伊勢松坂屋の味の伝承。料理本と料理話家をつくろう。各料理の上達度に応じた焼印制度等
「自分の話の本は、まあ置いといてやな」
博之は帳面を前にして、そう言った。
「自分の本、ですか」
お花が首を傾げる。
「自叙伝や。わしの面白話を残す本」
「旦那様、それは長くなりそうですね」
「せやから置いとく言うてるやん」
博之は手を振った。
「今やりたいのは、飯の本や」
ヨイチが筆を取る。
「料理札の話ですね」
「そうや。一つの料理につき一枚。材料、分量、火加減、焼き加減、失敗しやすいところ、
値段、原価。そういうのをまとめたい」
伊勢松坂屋の拠点は増え続けていた。
松坂、伊勢、津、伊賀、北伊勢、熱田、津島、瀬戸、堺、京都郊外。
料理も増えた。
豚汁、肉あん、海鮮焼き、マグロ飯、魚のすり身、うな重、う巻、穴子天丼、
焼きおにぎり、豊年飯、ふくふく焼き。
「もう、わし一人の勘だけでは無理や」
博之は珍しく真面目な顔で言った。
「うなぎの開き方も、穴子の天ぷらも、海鮮焼きの回し方も、うまい奴がおるはずや。
買い付け隊にも聞いて、各拠点で飯作るのがうまいと噂されてる者を集めてくれ」
「料理上手を集めるんですね」
「そうや。で、料理札を作るだけやなくて、料理の話ができる者も育てたい」
お花が少し笑う。
「話家会の料理版ですか」
「そう。料理話家や」
「また言葉を作りましたね」
「ええやん。料理話家」
博之は少し楽しそうだった。
「普通の話家会は、大和の話とか堺の話とか、旅先の話をするやろ。あれとは別に、
これは真面目会や。うなぎはどこから開くか。穴子はなぜ焼きより天ぷらなのか。
海鮮焼きは油を入れすぎるとどうなるか。魚のすり身は、どこまで叩くか。そういう話を、
分かりやすく人に伝えられる者を育てる」
ヨイチが頷く。
「竹串で競わせますか」
「いや、これは違う」
博之は首を振った。
「真面目会は、みんなで会費を払って、話す者には均等に渡す。竹串で勝ち負けをつけると、
面白さに寄りすぎる。これは技を伝える会や」
「なるほど」
「ただ、話し方がうまい者、実際に料理もうまい者には、店から別に銭を出してもええ。講師料やな」
「料理講師ですね」
「講師って言うと堅いから、料理話家でええ」
料理番のまとめ役も呼ばれた。
彼は少し興奮した顔で言った。
「それは、かなり役に立つと思います。料理札を読むだけでは分からないところも、
実際に話を聞くと覚えやすいです」
「そうやろ」
博之は頷いた。
「本は読むものや。でも、読むのが苦手な者もおる。絵を入れても、火加減や匂いは伝わりにくい。
だから、話で伝える。なんなら、その場で少し作って見せる」
「座学と実演ですね」
「そうや。料理がうまくなりたい奴向けやな」
うなぎ、穴子、海鮮焼き。
このあたりは花形だった。
難しい。
だが、単価が高く、任されれば誇れる。
串団子を焼くのも大事だが、うなぎを任される料理人には、また別の格がある。
「うちを離れることがあっても、うなぎや穴子ができるなら食い扶持になる」
博之は言った。
「だから、学びたい者には学ばせたい」
お花は少し柔らかい顔になった。
「従業員の将来にもなりますね」
「そこや」
博之は、さらに考え込んだ。
「それでな。できるようになった者には、印を出したい」
「印、ですか」
「焼印や」
ヨイチが顔を上げる。
「焼印?」
「うん。木札に焼印を押す。あるいは前掛けに縫い付ける札でもええ。
うなぎができる者には、うなぎの焼印。穴子なら穴子。海鮮焼きなら丸型にタコの印。
そういう証を渡す」
料理番たちが、少しざわついた。
焼印。
それはただの飾りではない。
伊勢松坂屋が、その者の腕を認めた証になる。
「旦那様が食べて、この味なら出してええと認めた者だけですか」
「そうや」
博之は頷いた。
「もちろん一回で終わりやない。何度か見て、安定して作れる者に渡す。
焼印つきの木札を持ってる者は、その料理を任せられる者や」
夜市が帳面に書き込む。
「技能焼印制度」
「堅い名前やな」
「正式にはそれくらいでよいです」
お花が笑った。
「でも、分かりやすいですね。前掛けに焼印札がついていたら、この人はうなぎができる、
この人は穴子ができる、とすぐ分かります」
「そうや。本人も誇れるやろ」
「かなり励みになります」
料理番の若い者が、思わず言った。
「うなぎの焼印、欲しいです」
博之はにやりと笑った。
「欲しかったら腕を磨け」
「はい」
「ただし、焼印もらったから偉そうにするなよ。下働きもちゃんとやれ」
「はい」
ヨイチが続ける。
「料理札には、誰が基準を作ったか、誰が話したかも入れますか」
「入れたい」
博之は即答した。
「“うなぎ開き、松坂本店・某々の話より”とか、“海鮮焼き、藤井寺型職人・某々の工夫”とか。
名前が残ると嬉しいやろ」
「それは大きいですね」
「これ俺が作った味や、これ俺が話した技やってなる」
料理番たちは、明らかにやる気になっていた。
ただ言われた仕事をこなすだけではない。
自分の技が札になる。
名前が残る。
焼印という証がもらえる。
拠点を回って、人に教えることもできる。
それは、従業員にとって大きな誇りだった。
「まずは十品やな」
博之は指を折った。
「豚汁、肉あん、海鮮焼き、マグロ飯、魚のすり身、うなぎ、穴子天丼、親子丼、焼きおにぎり、
ふくふく焼き」
「ふくふく焼きはまだ試作では?」
お花が言う。
「だから試作札や。うまくいったら定番札にする」
夜市が整理する。
「定番札、試作札、季節札。そして料理話家会。さらに技能焼印制度」
「また増えたな」
博之は苦笑した。
「旦那様が増やしたんです」
「それを言われると弱い」
お花が静かに言った。
「でも、これはいいと思います。飯の本だけではなく、人を育てる仕組みになります」
「そうや」
博之は少し真面目な顔になった。
「飯は紙だけでは残らん。作る人間がいて、話せる人間がいて、誇れる人間がいて、初めて残る」
夜市は筆を止め、頷いた。
「では、まず料理上手の推薦を集めます」
「買い付け隊にも聞け。あいつら、各拠点の飯をよう食ってるからな」
「はい」
「最初の真面目会は本店でやる。うなぎ、穴子、海鮮焼き。この三つからや」
「花形ですね」
「そうや。まずはみんなが憧れるところから始める」
座敷には、少し熱のある空気が流れていた。
飯の本を作る。
料理札を作る。
料理話家を育てる。
そして、腕を認めた者には焼印を与える。
伊勢松坂屋は、また一つ、店として大きくなろうとしていた。
博之は少し照れたように言った。
「まあ、飯のことやからな。真面目にやろう」
お花が笑う。
「飯のことになると、本当に真面目ですね」
「わしゃ一応、飯屋やからな」
ヨイチが静かに返す。
「一応ではなく、本職です」
その言葉に、博之は少しだけ嬉しそうに笑った。




