海嘯(かいしょう)より来(きた)る
〇お題「犬」の短編です。
和泉国、犬鳴山。
古来より修験者が跋扈するこの霊峰は、峻烈なる山気が支配する地であり、およそ海というものからは最も無縁の場所である。
だが、深山に鎮座する『行者の滝』が滝開きを迎える夜に限っては、現世と異界の理に奇妙な綻びが生じると囁かれていた。
三界の怪異を追う男は、滝の近くで肌を刺すような異常な気配に足を止めた。
鬱蒼たる杉林を吹き抜ける冷気の中に、あり得ざる匂いが混じっている。
――なんて、むせ返るような、潮の香?
ふと滝壺の暗がりへ目を凝らすと、そこにはおぞましき光景が広がっていた。
本来ならば岩肌しかないはずの空間に、眩い陽光に照らされた真っ青な南国の海と白砂が、蜃気楼の如く揺らめいているのだ。
現世と幻影の境界線に、異物は立っていたのだ。
濡れた夜闇のような漆黒の皮膚。
不自然に波打つ細い四肢。
頭髪は血の如く赤く、双眸にあたる部位には真紅の呪具のような器官が張り付いている。
何より異形なのは、頭部から垂れ下がる巨大な桃色の、兎の耳とも犬の耳ともつかない何かである。
それはまるで生き物のように、不気味に蠢動していた。
口元はさざ波のように細かく震え、一切の感情を読み取らせない。
さらに異物の背後には、歪な光芒を放つ文字が、虚空に直接刻み込まれていた。
『夏は――海だねぇ?(修羅場)』
のんきなセリフに乗せられた狂気の念に、男は戦慄した。
「……なんだ、これは」
思わず声が漏れた刹那、異物の波打つ口が限界まで裂け、耳を劈く超音波の如き絶叫が夜の静寂を切り裂いた。
同時に、滝壺の深淵から膨大な量の海水が逆巻く津波となって溢れ出し、古木の立ち並ぶ杉林を呑み込もうと牙を剥く。
山中に突如現出した異物を前に、男は恐怖に足をもつれさせた。
万事休すかと思われた、その時である。
漆黒の闇の奥底から、大地を震わせる咆哮が轟いた。
――ウォォォォン!!
それは、かつて己の命と引き換えに主を大蛇から救ったという、犬鳴山開基の伝説たる義犬の霊威であった。
神々しい白銀の影が男の前に躍り出ると、押し寄せる狂気の海原と異形の怪物へ向けて猛然と吠え猛る。
その咆哮に応じ、霊峰の岩肌に金色の梵字が次々と浮かび上がった。
山そのものが巨大な結界と化し、海の蜃気楼を異界の奥底へと押し返していくのだった。
強大な山の気に圧された異物は、忌々しげに桃色の巨大な耳をばたつかせると、虚空の文字を、さらに歪なものへと変化させた。
『またねぇ?』
そして、空間の断層の向こう側へと、引き波のように溶けて消え去った。
幻影が掻き消えた後には、瀑布の重低音と、清浄な山の冷気だけが残されていた。
さっきまであたりにに満ちていた潮の香りも、今はもう、なかった。
しかし、呆然と立ち尽くす男の足元には、山にある筈のないホラ貝が残されていたのである。
あれが最後のクリーチャー襲撃だとは、思えない。




