木くん。明日も仕事なんじゃないの?」
けれども偽りにせよ、深見の笑顔はあかるくて魅力的にすぎる。彼女に再会したころのぼくは、正直なところ、もうすこしべつの何かを期待していたものだった――男なんてそんなものだ。自分のまえでだけは泣いてくれるのではないかとか、自分にだけは頼ってくれたりするのではないかとか、そういう期待を帯びた妄想ばかりたくましくしている。だが深見は、当然のことながらぼくの期待とは裏腹に、やはりほがらかな笑顔のままで、さきほど『ラスヴィエート』で見せた動揺や緊張の気配などはおくびにも出さなかった。頭ではわかっていたことだが、つまりぼくは、彼女にとってその程度の存在なのだった。当たり前の話だ。
「あ、いやあの、まあ……なんていうか、久々にしゃべりたくて」
「そうだよねえ、ごめん。いつも店に来てくれるのに、通りいっぺんの挨拶くらいしかできてないもんね」
「いや、べつにそういうつもりで言ったんじゃないよ、そんなんじゃ」
特別女の子が苦手なたちでもないのに、唇から出る言葉がやけにぎこちない。玄関から大通りのほうへ歩きながら、「そう?」と深見は眸を細めて笑った。彼女の笑顔は、ぱっと見ただけでは嘘には見えない。
「最近、ほんとよく来てくれるよね」
我ながら恥ずかしくなってしまって、ぼくはその言葉を曖昧な愛想笑いで受けながした。
「そういえば楠木くん、家近いの? もう終電ないけど……」
「あ」
「あれ、何、もしかして忘れてたの」
彼女はかるく声をあげて笑った。ふたり並んで歩きながら、ぼくはちょうどそのとき、道路に停まる黒塗りの高級車に気づいてしまった。深見も同時に気づいたようで、彼女は呆れたような溜め息をかるくこぼした。
「楠木くん、どうせだから乗っていきなよ。送っていくわ」
そう言って、深見は黒塗りの車を顎でしめした。ぼくのなかでは海棠と一発で結びつく、霊柩車みたいな存在の車だ。もちろんぼくは、怖気づいた。
「いや、いやいや、いいよそんなの。ていうか……どういう関係なの、深見とあのひとは」
つい声まで小さくなる。
「ああ、海棠さん?」
「もしかして、その、恋人とか」
「ちょっとやだ、まさかでしょう。怖いこと言わないでよ」
深見は笑って、ひょいとぼくの手をつかんだ。やわらかく細い手は、ぼくが少しはねのけただけで壊れてしまいそうなほどだった。高校生だったあのころでさえ、彼女に手を握られたりなどはしなかったのだ。ぼくの胸は恐怖なのか緊張なのかときめきなのかわからない、奇妙な騒ぎかたをしている。
ぼくの手をつかんだまま、深見が車窓をこんとたたくと、後部座席の窓が音もなくおりた。車のなかに、スーツ姿の男がいる。海棠だ。流すようにぼくを一瞥した双眸が威圧的で、つい彼から目を逸らす。しかたのないことだった。ぼくはしがないサラリーマンで、二十数年のこの人生のなかで、海棠ほど高貴でおそろしげな男に出会ったことはないのだ。容姿に特別めぐまれているわけでもなし、胸を張って自慢できるような資産持ちなわけでもない、良くも悪くも平凡な男なのだから。
「なんだ? それは」
それ、というのはつまり、ぼくのことらしい。ぼくは胆を冷やした。
「ほら海棠さん、降りてください」
深見が後部座席のドアを開け、海棠を引っ張りだしたので、ぼくはさらに絶句して立ち尽くした。彼女はそれから、運転席のほうへも声をかけた。
「木谷さん、このひと、わたしの同級生なんです。家まで送ってもらえませんか」
「おい、どういうつもりだ」
と、呆れたように海棠が口をはさんだ。思ったほど機嫌を悪くしているわけではなさそうだが、かといって上機嫌にもみえない。ぼくは焦りに焦って、深見をとめた。
「ちょっと深見、いいよ、いいって。ひとりで帰れるって、子どもじゃないんだから、タクシーでも何でもつかまえてさ」
そういうと、彼女はなぜか申し訳なさそうに言った。
「いいのよ楠木くん。むしろこっちの都合なの。お願い、送られてくれない?」
「え……」
ぼくにはわけがわからない。だが深見のその表情にいったい何を察したのか、海棠がひとつ溜め息をつき、そのうつくしい長身をまげて後部座席から運転手へ声を投げた。
「木谷。言うようにしてやれ」
「かしこまりました」
海棠はそして、ぼくの頭から爪先までを値踏みするように見た。
「ふん。こいつのために、おまえはこの俺を危険に晒そうというわけだな?」
「え、あの」
「べつにそういうんじゃないですってば。ほら、いいから楠木くん、乗って。住所伝えて、送ってもらって。木谷さん、よろしくお願いしますね!」
逡巡するぼくの背を、深見の細い腕が力いっぱいに押す。深見と海棠か、あるいは海棠だけでもつづいて乗ってくるのかと思いきや、驚いたことにぼくの背後でドアは閉められた。
「またお店来てね、楠木くん!」
「え、ちょっと、おい」
あっけにとられて、流れはじめた車窓のそとを見ると、深見が手をふっていた。
「お住まいを教えていただけますか。お送りいたします」
「いやあの、でも、深見とかその……」
「ご心配にはおよびません。海棠がついておりますので」
いいや、その海棠がそもそも危険なオーラを放っているから心配なんだ。いったい何がどうなって、こんな事態になっているんだ――そういうぼくの心中が、そっくりそのまま顔に出ていたのか、木谷はかすかに苦笑したようだった。
「申し訳ございませんが、海棠にも瀬里さんにも事情がございまして」
「事情って……」
「どうか何もお訊きにならずに、お宅までお送りさせてください」
「いや、でも」
「……あまり追及なさるのも、野暮というものですよ」
「…………」
深見と海棠の、深夜のデートを邪魔するなということなのか? 木谷はもうなにも言わず、車の速度をあげた。なにも訊くな、という意志表示なのだろう。あわてて、ぼくがリヤウインドーを振りかえると、すでに深見たちの姿は遠くなっていた。
「あの」
しかたなく住所を告げたあとで、ぼくは怯む心をおさえ、決死の覚悟で木谷に声をかけた。ぼくは心配だった。海棠といい、今夜の不穏な客といい、どうも深見が危険なところに――普通に生きていたのでは辿りつきようもないところに、足をつっこみつつあるのではないかという気がしていたからだ。
「深見は大丈夫なんでしょうか」
「と、申しますと」
「ええと……」
「海棠でしたら、瀬里さんの悪いようにはいたしません。ああ見えて、おふたりはわりにうまくやっておられます。どうぞご心配なく」
「いやまあ、それは、その、そうなのかもしれないんですけど、そうじゃなくて今日、変な客が来てたから……」
「……それは、いつ」
木谷の声が低い。
「あー、っと、正確には覚えてないですけど、たぶん十時くらいかな? 三十分くらいで帰っていかれましたけど、ただあのとき、ぼくからみても深見の顔色が悪かったし、なんか感じの悪い客だったから……」
木谷の表情が険しくなっていたことに、ぼくはこのとき気づかなかった。彼の運転する高級車はさらにいくらか速度をあげて夜の道路を走り、さして時間もかからないうちに、ぼくの自宅マンションの裏手に着いた。
*
夏の気配を濃く感じるようになったころ、『ラスヴィエート』の近くでは些細といえば些細な、だが不穏な事件がいくつか起こった。隣ビルの地下に入っていたバーが放火の被害に遭い、さらに近くのカフェで暴漢が暴れて店内備品を壊した、というものだった。それからもうひとつ、ニュースにはならなかったが、『ラスヴィエート』の入るファッションビルの裏手で、うち捨てられていた三匹の猫の死体が見つかったらしく、そのことをぼくは会社受付の女の子から聞いた。社内でも頻繁に、「物騒だから、しばらく六本木のほうに行くのをやめとこう」、などという言葉が囁かれるようになり、ふとぼくは、もしかしてそれが犯人の目的なのではないだろうか、と思った。
このところ一か月ほど、『ラスヴィエート』から足が遠のいている。行きたくなかったというわけではなく、五月初旬からずっと、欧州出張のために日本を離れていたからだ。帰国して山積した仕事に忙殺されているあいだに、その数件の不穏な事件が起こって、ぼくがようやく『ラスヴィエート』に行くことができたのは、七月のあたまに入ってからのことだった。
客数がやや減ったように感じたのは、おそらく気のせいではないだろう。白髪のマスターは、ぼくの顔をみてかすかに困惑したような微笑みを見せた。
「いらっしゃいませ」
「ご無沙汰しています。ええと、あの……深見は」
不躾とはわかっていたが、ひどく気が急いていた。
「少々お待ちくださいませ」
マスターに呼ばれてカウンターに出てきた深見は、どこか疲れた顔をしていた。疲れた顔や、暗い顔を隠すのは、とても上手なはずの彼女である。ぼくはつい怪訝そうな声で、
「体調でも悪いの」
ストレートに訊ねてしまった。
「……ちょっとね、昨日から歯痛がひどいの」
疲れた顔で、疲れた声で、それでもなお深見は微笑して、こっそり答えた。歯痛なんて嘘だ。そう思ったが、問い詰めるわけにもいかなかったし、それ以上のことを教えてくれそうな感じでももちろんなかった。
そしてこのときが、『ラスヴィエート』での彼女との最後の対面になった。




