もの書きな彼女
僕は非常に落ち込んでいた。
今考えれば馬鹿なことだ。六年生に上がってのクラス替えで、好きだった幼なじみの女の子と同じクラスになれなかったくらいで、これほど落ち込んでしまう僕は、相当精神が弱かったのだろう。
その時、六年生のクラスは二クラスしかなかった。だから、その幼なじみの子のクラスは隣りだし、すぐに会いに行けたのだから落ち込むことなんてない。……はずだったのだが、それまで五年間同じクラスだったということもあって、そのときの僕には物凄くショックだった。
それで新学期早々、放課になるとすぐに屋上へと向かった。
僕には落ち込んだときに屋上へ行くという性質があった。友だちと喧嘩したとき、先生に説教を喰らったとき、分けもわからず悲しくなったときはいつも行った。
だが、さすがに高学年になってからは、そんなことで落ち込むこともなくなってきていた。
――屋上なんていつぶりだろう。またここに来ることがあるなんて。
僕は小さく溜め息をついた。情けないやら恥ずかしいやら、そんな思いが心中で渦巻いていた。
僕は屋上の扉を力なく、ゆっくりと開けた。
春のほのかな暖かさをまとった清らかな風が、ゆっくりと気持ち良く吹き抜ける。
――ああ、懐かしい。
匂いというか、雰囲気というか、どこかそう感じさせた。胸の辺りがほっこりとする。
そんな雰囲気に包まれた僕の気持ちは、わずかばかり上向いた。
ここに来るといつもそうだった。何か言葉では表せない元気を貰えるような気がしてならない。
僕は空を見上げた。澄みきった青の空に、気持ち良さそうに浮かぶ真っ白な雲。大小さまざまな形で自由に浮かんでいる。
――雲はいいなぁ。
何ともなしにそう思うと、自然と口元が緩んだ。
僕は町の景色が見たくなって、金属製の手すりのほうへ歩みよった。
「……あ」
僕は、そこに人がいることに気付いた。
手すりに背をもたれる形で体育座りをして、左手にはメモ帳、右手には鉛筆を持って何か書いている。体育座りなんかしてるもんだから、チェックのスカートの中身が見えそうで、なんとも危ない。
僕は反射的にそこから目を逸らして、その子の顔を見た。
――見ない顔だな。
数秒の思案ののち、僕は意を決して話しかけた。
「あ、あの……何してるんですか?」
すると、メモ帳に向けられていたその子の顔がこちらを向く。と同時に目をわずかに大きくさせ、驚いた様子を見せる。
黒くて艶やかで綺麗な長い髪。白くてつるっとした肌。どこか大人っぽい落ち着いた顔立ち。僕に向けられたその目は、透き通るように綺麗だった。
なるほど、確かに可愛い。可愛いが……、こんな子うちの学校にいたっけ?
「あの、えと……しょ、小説を書いてるのよ」
少し戸惑いながらも冷静を保とうとする彼女が、子供っぽく見えて可愛かった。
――すっ、凄いな……。小説なんて書いてるんだ。
僕にとって小説は、文字が多くて小難しいという印象だ。だから、読むといえば夏休みの読書感想文を書くときぐらいのものだ。
それだから余計に感心した。あんなに文字ばかりを何ページにもわたって書く気力は僕にはない。
「好きなんですか、小説」
僕の問いかけに、彼女はいたって冷静に答える。
「ええ、小説は毎日読んでるわ。でも、やっぱり読むより、自分で書くほうが好きね」
彼女は「見ての通りね」と付け加えて、わずかに口元を緩ませた。
――凄いな。書くだけじゃなくて、毎日読んでるんだ。
僕は感心しっぱなしだった。
彼女は言い難そうに口を開いた。
「あ、あの……。もしよかったらこれ……読んで、くれないかしら?」
彼女はそう、とぎれとぎれに言って、先ほどのメモ帳を差し出した。
僕は少し驚くと同時に、困惑した。
だって小説苦手だし、文字見るだけで面倒くさいし。だから嫌なんだけど、彼女が頼むならっていうのもあるし。
「でっでも。僕、小説苦手だし……」
すると彼女はすぐに言葉を返した。
「大丈夫よ。今度書いたのは短篇だし、明るい話につくったつもりだから。苦手な人でも読みやすい……、と思うの。駄目……かしら」
そう言って彼女は少しうつむく。
――その目は反則じゃないか。
僕は仕方なく、彼女の差し出したメモ帳を受け取った。可愛いらしいピンク色をしている。
「わ、わかったよ」
僕は、彼女から受け取った漫画の単行本くらいの大きさをしたメモ帳を、めくっていった。
さすが女の子。字が綺麗で読みやすい。僕は、すらすらと読み進めるうちに物語に引き込まれていった。
話自体は、小さい頃からの幼馴染みの恋愛、というわりとありがちな設定だ。しかし、どこか他のものとは違うというか、オリジナリティーみたいなものがあって、それでいて穏やかで、静かで、綺麗で。次第に僕の胸は幸福感で満たされていった。
気が付くと僕は、あっという間にそれを読み終えていた。
今の僕の心は、不純な物をいっさい取り除かれたような、淀みのない何かでいっぱいになったような、そんな気持になっていた。
「ど、どう……かしら」
彼女が心配そうに問う。
「ええ……と。ありがちな話だったけど、読みやすかったし、おもしろかった……かな。あとは、主人公の気持ちに共感できた……というか……」
僕は思ったことを口にした。少し上から物を言ってるような感じで失敗したと思ったけど……。
「共感できた……か。――あっ、そうだわ」
彼女は突然、手をポンと叩いた。
――え、えと。何か、まずいこと言ったかな。
彼女は、「良い案を思い付いた」みたいな顔をして言う。
「これからも私の書いた小説を読んでくれないかしら」
「え!?」
僕は、自分の意志とは関係なく、反射的に驚きの声をあげていた。
確かに、彼女の小説は、今までの小説に対する印象とは違った。読みやすかったし、おもしろかった。それに幸せな気持にさせられる。
だが、どれだけ読みやすくて、おもしろく、幸福感を得られたとしても、文字の塊には変わりはない。それに、これから彼女が小説を書く度に読むのでは面倒くさいし、億劫だ。
僕は否定しようとした。
「で、でも……」
僕の言葉を聞いたか聞かぬか、彼女はこんなことを言ってのける。
「じゃあ決まりね」
彼女は、さも当たり前のように、落ち着いた声で言うのだった。
――なんて強引な。
僕は、あまりもの彼女の態度と言葉に、言い返すことすら出来なかった。
「あっ、そういえば自己紹介がまだだったわね。
私は六年一組、九条桜。あなたは?」
「ぼ、僕は川上春輝」
僕は言われるがままに名乗ってしまった。
「よろしくね、川上君」
「……よろしく」
もう後には引き返せないのであった。
それからというもの、僕は週に一回は(またはそれ以上)屋上に行き、彼女の書いた小説を読んだ。時には彼女が小説を書いているのを横目に、彼女のおすすめしてくれた本を読むこともあった。
今まで習い事も部活もやってこなかった僕にとっては初めて出来た趣味であり、生き甲斐といってもよいものだった。
でもそれは、あまりにも自然に僕の生活に溶け込んで、まさに今までもそうであったかのように習慣になっていった。
僕にとってその時間――彼女といる間は、心休まる時を過ごせる唯一の場だった。それ故、僕の生活には無くてはならない大切なものだった。
彼女の書いた小説は、初めて読んだときと同じ、穏やかで、静かで、綺麗で、僕の胸に幸福感を残していった。
そして僕は、そんな彼女の書く小説に、次第に惹かれていった。
読むたびに、確実に彼女は腕を上げ、僕の胸にさらに大きなものを残していった。
あれから一年と半年が経った、中学一年の秋。
僕は相変わらず彼女が書いた小説を読み続け、部活にも所属せず、ただただ静かで平凡な毎日を送っていた。
あの頃と変わったことといえば、少しばかり背が伸びたことと、声が小指の爪ほど低くなったことと――――。
僕は今日、いつもよりも三十分も早く家を出た。
三十分早いだけなのに、少しばかり薄暗く感じる。空には、若干夜の暗さが残り、東のほうから昇る太陽は夕日のようなオレンジ色に輝いている。
「はぁ……、はぁ……」
僕は、通いなれた学校への道を息を切らして走る。
さすがに吐く息はまだ白くないが、身を切るような風が汗をかいた体に冷たい。
だが僕は、そんな風など感じないほど一目散に走り、学校へと駆け込んだ。
昇降口。まだまだスリッパだらけの下駄箱にただ一つ。「九条」と書かれた白い運動靴を見つけた。
――もう来てる。
僕は内心焦りながら、おそらく今日二足目となるだろう学校指定の白い靴を自分の下駄箱に放り込み、そこからスリッパを出して履き替えた。
――呼び出した僕のほうが遅いなんて最悪だ。
僕は反省と不安の入り混じった気持ちで、階段を急いで駆け上がり、屋上へと向かう。
右手に持った黒鞄がたまに膝に当たって地味に痛いけど構わない。
僕は屋上の扉の前で立ち止まり、肩で息をした。荒い息が心臓を刺激してドクドクといわせる。
僕は呼吸の整わないまま、勢いよく扉を開け放った。
コンクリートの壁と、今しがた乱雑に開けた扉がぶつかる衝撃音が、屋上全体に響く。
「……はぁ、はぁ」
僕は呼吸を整わせながら彼女の姿を探した。
そして、僕は見つけた。金属性の手すりに体育座りでもたれ掛かる少女を。
黒くて艶やかで綺麗な長い髪。子どものようにつるっとした白い肌。どこか大人っぽい落ち着いた顔立ち。それでいて不思議な雰囲気の彼女。九条桜はそこにいた。
左手に可愛らしいメモ帳を、右手にどこにでも置いてそうなシャーペンを持ち、先ほどまで何か書いていたであろう、そんな状態のままで顔だけをこちらへ向けている。
先ほどの大きな音でこちらに気付いたのだろうか。彼女とは目が合っている状態だ。
「ご、ごめん。待たせた、……かな」
そう僕が言うと、彼女は落ち着き払った声で言う。
「いいえ。まだ川上君が指定した時間にはなってないわ。ただ、私が早く来てしまっただけよ」
「そ、そう」
沈黙。彼女はまた何やらメモ帳に書き始める。見慣れた光景だ 。僕と彼女は一年半、こうやって過ごしてきたからだ。
彼女はこの一年間で、本屋に並んでいてもおかしくないんじゃないかというほどのものを書くまでに上達したし、僕にとっても彼女の小説を読む時間は幸せだった。彼女の作品は、小川を流れる水のように透き通っていて、綺麗で、穏やかで、それでいて読者をドキドキさせる。そんな作品だった。
僕はそんな彼女の作品にいつも夢中になった。楽しくて楽しくて、次の一ページ、一行、一文字が気になって仕方なかった。てそれを全て読み終わったとき、平穏で、ほんわりとした幸せな気持ちに、いつもさせられていた。
そして、彼女の作品を読むうちに、僕も彼女をそんな気持ちにさせてみたい、そう思うようになっていた。
だから僕は今日、こんなに朝早く、彼女を呼び出したんだ。どうしても早く読んでほしかったから。
「九条さん。僕もあなたにあこがれて小説を書いたんです。初めて書いたものだし全然ダメだとは思うけど、読んでくれませんか? 九条さんに、一番最初に読んでもらいたいんです」
僕は黒鞄を開け、ガサゴソと探って一冊のノートを取り出した。何の変哲も無いただの大学ノートだ。
僕は彼女のそばに寄ってそのノートを差し出した。
「あ、あなたが書いたの? 川上君」
彼女は目を真ん丸くして、いかにも驚いたという様子で僕に尋ねる。
――僕が書いたらそんなに変かな。
僕は内心首を傾げながらも、「はい」と答えた。
すると彼女は、頬を少し桃色に染めた。
「うれしい……」
柔らかく微笑んだその表情に、僕は少しドキッとした。
――九条さんて、こんな表情もするんだな。
そう思うと僕まで頬が緩んでしまう。
彼女は僕が差し出した大学ノートを受け取って読み始めた。黒い漆を塗ったように艶やかな長い髪を、右手で耳にかける。
彼女のものを読む姿はまさに真剣そのものだった。一ミリたりとも笑いもせず、一切表情を変えない。ただ目を上下に規則的に動かし、紙のすれる音をたててページをめくる。それだけだ。
僕の書いた小説を読む、彼女の表情からは、その感想をうかがい知ることは出来ない。
居心地の悪い静寂。心臓が破裂せんとばかりに脈を打つ。自分の書いたものを見てもらうというのはこういうことなのだと、思い知らされる。
それにしても彼女の文章を読む速さは、尋常ではなかった。さすがに毎日本を読んでいるだけある。
そして、読み始めてからものの十五分。彼女は約大学ノート一冊ぶんにもわたる文章を読み終えたのだった。
僕は、その人間離れした早さに驚きながら、恐る恐るこう口にした。
「どう、ですか」
一瞬の沈黙ののち、彼女は一言。
「つまらないわ」
「そう、ですか」
くやしい。覚悟はしていた。だが、面と向かって言われるとやっぱり悔しかった。初めて書いたし、うまく出来ないのも当然だと分かっていてもやっぱり悔しかった。
そんな僕の気持ちに、畳み掛けるように彼女は続ける。
「何もかも、めちゃくちゃね。基本がなってないわ。不必要な人物ばかりだして分かりにくくするし、誤字脱字のオンパレードときたわ。おまけにご都合主義の超駄文ね」
彼女は表情を変えずそう言い放った。
僕は正直凄くへこんだ。素人が始めて書いたものだからしょうがない、などとは簡単にわりきれなかった。
何より彼女に感動を与えたかった。楽しませたかった。笑顔にさせたかった。今まで自分がもらった分ととまではいかないけど、少しでもお返しをしたかった。
僕は知らぬうちに泣いていた。次から次へと、まるでダムが崩壊したみたいに涙は押し寄せてくる。手の平は固く閉じ、肩は小刻みに震える。
――何だ。この気持ちは。
僕は初めて対面したこの気持ちに戸惑った。悔しさを超越したものと、自分の無力さに嘆く気持ちを足して、幾重にも重ねたようなこの気持ち。
これがきっと、本当に「悔しい」ってことなんだろうと思った。
今まで経験したことの無い本気の「悔しい」。どうにもならないと思いながらも、どうにかしたいというそんな気持ち。
そんな思いが涙と共に口をついて溢れ出てくる。
「それでも……超駄文でも、つまらなくても――僕は小説を書きたい。僕は、あの時から……九条さんと会ったから変わることが出来たんだ」
僕は涙で歪む視界の中で、九条さんが真剣に僕のほうを見ているのが分かった。
僕は涙をぬぐった。
「それまで、僕には趣味も、ましてや夢なんか全く無かった。でも、九条さんと出会って、小説のおもしろさに気付かされた。初めて出来た趣味だった。生き甲斐だった……。
九条さんの作り出す物語は、穏やかで、綺麗で、幸せな気持ちになった。――――だから僕も九条さんを…………みんなをそんな気持ちに出来たらって、そう思った。だから、僕は『小説家』になる。みんなを幸せな気持ちにする。小説家になって、今まで九条さんからもらった分の幸せをお返ししたいんだ」
僕は、左腕の学ランの袖で涙をぬぐった。
こんなに熱くなったのはのは久しぶり、いや初めてかもしれない。
「あなたの気持ちはよく分かったわ。暑苦しいほどにね」
彼女は、しょうがないわねみたいな顔で微笑みそう言った。
僕は、今さらながら少し恥ずかしくなっていた。
彼女の黒い艶々した黒髪が、涼しげな秋風にふわりとなびく。
それから、彼女は頬を染めて、どこか遠くを見つめるような表情を見せて言った。
「これからは、私があなたの小説を見るわ」
彼女の表情はどこまでも淀みなく、さっぱりとしていた。
「……え?」
僕は先ほどあんなことを言われたものだから少しばかり驚いた。
「もちろん、たまには私の小説も見てもらうけれど。……前にも言ったかしら。私はただの趣味として書いているだけ。あなたが読んでくれるだけで十分なの。でも、あなたは『小説家』を夢として、みんなを幸せにすることを目標に小説を書こうとしてる」
彼女は向き直り、真っ直ぐに僕を見つめた。表情は緩やかだが、その目は僕の胸に突き刺さるように真剣だった。
僕はドキッとした。
穏やかな風が僕の前髪を撫でる。
「私は桜。あなたが春なら、私はその春を綺麗に彩る桜になるわ。だから……「春輝」は、私を使って、綺麗な風景を作って頂戴」
中学一年の秋。僕の夢はここから始まった。
「ありがとう、九条さん」
読んでいただいてありがとうございました。
また、よろしくお願いします。