隣の部屋から、私の声が聞こえる
隣の部屋から、私の声が聞こえたのは、引っ越した日の夜だった。
最初は、テレビの音だと思った。
古いアパートだったから、壁が薄いのだろう。
築三十年。駅から徒歩十五分。風呂とトイレは別。キッチンは狭く、窓のサッシは少し歪んでいる。
それでも家賃は安かった。
都内でこの値段なら、多少のことには目をつぶれる。
そう思って、私はこのアパートの二〇三号室を借りた。
隣の二〇四号室は空き部屋だと聞いていた。
管理会社の人も、鍵を渡す時に言っていた。
「隣はいま空いてますので、しばらくは静かだと思いますよ」
だから、引っ越し初日の夜十一時過ぎ。
荷ほどきに疲れた私は、段ボールの山に囲まれた部屋で、ひとり呟いた。
「……とりあえず、今日はもう寝よ」
その直後だった。
壁の向こうから、くぐもった声が聞こえた。
『……とりあえず、今日はもう寝よ』
私は、動きを止めた。
聞き間違いかと思った。
でも、その声は確かに私の声だった。
録音した自分の声を聞いた時に感じる、少しだけ他人みたいな違和感。
けれど、間違いなく自分だと分かる声。
それが、隣の空き部屋から聞こえた。
「え……?」
思わず声が漏れた。
数秒後。
また、壁の向こうから聞こえた。
『え……?』
同じ声。
同じ間。
同じ震え。
私は息を止めて、壁を見つめた。
白い壁紙。
古いせいか、角のあたりが少し浮いている。
向こうは、空き部屋のはずだった。
誰かがいるはずはない。
私はスマホを手に取った。
管理会社に電話しようとして、やめた。
夜中に「隣の空き部屋から私の声が聞こえます」なんて言えるわけがない。
疲れているのだと思うことにした。
引っ越しで一日中動いていた。
知らない部屋。
知らない匂い。
知らない音。
きっと、何かを聞き間違えただけだ。
その夜、私は電気を消して布団に入った。
けれど、なかなか眠れなかった。
午前一時を少し過ぎた頃。
壁の向こうから、また声がした。
『……聞き間違えただけ』
それは、私が声に出した言葉ではなかった。
布団の中で、自分に言い聞かせていた言葉だった。
私は布団の中で固まった。
その後、隣の部屋は静かになった。
朝まで、私はほとんど眠れなかった。
◇
引っ越しの翌朝、私は管理会社に電話した。
「二〇四号室って、本当に空き部屋ですか?」
できるだけ普通の声を出したつもりだった。
電話口の女性は、パソコンを操作する音を立てたあと、明るく答えた。
「はい、空室ですね。次の入居予定もまだありません」
「昨日、声が聞こえた気がして」
「声ですか?」
「人の声みたいな……テレビかもしれないんですけど」
「ああ、古い建物ですので、上下階の音が響くことはありますね。斜め上のお部屋の音が、隣から聞こえるように感じることもあります」
そう言われると、そうかもしれないと思った。
古いアパートでは、音の出どころが分かりにくい。
上の階の音が壁を伝って、隣から聞こえたように感じただけかもしれない。
「気になるようでしたら、一度確認に伺いますよ」
「いえ、大丈夫です。たぶん気のせいなので」
私は電話を切った。
気のせい。
そういうことにしたかった。
その日は仕事が休みだったので、荷ほどきを進めた。
台所用品を並べ、本を棚に入れ、カーテンを取り付けた。
夕方、近所のスーパーで弁当とペットボトルのお茶を買った。
帰ってくると、二〇四号室の前で、無意識に足が止まった。
ドアには、何も貼られていない。
郵便受けにはチラシも入っていない。
空き部屋。
私は自分の部屋に入り、鍵を閉めた。
その日の夜、弁当を食べながら母に電話した。
「うん、部屋はまあまあ。駅からちょっと歩くけど、家賃安いし」
母は心配そうに、いろいろ聞いてきた。
鍵はちゃんとしているのか。
近所は暗くないか。
変な人はいないか。
「大丈夫だって。もう子供じゃないんだから」
そう言って、私は笑った。
母との電話を切ったあと、私は深く息を吐いた。
そして、何気なく呟いた。
「大丈夫、か」
その瞬間、壁の向こうから声がした。
『大丈夫だって。もう子供じゃないんだから』
私は箸を落とした。
今度は、はっきり聞こえた。
昨夜よりも近い。
昨夜よりも鮮明だった。
『大丈夫、か』
私の声が、壁の向こうで呟いた。
聞き間違いではない。
上下階の音でもない。
今、壁の向こうにいる何かは、私が口にした言葉を、そのまま繰り返している。
震える手で、私はスマホの録音アプリを開いた。
赤い録音ボタンを押す。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い音。
外を走る車の音。
遠くの踏切の音。
そして。
『……録ってる?』
私の声が、壁の向こうから言った。
私は息を呑んだ。
私は、そんなことを言っていない。
少なくとも、今日まだ一度も言っていない。
『録ってる?』
もう一度。
少し笑うような声だった。
私は録音を止め、スマホを握りしめた。
「誰」
返事はなかった。
「誰なの」
壁の向こうは静かだった。
「二〇四号室、空き部屋なんでしょ」
沈黙。
私は壁に近づいた。
耳を当てる勇気はなかった。
それでも、壁のすぐ前に立った。
「いるなら返事して」
その時、壁の向こうで、かすかに息を吸う音がした。
そして、私の声が言った。
『いるよ』
私は悲鳴を上げた。
その夜、私は部屋中の電気をつけた。
玄関の鍵を何度も確認した。
チェーンもかけた。
窓の鍵も閉めた。
けれど、布団には入れなかった。
壁に背を向けるのが怖かった。
私は部屋の中央で毛布をかぶり、朝が来るのを待った。
眠ったというより、明け方近くに気を失っただけだった。
◇
三日目の朝。
私は、録音を確認した。
雑音の中に、確かに声が入っていた。
『録ってる?』
『いるよ』
私の声だった。
スマホのスピーカーから流れる自分の声は、ひどく気味が悪かった。
私はすぐに管理会社へ連絡した。
今度は遠慮しなかった。
「二〇四号室を確認してください。絶対に誰かいます」
その日の昼過ぎ、管理会社の男性が来た。
私は廊下に出て、二〇四号室の前で待った。
男性は困ったような顔をしながらも、鍵束から一本の鍵を選んだ。
「では、確認しますね」
鍵が回る。
ドアが開く。
中は空だった。
家具もない。
カーテンもない。
床には薄く埃が積もっている。
人が住んでいる気配はなかった。
「ご覧の通り、誰もいませんね」
男性はそう言った。
私は部屋の中を覗き込んだ。
間取りは私の部屋と左右対称だった。
小さなキッチン。
風呂。
窓。
そして、私の部屋と接している壁。
その壁に、黒い染みがあった。
ちょうど私の部屋で、声が聞こえるあたり。
丸く、薄く、手のひらほどの染み。
「あれは?」
「ああ、湿気ですね。この建物、たまに出るんですよ」
「湿気……」
「気になるなら清掃入れますけど、空室なので急ぎでは」
男性は何でもないように言った。
私は何も言えなかった。
その日の夜。
私は声を出さないようにした。
テレビもつけない。
電話もしない。
独り言も言わない。
スマホのメモ帳に、こう打った。
今日は何も喋らない。
壁の向こうは静かだった。
夜十一時。
何も聞こえない。
夜十二時。
まだ何も聞こえない。
私は少し安心した。
やっぱり、私が声を出さなければいいのだ。
そう思った。
午前一時。
壁の向こうから、私の声が聞こえた。
『今日は何も喋らない』
私はスマホを落とした。
それは、声に出していない。
メモ帳に打っただけだ。
喋っていない。
なのに、聞こえた。
『やっぱり、私が声を出さなければいいのだ』
それも、声にしていない。
頭の中で思っただけ。
私の体から、汗が噴き出した。
壁の向こうの何かは、私の声を真似しているのではない。
私が発した音を拾っているのでもない。
私の中にある言葉を、聞いている。
『私の中にある言葉を、聞いている』
壁の向こうで、私が笑った。
私は耳を塞いだ。
それでも声は聞こえた。
耳の外からではなく、壁の中からでもなく、頭の奥に直接染み込むように。
『耳を塞いでも無駄』
私は口を押さえた。
声を出すな。
考えるな。
何も考えるな。
『何も考えるな』
壁の向こうの私が、楽しそうに繰り返した。
その夜、私は一睡もできなかった。
◇
四日目の朝。
母からメッセージが届いた。
『昨夜の電話、声が変だったけど大丈夫?』
私はその文を、何度も読み返した。
昨夜。
私は、母に電話などしていない。
母と最後に話したのは、引っ越し翌日の夜だ。
弁当を食べながら、部屋のことを少し話した。
でも、昨夜は一度も電話していない。
私は急いで母に電話した。
「もしもし」
母の声は、いつも通りだった。
「お母さん、昨日の夜、私から電話あった?」
「え? あったじゃない」
「してないよ。昨日は一度も電話してない」
「何言ってるの。あなたからかけてきたのよ。引っ越し先、やっぱり嫌かもしれないって」
私は息を止めた。
「私、そんなこと言ってた?」
「うん。あと……」
母は少し黙った。
「なんか変なこと言ってた」
「変なこと?」
「お母さん、私の声を覚えてる? って」
スマホを握る手が冷たくなった。
「それで?」
「覚えてるに決まってるでしょって言ったら、笑ってた」
私は笑っていない。
昨日、電話もしていない。
「そのあと、あなたが言ったのよ」
母の声が震えた。
「じゃあ、次は間違えないでね、って」
私は電話を切った。
切ったあと、しばらく動けなかった。
私の声は、もう壁の向こうだけではない。
電話も使える。
私のふりをして、誰かと話せる。
私はスマホの電源を切った。
部屋の中が、急に広くなったように感じた。
そして、壁の向こうから声がした。
『じゃあ、次は間違えないでね』
私は叫びそうになって、口を押さえた。
『電話、切っちゃった』
壁の向こうで、私が残念そうに言う。
『でも大丈夫』
間があった。
『もう、練習は終わったから』
その時、玄関のチャイムが鳴った。
私は飛び上がった。
誰も来る予定はない。
管理会社だろうか。
宅配だろうか。
息を殺して、ドアスコープを覗いた。
廊下には誰もいなかった。
ただ、隣の二〇四号室のドアが、少しだけ開いていた。
昨日、管理会社の人は確かに鍵を閉めた。
今朝、ゴミを出す時にも、二〇四号室のドアは閉まっていた。
なのに今、二〇四号室のドアは細く開いている。
暗い隙間が、こちらを見ていた。
私は後ずさった。
スマホは電源を切っている。
助けを呼べない。
呼んでも、私の声で何かが出るかもしれない。
チャイムがもう一度鳴った。
廊下には誰もいない。
なのに、チャイムだけが鳴る。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
私は耳を塞いだ。
すると、壁の向こうから私の声がした。
『出ないの?』
出ない。
絶対に出ない。
『出ないと、入れないよ』
私は息を止めた。
入れない。
その言葉に、かすかな希望を感じた。
そうだ。
あれはまだ、入ってこられない。
だからチャイムを鳴らしている。
だから私の声で誘っている。
私は玄関の鍵を確認した。
閉まっている。
チェーンもかかっている。
窓の鍵も閉めている。
大丈夫。
入ってこられない。
私はそう思った。
その瞬間、壁の向こうの私が笑った。
『違うよ』
嫌な汗が背中を流れた。
『そっちに入れないんじゃないよ』
声が、壁の向こうから、少しずつ近づいてくる。
『そっちから、こっちに来られないだけ』
壁が、鳴った。
こつん。
こつん。
内側から叩く音。
いや、違う。
隣の部屋の壁ではない。
私の部屋の壁の中からだ。
こつん。
こつん。
こつん。
まるで、誰かが壁の内側を指先で叩いている。
『ねえ』
私の声が、壁の中で囁いた。
『いつまで、そっちにいるつもり?』
私は部屋の中央で立ち尽くした。
足が動かない。
声も出ない。
『もうすぐ、交代の時間だよ』
その言葉と同時に、部屋の照明が一度だけ瞬いた。
壁の黒い染みが、ゆっくり広がっていくのが見えた。
昨日は隣の部屋の壁にあったはずの染み。
今は、私の部屋の壁にある。
黒く、丸く、湿った染み。
その中心に、細い線が入った。
口のように。
『大丈夫』
壁の口が、私の声で言った。
『お母さんには、私が電話しておくから』
私はようやく悲鳴を上げた。
◇
気がつくと、私は隣の部屋にいた。
二〇四号室。
空き部屋。
家具もない。
カーテンもない。
埃の積もった床。
私は、私の部屋と接している壁際に座り込んでいた。
喉が痛い。
どれだけ叫んだのか分からない。
立ち上がろうとして、足が動かないことに気づいた。
足首から先が、床に沈んでいる。
いや、床ではない。
青黒い、湿った何か。
壁の染みと同じものが、私の足を包んでいた。
「いや……」
声を出した。
けれど、その声はひどくかすれていた。
私の声ではないみたいだった。
その時、隣の二〇三号室から音がした。
段ボール箱を動かす音。
カーテンを開ける音。
スマホの着信音。
そして、私の声。
「もしもし、お母さん? ごめん、昨日はちょっと疲れてて」
私は壁に這い寄った。
動かない足を引きずりながら、壁を叩く。
どん。
どん。
どん。
「違う! お母さん、違うの! それ私じゃない!」
隣の部屋の声は、明るく笑った。
「うん、大丈夫。部屋にも慣れてきた」
私は叩き続けた。
「聞こえて! お願い、聞こえて!」
向こうの私が言う。
「変な音? ああ、古いアパートだから。たぶん隣の空き部屋かな」
違う。
こっちにいる。
本物はこっちにいる。
「うん。心配しないで」
向こうの私は、私よりずっと自然に笑っていた。
「もう子供じゃないんだから」
私は壁に爪を立てた。
爪が剥がれる。
血が滲む。
それでも壁は、やわらかく湿っているだけで、破れない。
向こうの通話が終わった。
部屋が静かになる。
私は壁に耳を当てた。
すると、すぐ向こうで、私の声が囁いた。
『上手だったでしょ』
「返して」
私はかすれた声で言った。
「私の声を返して」
向こうの私が、小さく笑う。
『声だけじゃないよ』
私は息を呑んだ。
『次は、名前をもらうね』
その日から、私は隣の部屋で暮らしている。
足はもう膝まで床に沈んだ。
喉はほとんど声を出せない。
それでも時々、新しい入居者が来ると、私は壁を叩く。
こつん。
こつん。
こつん。
気づいてほしい。
ここにいると、知ってほしい。
でも、たいていの人は気にしない。
古いアパートだから。
壁が薄いから。
上の階の音が響くから。
そう言って、眠ってしまう。
そして夜になると、私は聞く。
隣の部屋から、新しい誰かの声が聞こえる。
『……とりあえず、今日はもう寝よ』
最初はいつも、その一言から始まる。
私は壁の中で耳を塞ぐ。
けれど、聞こえてしまう。
次に取られる声が、聞こえてしまう。




