一行は伊勢行きの船に乗る。藤井寺の親方は博之と伊勢松坂屋の歩みを船の上で案内役に聞きまくる
松坂港での海鮮焼きの実演を見終えた頃、ほどなくして伊勢へ向かう船に乗る段になった。
だが、博之はその直前になって、また妙なことを始めた。
「ちょっと小皿持ってきて」
「旦那様、今度は何ですか」
「さっきのアサリや」
浜辺で子どもたちから買い取ったアサリを、やかんに入れて、酒と醤油を少し垂らし、
軽く煮立てていたのである。鍛冶職人の親方たちは、また何をするのかと怪訝そうに眺めていた。
博之は小皿に、殻の開いたアサリを少しずつ分け、汁も少し注いだ。
「アサリの酒蒸しですわ」
「酒蒸し?」
「酒と醤油でちょっと煮込んだだけです。味噌醤油でもええかもしれませんけど、
今回は軽めに。アサリの出汁が出てるかなと思いまして」
親方は、小皿を受け取りながら首をかしげた。
「アサリは、あんまり食うたことないな」
「嫌いですか?」
「嫌いというより、食う機会がない」
「なら、ちょうどいいです。結構、旨味が出てると思いますよ」
博之に促され、親方は汁をすすり、アサリを一つ口に入れた。
しばらく黙った。
「……うまいな」
「でしょう」
「なんやこれ。貝からこんな味が出るんか」
若い職人たちも口にして、顔を見合わせた。
「うまいです」
「酒と醤油だけで、こんな味になるんですね」
「海のもんは面白いですね」
博之は嬉しそうに頷いた。
「こういう出汁のところを変えてやれば、もうちょっと面白いものが作れるかもしれんなと
思ってまして。貝の汁を飯に混ぜてもええし、混ぜ飯にアサリを入れてやったら、出汁も出るし、
具も入ってるし、たぶんうまい」
近くにいた店の子に、博之は残ったアサリを渡した。
「これ、あとで混ぜ飯に試してみて。出汁ごとやで。濃すぎたら薄めてな」
「はい、旦那様」
親方はその様子を見て、呆れたように笑った。
「つかみどころがない旦那やな。海鮮焼きの説明しとったと思ったら、今度は貝を煮て飯を考えとる」
「そんな感じです」
お花がさらりと言った。
「でも、出すものはうまい」
「それも、そんな感じです」
そうして一行は船に乗った。
藤井寺の職人たちにとって、船に乗ること自体が珍しい経験だった。足元が揺れ、
港が少しずつ遠ざかっていく。海の風は冷たいが、どこか胸が広がるようでもあった。
親方は、船べりから海を眺めながら尋ねた。
「あの旦那は、どうやってここまで店をでかくしたんや」
案内役が笑う。
「それ、聞きます?」
「聞いたらあかんのか」
「話したら止まらないくらいありますよ。面白い話が」
「なら聞かせてくれ。船の上やし、時間はある」
そこから、伊勢松坂屋の話が始まった。
九鬼水軍との付き合い。
松阪の港で少しずつ飯を出し、船に荷を乗せ、伊勢へ運ぶようになったこと。
伊勢神宮の端で、肉あんや魚のすり身揚げ、マグロの汁物を出すようになったこと。
それから、長野家とのいざこざ。
「津の方の殿様ですか」
「はい。最初はなかなか大変で。寺で飯を出す時に揉めたり、信楽焼の扱いで揉めたり、
最後には若い侍たちが伊勢松坂屋に転がり込んだり」
「なんやそれ」
「本当にいろいろありまして」
名張と伊賀の話も出た。
地侍が身の代金めいた銭を持ってきた話。
それがきっかけで信楽焼の買い付けが始まった話。
伊賀の者たちを伊勢神宮へ連れて行った話。
奈良の僧たちが伊賀越えをして伊勢へ通うようになった話。
親方は、途中から完全に聞き入っていた。
「飯屋の話とは思えんな」
「皆さんそうおっしゃいます」
「けど、飯屋やからこそ通った話も多いんやろな」
「はい。刀を持っていったら揉めるところも、飯と銭と仕事を持っていくと、
少しずつ話が動くことがあります」
若い職人が、海を見ながら呟いた。
「船に乗るのも初めてやのに、話まで変で、全然退屈せえへん」
「伊勢松坂屋さんの旦那が面白いということだけは分かってきました」
親方も頷いた。
「ああ。つかみどころはないが、面白い」
やがて、船は伊勢の港へ着いた。
港は松阪以上に賑わっていた。荷を運ぶ人足、買い付けの者、旅人、参拝客、商人。遠目にも、
横丁のにぎわいが分かる。
船を降りると、博之は職人たちに小袋を渡した。
「これ、皆さんで使ってください」
親方は中を見て、目を丸くした。
「なんや、これ」
「一万文あります」
「一万文?」
「買い食い代です」
「買い食い代で一万文?」
若い職人たちも驚いた。
博之は真顔で言った。
「本当に、伊勢神宮をなめたらだめです。お金が消えていきます」
「どんな場所やねん」
「よかったら、まずはうちの横丁で少し腹を満たしてから行ってください。その方が、
ちょうどいい塩梅でお金が減ります」
「腹を満たしてから行っても金が減るんか」
「減ります。お茶一杯三十文ですから」
親方は、思わず声を上げた。
「お茶一杯三十文? どんだけぼったくってんねん」
「違うんです」
博之はすぐに首を振った。
「伊勢神宮は、ただのお茶を売ってるんじゃないんです。体験を売ってるんです」
「体験?」
「全国から人が来るんです。伊勢に来た、伊勢神宮に参った、その場所でお茶を飲む。
その思い出にお金を払うんです。だから安くしすぎたらだめなんです」
「安い方が客は喜ぶやろ」
「普通の場所ならそうです。でも伊勢神宮では違います。安くしすぎると、周りの店の値段が壊れます。
うちだけ安い、うちだけ腹いっぱい、うちだけ客を集める、となると、すぐ恨まれます」
親方は眉をひそめた。
「飯屋も難儀やな」
「特にここは特殊です。だから、うちが端っこで出している店も、最後に見てもらえば分かります。
肉あんも、魚のすり身揚げも、マグロの汁物も、値段だけ聞くと高く感じると思います。
でも、場所と見せ方と周りとの釣り合いを考えると、そうせざるを得ないんです」
お花が補足した。
「伊勢神宮では、うまいだけでは足りません。高くても納得してもらう物語と、周りを壊さない
配慮が必要になります」
親方は小袋を握りながら、伊勢の港の人波を見た。
「なるほどな。鉄砲一挺十貫文とはまた違う銭の動きや」
「そうです。ここでは、飯も銭も、人の気分で動きます」
博之はにやりと笑った。
「だから、金型の意味も、ここまで見たら分かってくると思います。松阪港で人が集まったでしょう。
あれを、伊勢の空気の中でどう見せるか。それが次の話です」
親方は、少しだけ息を吐いた。
「ほんまに、飯の型を作っただけでは済まん旅になってきたな」
「すいません」
「いや、面白い」
そう言って、親方は若い職人たちを振り返った。
「よし。まずは伊勢松坂屋の横丁で腹を満たして、それからお茶一杯三十文の世界を見に行くぞ」
若い職人たちは、どこか不安そうに、しかし楽しそうに頷いた。
藤井寺の鍛冶職人たちは、いよいよ伊勢神宮という特別な商いの場へ足を踏み入れようとしていた。




