ワニの訪問
その夜、ワニが私の部屋にやって来た。
ドアのチャイムが鳴らされたので開けてみると、ワニが二本足で立っていたのだ。
「こんばんわ。はじめまして。ワニです。この度はお電話をいただきましてありがとうございます」
ワニは礼儀正しく私にお辞儀をした。
「入ってもよろしいですか」
こんなところでワニと立ち話もなんだろう。それよりも拒んだらいきなり頭から食われそうな危険も感じて、
「どうぞ」
と私はワニを招き入れることにした。
「失礼します」
ワニは私を押しのけるようにのそのそと二本足で歩きながら部屋に入ってきた。中に入ってしまうと、
「あのー、腹這いになってもよろしいですか」
と極めて遠慮がちにいう。
「なにしろ後ろ足で立って歩くのはひどく疲れるもので」
あくまでワニは礼儀正しかった。私はうなずき、念のためドアから廊下を覗いてみた。深夜のホテルの廊下はしんとしており、人の気配はまるでなかった。私はドアを閉めた。
私はベッドに腰をかけ、床に腹這いになったワニと向かい合った。
「会社のことで、悩んでるんですよね」
上目遣いに私を見ながらワニがいった。
「そうなんです」
私は髪の毛をかきむしった。そんなことをしても何の解決にもならないことはわかっていたのだが。
「君みたいなワニに話してもしょうがないんだけどね」
顔を上げると、ワニと目が合った。何の感情もない、冷ややかな瞳が私を見据えている。私は思わずその残忍で獰猛そうな瞳から眼をそらし、独り言みたいに話を続けた。
「いま重要な仕事をひとつまかされていてね。失敗したらと思うと、夜も眠れない。眠れないから酒を飲む。次の日は二日酔いで体調は最悪。頭も冴えない。それでまた仕事をうまく進めることができない」
「その仕事がうまくいったら、何かいいことがあるんですか」
「うん……いや。次の、もっとハードルが高い仕事が待っているんだろうなあ」
「楽しくなさそうですね」
「ああ。そうだね。ぜんぜん楽しくない」
自嘲するように私は笑った。
「ご家庭の方も、やっぱりダメですか」
「ああ。家内は子供の教育のことしか考えてないしね。私立に入れるために、小学校から受験勉強をさせるらしい。私はそんな風に子供を育てたくはなかったんだが……」
ふと喉の渇きをおぼえた。私は部屋の片隅の冷蔵庫まで歩き、扉を開け、缶ビールを一本取りだした。「どうですか、一本」とワニに勧めてみたがワニはゆっくりと首を左右に振り、拒絶の意志を表した。
「残念ながら私は酒を飲みません」
「そう。私は飲ましてもらっていいかな」
「どうぞ」
ワニの言葉に甘え、私は缶ビールを開けてごくりと飲んだ。
「うまい」
「それはよかった」
何ら感情のこもってない口調でワニはいった。
「ところで、本当によろしいのですか。あの、ご依頼の件ですが」
「ああ。もちろんだとも。僕はなんだか疲れちゃってね」
「そうですか。わかりました。それでは」
ワニは咳払いをひとつすると、いきなり私に襲いかかった。いちばん柔らかい部分、つまりお腹に食らいつくと身体を回転させ、肉を食いちぎった。激痛が走り、やがて私の意識は遠のいていった。
END