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【一】再会、海棠、夜のむこう。

  「クラースヌィ・ラスヴィエート」


 はっきりと覚えている。ぼくがはじめて海棠かいどうをみたのは、雪のちらつく二月の夜のことだった。その男は、カウンターまえのスツールにゆったりと腰かけながら、「深見はいるか」、と氷をけずっていたバーテンダーに訊いた。


   *


 昨年の秋、高校時代のクラスメイトだった深見瀬里ふかみせりと、およそ十年ぶりに再会した。上質のチョコを出す店だからといって上司に連れられて訪れた六本木のバーで、ぼくのまえにウイスキー・マックをすべらせてきたのが彼女だった。


 ――かつてぼくは、彼女に恋をしていた。思春期のまっただなかにいたあのころ、彼女に好意をもたない男のほうが少なかったかもしれない。彼女はあかるかった。優しく、いつでもほがらかに笑っていた。顔だちはたしかにうつくしかったが、彼女はうつくしさよりもむしろ、その性格でひとを惹きつけていたように思う。ただ、ひとつ言えるのは、ぼくたちが彼女を求めていたようには彼女はぼくたちを求めていなかった、ということだった。高校を卒業してすぐ、彼女はぼくたちのまえから忽然と姿を消したのだ。メールも電話も繋がらなくなった、と、彼女と付き合いの深かった数人の女友だちは、卒業後はじめての同窓会で悄然とつぶやいた。

 そういうことがあったので、再会したその夜の帰りがけに「よかったらまたおいでね」と微笑まれたとき、ぼくは嬉しさに飛びあがりたくなったほどだった。深見と再会したことを、ぼくはそのあとだれにも言わなかった。

 ぼくの仕事は、海外出張が多い。拠点は都内だが、グローバルMDという職種柄、しばしば先輩上司とともに本社のあるベルギーや、店舗を展開している海外各国に出かけていかなくてはならない。都内にいたらいたでやるべき仕事は山積していて、それこそバーに立ち寄る暇などなく、秋に深見と再会して以降の四か月でぼくがバーに行くことができたのは、いまのところたったの三度、そして驚くことに彼女とまともに会話できたのはたった一度だけだった。

 ぼくがはじめて平日の夜に(平日といっても金曜のことだったが)バーを訪れることができたのは、年が明けてバレンタイン商戦が終わり、二月も下旬になってからのことだった。ほとんど何か月ぶりかに七時に会社を出ることができたので、ぼくはその足ですぐに六本木にむかった。受付の女の子たちがはしゃいでいたとおり、夕暮れどきから降りはじめた雪で街はうっすらと白くなっていた。今年の冬は、ひときわ寒いような気がする。

 高級バー『ラスヴィエート』は、駅まえのファッションビルの高層階にある。カクテルがグラス一杯二千五百円もするようなバーは本来ぼくのような平凡な会社員が足しげく通える場所でもないのだが、そうとわかっていてもぼくは、深見の顔を見たかった。落ち着いた仄暗い店のなかには、静なさざめきがあった。席を埋める客々の多くはエグゼクティブ然としたスーツ姿の男性客で、彼らはシックなデザインのソファやバーカウンターで思い思いに酒や葉巻をたのしんでいる。そういう客にまぎれるようにして、幾組かの男女ふたり連れが、夜景を眺めながら酒をのんでいた。客をえらぶバーだな、とぼくはこれまで何度も思ったことを胸中でつぶやきながら、遠慮がちに空いていたバーカウンターの隅に腰をおろし、さりげなく深見の姿を探した。

「あ、ウイスキー・マックを」

 品のよい微笑みとともにこちらへやってきた若いバーテンダーに、注文がてら深見がいるかを訊ねてみると、まもなく準備を終えて店のほうに出てくるとのことだった。時計の針は、まだ八時を指している。時間はたっぷりある――明日はひさしぶりの休日だし、何なら深見の仕事が終わるまで待ったっていい。そう思うと、普段はたいして美味くも感じないウイスキーが、今晩はしみるように美味かった。

 ぼくが座った席の右手には、まさに夜空の星ぼしを映しこんだような夜景が広がっている。カウンターの隅とはいえ、すこし体を捩じりさえすればぞんぶんに夜景を楽しむことができた。カウンターのなかには、さきほど注文をとってくれた若いバーテンダー以外にもうひとり、白髪混じりのバーテンダーがいる。これまでに来店したのが三、四度とはいえ、そのたび深見がいるかどうかを訊ねるぼくのことをすっかり覚えてしまったのか、「同級生なんです」と再会したときに言ってくれた深見の言葉を覚えているせいなのか、その白髪のバーテンダーはやわらかく微笑んでぼくに会釈をした。紳士的でやさしいそれにぼくがほっとした、ちょうどそのときだった。

 上質のさざめきのなかに静かな緊張がはしったような気がしたのは、ぼくの勘違いではなかったはずだ。その緊張は、エントランスから波紋のようにバー全体に広がっていったように思われた。やってきたのは、三つ揃いのスーツを着こなした長身の男である。いちばん窓際に腰かけていたぼくには、すこし体の向きを左に変えさえすれば、店内の様子を眺めることができる。静かなくせにやけに目立つその男が来店するなり、若いバーテンダーのほうがさりげなくその身をひるがえし、バックヤードに消えた。そうすることに慣れた、なめらかな動きだった。自分のスーツの下で鳥肌がたっていることに、ぼくは気づいた。こういう尋常でない存在感の人間は、稀にだが、たしかに存在するのだ。

 年をとっているようには見えないのに、チャコールグレーの三つ揃いがさまになっていて、ゆったりとしたそのふるまいにおかしがたい貫録がある。そしてその男は、カウンターまえのスツールに――あろうことか、空席をひとつ飛ばしたぼくの隣に――腰かけながら、「深見はいるか」、と氷をけずっていた白髪のバーテンダーに訊いたのだった。

「いらっしゃいませ、深見はただいま参りますので、いましばらくお待ちくださいませ」 

 バーテンダーが答えて、ぼくはそのときはじめて気づいた。さっき男の訪れと同時に、若いバーテンダーがバックヤードに消えていったのは、深見を呼びにいくためだったのだ。ぼくを待たせておくのとおなじようには、とうていできない相手なのに違いない。ぼくの胸はいやな感じに脈うった。視線をあげきれないまま、ぼくはウイスキーを舐めながら神経を研ぎすませ、耳をそばだてた。

「お待たせいたしました、海棠さま」

 深見の声だ。思わずぼくは視線をあげたが、深見のきれいな顔は、まるで帝王のような隣の男にむけられていた。

「迷惑そうな顔をしているじゃないか?」

 低くうつくしい声に、愉悦のいろがある。だれが見ても明らかだ。この男は、深見のことをたいそう気に入っている。

「めっそうもございません、迷惑だなんて」

 答える深見の声にも、やわらかな笑みがあった。神経を研ぎ澄ませているぼくには、ふたりの男性バーテンダーがほかの客の相手をしながらも、海棠の言動にずいぶん気を遣っている様子なのがわかった。そういう微妙な緊張感のなかで、深見は物怖じしたふうもなく男と接していた。彼女の笑顔は、十年まえと変わらない。きらめきをふくんだ眸をすこし細めるようにして、さらりと流すように笑う。そういう笑いかたを、彼女はするのだ。

「どうぞ」

 と、深見がグラスを男のまえにすべらせた。男がいっさいの注文を口にしていないというのに、だ。色あいからしてグラスのなかはウイスキーのロック。深見はよくよく男の好みを知っているらしく、また男のほうも目のまえに出された酒に不満の表情は見せなかった。とんびに油揚げをさらわれたような、まさにそういう思いで、ぼくはしかし深見に追加注文のひとつさえできなかった。

 男以外のだれひとりとして、深見に声をかけない。すくなくともぼくの経験では、深見は声をかけてきた客とまんべんなく言葉をかわすのに、海棠と呼ばれたその男にみな遠慮しているのだ。まるで深見は、海棠専用のバーテンダーのようだった。しかも彼女は、何の注文を受けるわけでもないのに、さらにつまみの小皿を男のまえにさしだす。

 緊張しきって身動きのとれなくなったぼくに、深見は気づいたようだった。遠慮がちなぼくの視線と深見の視線がぱちりとぶつかって、彼女は一瞬その眸をまるくし、それからあの笑顔を見せてくれた。

「なにかおつまみをお出ししましょうか」

 と、彼女はぼくに声をかけた。何の気負いもない、あかるく穏やかな声だ。

「え、あの、じゃあ……ええと……なにかおすすめのものが、あれば」

 思わずぼくの声は上擦った。左隣に座る男は、視線をかるく伏せるようにしてグラスをまわしている。ぼくが彼を気にしているのはだれの目にも明らかだっただろうが、深見はただ笑って、

「かしこまりました」

 そう言った。おなじカウンターのなかで、きっと男性バーテンダーふたりははらはらしているのに違いない。男に気を遣ったのか、それとも彼を怖れたのか、ぼくとは逆のカウンター端に腰をおろしていた客と、すぐ後ろのテーブル席にいたふたり連れの客は、いつのまにか姿を消していた。

 深見がぼくに出してくれたのは、チョコレートを使ったプチガトーだった。ぼくがチョコレートメーカーに勤めているのを、彼女は覚えていてくれたらしい。

「今夜は何時にあがる予定だ」

 緊張をまぎらわすために口にケーキを運んでいたぼくの心臓が、おおきくはねた。「今夜は何時にあがる予定だ」、それを訊いてどうするというのだ。この男と深見がいったいどんな関係なのか――客とバーテンダーという関係を逸脱した仲なのか、それが気になる。

「企業秘密ですよ」

 さらりと深見がかわしたのに、何ということだろう。

「深夜の一時になります」

 と、白髪のバーテンダーがあっさり答えてしまった。異例の対応だ。女性従業員の勤務終了時間を客に教えるなど、本来あってはならないことのはずだった。心臓をどきどきさせながら耳だけをそばだてていると、

「なら、一時にもういちど迎えに来よう。送ってやる」

「またそんなこと。ひとりで大丈夫ですから」

「聞きわけろ、深見」

 思わずちらりと視線をむけると、すくいあげるように深見を見あげた海棠の双眸が、有無をいわせないひかりをたたえていた。ひそやかな声でかわされている会話は軽妙であるような気もするし、やけに色っぽいような気もする。

「お言葉にあまえなさい。業務命令だ」

 年配のバーテンダーが、ささやいた。彼にそう言われてしまうと、深見ももう断りきれないらしい。かすかに困ったような顔をしてから、今度は海棠をかるく睨んでみせた。媚びではない、ないけれどなにか、ほかのだれも入ってはいけないような感情のやりとりがあるような気がして、ぼくの胸はさらに苦しくなった。この海棠という男は、いったい何者なのだ――深見はいったいこの男とどういう関わりかたをしているのだ。

 明日は休日で、深見が仕事を終えるのは今夜一時。そしてその時刻に、ふたたびこの傲然とした男が、彼女を迎えにくるという。みじかい時間でぼくはいろいろなことを考えた。十年まえの深見のことを、それからあのころ制服姿で笑いあっていたぼくたちのことを考えた。

 チョコレートケーキの最後のかけらを口のなかに放りこんで、ぼくは立ちあがった。


   *


 四時間後、ぼくは『ラスヴィエート』の入っているファッションビルのすぐ近く、閉店したもののまだ灯かりのついているカフェの軒下で、茫然としていた。携帯を弄りながら人待ち顔でいるぼくに、だれも注意をはらったりはしなかった。

 仕事を終えて出てきたらしい深見の腕を、道路わきに停めてあった黒塗りの車から降りてきた例の男がぐいと引き寄せて、

「……で、だいじょうぶなのに」

 はっきりとは聞きとれなかったが、なにか責めるように言った深見のくちびるを、海棠が自分のそれで塞いだのだった。深夜一時の暗がりと、仄明るいカフェの灯かりが、ぼくの姿をすっかり隠してくれている。けっして見たくはない光景だというのに、ぼくの視線はふたりのキスシーンに釘づけになった。官能的でうつくしい光景だった。ふたりが数歩こちらに近づいてきたのをみて、ぼくは慌てて手もとに視線を落とした。

「プライドが高いのもいいが、ほどほどにしておかないと痛い目に遭うぞ」

「そうじゃないですってば」

 拗ねたような深見の声が聞こえる。

「もう、子ども扱いしないでください、海棠さん。これでも一応、気を遣ってるんだから」

「わかってる、おまえはじゅうぶんおとなだ。さっさと乗れ」

 と、海棠はいともたやすく深見をあしらった。緊張するぼくをよそに、彼らは停めてある車に近づいていく。ぼくの頭のなかは混乱していた。彼女は海棠にキスをされて、海棠はまるで脅しのような言葉を吐きながらその細い腰を抱き寄せた。『ラスヴィエート』では終始おだやかに接客していた深見が、まるでおとなに甘える子どものように不機嫌さをあらわにし、海棠はごくあっさりと彼女をあしらった――恋人どうしのようでもあったし、堅気でない男との尋常ならざる関係であるようにもみえた。

「思ってもないことばっかり」

「いいから、乗れ」

 そのあしらいに彼女もきっと憮然としたのだろうが、その深見の表情が、ぼくには想像できなかった。ぼくは、彼女の笑った顔しか知らない。声を荒げたり怒ったりするさまを、ぼくは見たことがなかったのだ。息もできずに立ち尽くすさきで、深見は車の後部座席に押しこめられ、つづいて海棠が乗りこんでいった。専属の運転手がいるのだろう、ぼくが見てもわかる高級車は、すぐに深夜の街なかへ消えた。


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