君が突然僕の前に現れた日のこと
――あれ?
金曜日の夜中。昼間取材した2人の女性の資料を整理していたら、見慣れないものが出てきた。
淡いピンクの表紙の小さな手帳。ずいぶん使いこまれている。
そういえば、最初に会ったほうの女性はたくさんの資料を机に並べて、熱心に話をしていた。そのなかに紛れ込んでいたようだ。職場で輝いている女性に話を聞く、女性誌の人気企画。上司の指示で仕方なく来る女性も多いなか、彼女はちょっと異質だった。20代前半だろうか、まだ若い。目をキラキラさせて、仕事の楽しさを熱っぽく語っていた。
手帳をぱらぱらとめくってみる。名前は書いていないが、今日の日付のところに取材の時間が書き込まれていた。やはり最初に会ったほうの女性のものだ。
連絡を取ろうともらった名刺を確認する。会社の電話番号とメールアドレス。まあ、こんな時間につながるわけもない。月曜日にでも連絡してみよう。
しんと静まった真夜中の部屋。これから明け方までの時間に、インタビュー記事をまとめる。これが僕のルーティンだ。
携帯が鳴っているのに気づいて、目が覚めた。手に取ると、見知らぬ番号からの着信だった。数回鳴って切れた。確認すると、今朝から同じ番号の着信が何度もあった。
午後6時を回っていた。留守電が入っていたので再生する。
――中村さんですか。昨日取材でお世話になった遠野です。ちょっと確認したいことがあって……またご連絡します。
その口調は、ずいぶん焦っているようだった。すぐに折り返し電話する。
「中村ですが。遠野さんですか」
「あ、はい。すみません、何度もお電話してしまって……あの、もしかして……」
「ああ、手帳ですよね。ありますよ」
「本当ですか? ……よかったあ。ずっと探してて」
よほど困っていたのだろう。電話越しにもほっとしている様子がわかる。
「送りましょうか。会社でも、ご自宅でも」
「あの……できたら」
一瞬口ごもる。
「もしよかったら、これから取りに伺ってもよろしいでしょうか。遠くても大丈夫です。ご迷惑はおかけしませんので。受け取ったら、すぐに帰りますので。あの……」
「……いいですよ」
彼女のあまりの必死さに、思わずそう答えていた。
「中野です。JRのほう。駅についたら連絡ください。持っていきますよ」
「ありがとうございます! すぐに行きます。ええっと……30分くらいで着きます」
そう言うと、彼女はすぐに電話を切った。
駅の前の通りで、彼女は落ち着かない様子であたりを見まわしていた。
「おまたせしました」
声をかけると、こちらを振り返り、ぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます。……すみません、お休みのところ、ご迷惑を……」
そのとき、彼女の視線がすっと動いた。そのまま、すばやく僕の横を通り抜け地面にしゃがみ込む。何かを拾って手に持つと、こちらを振り返る。
「すみません。ちょっと待っててください」
彼女の目線の遥か先に、子どもを載せた自転車が走っていく。あの自転車から何かが落ちたらしい。
――いや、さすがにあの速さの自転車を追いかけるのは無謀だろう。
そう思っていると、彼女はすごい速さで駆けだした。小柄な体が、みるみる小さくなっていく。数百メートル先の信号が赤になり、止まった自転車に駆け寄る。そして、軽く頭を下げると、行きと同じ速さであっという間に戻ってきた。
「後ろに乗ってた子が、靴を落としちゃったみたいで……すみません」
肩で息をしながら、彼女は微笑んだ。そして、ふいにふらふらと地面に座り込む。顔が真っ白になっている。
「……大丈夫、ですか?」
「ごめんなさい。朝から何も食べてなくて……おなか、すいちゃって」
駅前の行きつけの定食屋に彼女を連れて来た。カウンターに並んで座る。
「勝手に押しかけたうえにこんなこと……本当に、すみません」
「かまいませんよ。僕も、ちょうどこれから朝食を取ろうと思っていたので」
「え、朝食?」
「……あ、いや」
夜7時をとうに回っている。さすがに「朝食」はおかしいか。
「ああ、ライターさんのお仕事って、昼と夜が逆転しちゃうって聞いたことがあります。中村さんも、そうなんですか?」
「まあ……そうですね」
注文を取りに来た店員に、いつものようにビールとつまみを注文する。すると彼女は少しためらったあと、「私もビールください」と言った。
最近の若い子はあまり酒を飲まない印象だ。珍しいなと思っていると、
「お酒、大好きなんです」
恥ずかしそうに笑った。「こう見えて、けっこう強いんですよ、私」ちょっと得意げに横目でこちらを見る。
運ばれてきたジョッキのビールを、彼女は美味しそうに飲んだ。
「遠野さんは、ずいぶん足が速いんですね」
「中学のとき、陸上部だったんです。短距離で」
「なるほど。それにしても、自転車を走って追いかけようなんて、ずいぶん……親切なんですね」
我ながら、ちょっと皮肉めいた口調になった。
「いいえ。あれは、自分自身のためです」
「え?」
彼女はジョッキのビールを半分くらい一気に飲んだ。
「ああいうときって、諦めてしまったら絶対あとで後悔すると思うんです。走ったら追いつけたかもしれない。あの親子は靴をなくして悲しい思いをしなくてすんだかもしれない。後からそう考えて落ち込むくらいなら、ダメもとでやってみようって。やってダメなら、それは仕方ないことだから」
昨日の取材で、目を輝かせて仕事について語っていた姿と重なった。若いのに、自分をしっかり持っている。芯の強い女性なんだろう。
運ばれてきた料理をおいしそうに口いっぱいにほお張っている。気づくとビールも3杯目だ。自分とほぼ同じペースで飲んでいる。こんな小さな体で……大丈夫なんだろうか。
そんな僕の不安は、見事に的中した。
駅から10分ほど歩いて、アパートの前まで来た。
いくら体が小さいとはいえ、成人の女性――しかも酒に酔って眠っている――を背負ってくるのはなかなかの重労働だった。彼女はぐっすり眠ったまま、目を覚ます様子はない。
やれやれ。さあ、どうするか。
といっても、ここまで来てしまった以上部屋に連れて帰るしかないだろう。仕方ない。酔いがさめて自分で帰れるようになるまで少し寝かせておこう。
部屋に入ると、起こさないようそっとベッドに寝かせる。
この部屋に最後に女性が来たのは果たして何年前だったか。まさか、こんなことになるなんて。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、口にする。店を出てここまで帰る間に酔いはすっかりさめてしまった。ソファでビールを飲みながら、ベッドのほうを振り返る。
彼女は気持ちよさそうに寝息を立てている。ほぼ他人である男の部屋で。
――そういえば、あの手帳、まだ返してなかったな。
バッグを引き寄せ、取り出した。淡いピンクの表紙。思えばこの手帳が事の始まりだった。よほど大切なものなんだろう。彼女のリュックのそばへそっと置いた。
「別れた彼の、連絡先がね……書いてあるんです。それ」
眠っていたはずの彼女が、ふいに口を開いた。
「別れようって言われて、すぐに携帯の連絡先を、消しちゃって、全部……でも、やっぱりどうしても伝えたいことがあって、それで……」
まだ酔っているのか、口調がおかしい。「何言ってんだろ、私……あれ?」
急に体を起こすと、目を見開いて僕の顔をじっと見る。
「中村さん……ですよね」
「はい」
彼女はゆっくり首を回しておそるおそる部屋のなかを見回すと、慌てて自分の姿を確認する。そして、もう一度僕のほうを向いた。
「……もしかして私、いま、すごく迷惑かけてますよね」
「まあ……そうだね」
やっと状況が飲み込めたようだ。呆然と前を見たまま固まっている。
その様子を見て、なぜかひどく笑いが込み上げてきた。こらえようとしても止まらない。いったい何なんだ、この子は。思わず声を出して笑う。
――こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。
彼女はソファに座り、僕の手渡した水を飲んだ。さっきより少し落ち着いたようだ。
「ごめんなさい……いつもはこんなことないのに。酔って眠ってしまうなんて」
「それは……最近、いろいろあったからじゃないの?」
「ああ……私、さっき何か言いましたよね。余計なこと……」
肩を落としている。
「あの……ひとつ質問してもいいですか」
「どうぞ」
「中村さんにとって……仕事って、どんな存在ですか」
思い詰めたような顔をしている。
「そうだね。人として、生きていくための手段、かな」
「それは……生活費を稼ぐためってことですか?」
彼女は僕の目をまっすぐに見る。
「私……仕事ってお金のためだけじゃなくて、すごくやりがいがあって楽しいことだって、そう思ってるんです。でも、まわりの友達からはあんまり共感してもらえなくて……夢中になると周りが見えなくなってしまって……彼から、そんなに仕事が大事なら、自分なんていなくていいだろうって」
目線を落とし、膝に置いた手を握りしめる。
「私……やっぱりおかしいんでしょうか。中村さんも……」
「違うんだ。……さっき僕が言ったのはね」
彼女は顔を上げて僕を見る。
「お金を稼ぐためって意味じゃなくて……僕にとって文章を書くことは、自分の気持ちを外に出すための手段なんだ。自分のなかにあってうまく言葉に表せないものを文章に書いてる。そうしないと、人としての自分が保てないような……なんて、わからないよね。こんなの」
おそらく自分より5、6歳は下であろう彼女に、こんなことを言ってもきっと理解できないだろう。これは自分だけの感覚だ。わかっていながら、つい言葉にしていた。彼女のまっすぐな瞳に、なぜかこれは言わなければいけないと感じた。
何を考えているかわからない。まわりからいつも言われている。感情表現が苦手なのだ。さっきのように、声を出して笑うことなどめったにない。
「難しいけど……中村さんの言ってること、ちょっとだけわかるような……つまり、仕事、好きなんですよね」
好きか、嫌いか。そんな単純化した聞き方が、彼女らしいと思った。そして、彼女の必死さも伝わってきた。僕に何か答えを求めていることも。
「好きだよ。仕事は好きだし、やりがいもあって、楽しいと思ってる」
僕の顔をじっと見ていた彼女は、何度もうなずいた。「……よかった」いまにも泣きそうな顔で、無理やり微笑んでみせる。
空が明るくなるころ、何度も頭を下げて彼女は帰っていった。大事な手帳を握りしめて。
――もしまた悩んだりしたら、遊びにおいで。
そのとき、確かに僕はそう言った。もちろん社交辞令だ。しかし彼女はそう捉えなかったらしい。週末になると連絡が来た。「行ってもいいですか?」
この間のように外で酔って寝られたらたまらない。そう考えて、家に呼んだ。食事を作って、一緒に酒を飲んだ。彼女はビールを手に、仕事のことを嬉しそうに話した。
やれやれ。いったい僕は何をしているんだろう。
そんな気持ちが、何度か会ううちに少しずつ変化していった。彼女はいつもまっすぐで、一生懸命だ。よく笑い、よく怒る。そして、さんざん飲んで話したあとは、まるで電池が切れたように眠った。ほぼ他人……とも言い切れなくなった男の部屋で。
いつものようにベッドへ運ぶ。安心しきった寝顔。よくも、まあ……。ベッドの端に腰を下ろして彼女を見た。ふと、その髪に手を伸ばしかけ、途中で止める。いや……。すると、眠っていたはずの彼女の手が僕の手に触れた。
「……私のこと、嫌いですか?」
好きか、嫌いか。相変わらず彼女らしい。そして、答えは決まっている。
「好きだよ」
彼女は僕の腕を強く引き、背中に手を回した。「……よかった」バランスを崩し、彼女に覆いかぶさる格好になる。
そのままそっと抱きしめた。まさか、こんなことになるなんて。「私も、好き」もう、気持ちを抑えられなかった。抱きしめた腕に、力をこめる。




