あの日の返事を、今
「暑っ……」
橘誠司は、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、額に滲んだ汗を拭った。大学に入学して初めて迎える夏休み。普段は家に籠もりがちな彼が、珍しく数駅先の街まで足を運んでいる。
ここ数日、降り続いていた雨がようやく上がった。久しぶりの青空に背中を押されるように、外へ出てみようと思ったのだ。
――だが。
照りつける陽射しは容赦なく、アスファルトから立ち上る熱気が足元から体力を奪っていく。日陰を求めて歩くだけでも、ひどく骨が折れた。
(……やっぱり来るんじゃなかったか)
心のどこかで、そんな弱音が漏れる。
「そろそろ昼か……」
腕時計に目を落とし、周囲を見回す。ふと目に入ったのは、こぢんまりとした喫茶店だった。
誠司は迷わず扉を押し、店内へと入る。「お好きな席へどうぞ」と案内され、窓際の席に腰を下ろした。
アイスコーヒーとサンドイッチを注文し、バッグから文庫本を取り出す。冷房の効いた空間に身を置いた途端、さっきまでの暑さが嘘のように引いていく。
ページをめくるごとに、現実の熱気は遠のき、物語の世界が静かに広がっていった。
――その時間は、唐突に途切れる。
「あの……」
不意にかけられた声に、誠司ははっと顔を上げた。意識が物語から引き剥がされ、現実へと引き戻される。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
肩にかかるほどの黒髪。白いワンピースが涼やかな印象を与え、整った顔立ちにはどこか戸惑いの色が浮かんでいる。年の頃は、十代後半といったところだろうか。
「相席、してもいいですか?」
静かな声だった。
誠司は思わず店内を見渡す。客は多いが、空席がないわけではない。
(どうして、わざわざここに……?)
疑問は浮かんだが、女性に不慣れな彼は、それを口にすることも、断ることもできなかった。
「……いいですよ」
ぎこちなく答えると、彼女はほっとしたように微笑み、向かいの席へ腰を下ろした。
(本当は、一人で静かに読みたかったんだけどな……)
胸の内で小さく呟く。
「あの、やっぱり迷惑じゃ……」
彼女が遠慮がちに尋ねてくる。その視線はどこか鋭く、まるで心の奥を覗かれているようだった。
「いえ、そんなことは……」
誠司は苦笑しながら答える。
すると彼女は、くすりと笑った。
「やっぱり、変わらないね」
その言葉と、悪戯っぽい笑み。どこか懐かしい感覚が、胸の奥をかすめる。
(……あれ?)
記憶の底に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
「もしかして……君は、姫野さん……?」
「あっ、覚えてくれてたんだね。橘くん」
嬉しそうに笑うその表情に、確信が宿る。
姫野葵――中学時代、たった一人、自分に「好き」と言ってくれた少女。
(忘れるわけ、ないだろ……)
胸の鼓動が急に速くなる。頬に熱が集まるのを感じ、誠司は慌ててアイスコーヒーに口をつけた。冷たい液体が喉を通り、少しずつ呼吸が整っていく。
だが同時に、ある記憶が鮮明によみがえった。
(あの時……僕は何も答えられなかった)
突然の告白に戸惑い、言葉を失ったまま終わってしまった過去。
あれから時間は流れ、こうして再び巡り合った。
(もし、このまま何も言わなければ――)
同じ後悔を繰り返す気がした。
誠司は、ゆっくりと息を吸い込む。
(今度こそ……)
胸の奥で、静かに決意が固まる。
(自分の気持ちを、ちゃんと伝えるんだ。たとえ、それが遅すぎたとしても――)




