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あの日の返事を、今

作者: key@holder
掲載日:2026/03/20

「暑っ……」


 橘誠司は、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、額に滲んだ汗を拭った。大学に入学して初めて迎える夏休み。普段は家に籠もりがちな彼が、珍しく数駅先の街まで足を運んでいる。


 ここ数日、降り続いていた雨がようやく上がった。久しぶりの青空に背中を押されるように、外へ出てみようと思ったのだ。


 ――だが。


 照りつける陽射しは容赦なく、アスファルトから立ち上る熱気が足元から体力を奪っていく。日陰を求めて歩くだけでも、ひどく骨が折れた。


(……やっぱり来るんじゃなかったか)


 心のどこかで、そんな弱音が漏れる。


「そろそろ昼か……」


 腕時計に目を落とし、周囲を見回す。ふと目に入ったのは、こぢんまりとした喫茶店だった。


 誠司は迷わず扉を押し、店内へと入る。「お好きな席へどうぞ」と案内され、窓際の席に腰を下ろした。


 アイスコーヒーとサンドイッチを注文し、バッグから文庫本を取り出す。冷房の効いた空間に身を置いた途端、さっきまでの暑さが嘘のように引いていく。


 ページをめくるごとに、現実の熱気は遠のき、物語の世界が静かに広がっていった。


 ――その時間は、唐突に途切れる。


「あの……」


 不意にかけられた声に、誠司ははっと顔を上げた。意識が物語から引き剥がされ、現実へと引き戻される。


 そこに立っていたのは、一人の女性だった。


 肩にかかるほどの黒髪。白いワンピースが涼やかな印象を与え、整った顔立ちにはどこか戸惑いの色が浮かんでいる。年の頃は、十代後半といったところだろうか。


「相席、してもいいですか?」


 静かな声だった。


 誠司は思わず店内を見渡す。客は多いが、空席がないわけではない。


(どうして、わざわざここに……?)


 疑問は浮かんだが、女性に不慣れな彼は、それを口にすることも、断ることもできなかった。


「……いいですよ」


 ぎこちなく答えると、彼女はほっとしたように微笑み、向かいの席へ腰を下ろした。


(本当は、一人で静かに読みたかったんだけどな……)


 胸の内で小さく呟く。


「あの、やっぱり迷惑じゃ……」


 彼女が遠慮がちに尋ねてくる。その視線はどこか鋭く、まるで心の奥を覗かれているようだった。


「いえ、そんなことは……」


 誠司は苦笑しながら答える。


 すると彼女は、くすりと笑った。


「やっぱり、変わらないね」


 その言葉と、悪戯っぽい笑み。どこか懐かしい感覚が、胸の奥をかすめる。


(……あれ?)


 記憶の底に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくる。


「もしかして……君は、姫野さん……?」


「あっ、覚えてくれてたんだね。橘くん」


 嬉しそうに笑うその表情に、確信が宿る。


 姫野葵――中学時代、たった一人、自分に「好き」と言ってくれた少女。


(忘れるわけ、ないだろ……)


 胸の鼓動が急に速くなる。頬に熱が集まるのを感じ、誠司は慌ててアイスコーヒーに口をつけた。冷たい液体が喉を通り、少しずつ呼吸が整っていく。


 だが同時に、ある記憶が鮮明によみがえった。


(あの時……僕は何も答えられなかった)


 突然の告白に戸惑い、言葉を失ったまま終わってしまった過去。


 あれから時間は流れ、こうして再び巡り合った。


(もし、このまま何も言わなければ――)


 同じ後悔を繰り返す気がした。


 誠司は、ゆっくりと息を吸い込む。


(今度こそ……)


 胸の奥で、静かに決意が固まる。


(自分の気持ちを、ちゃんと伝えるんだ。たとえ、それが遅すぎたとしても――)


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