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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第9話】 宿の矜持

その日の夜、灰白亭は久しぶりに静かな時間を迎えていた。


客はもういない。


旅人は部屋へ戻り、大男も酒場へ流れた。

厨房の火も落とされ、食堂にはランプの灯りだけが残っている。


ミアは帳場の前に座り、銀貨を一枚ずつ並べていた。


昨日より少し多い。


それでも、大きな額ではない。


「……」


彼女は黙ったまま、硬貨を指先で転がす。


恒一は厨房の奥で、苦香根を刻んでいた。

明日の仕込みだ。


しばらくして、ミアが言った。


「ねえ」


「なんだ」


「なんで残ったの」


恒一は包丁を止めた。


「何が」


「この宿」


ミアは銀貨を見たまま言う。


「普通、潰れてもおかしくなかった」


「……」


「料理人も辞めた」


「客も減った」


「借金もある」


彼女はそこで顔を上げた。


「それでも、ここ残った」


少し間があった。


恒一は苦香根をまな板の端へ寄せた。


「掃除してたからだ」


「え?」


「この宿」


恒一は食堂を見た。


机。

椅子。

床。

窓。


全部、古い。


でも、全部きれいだ。


「潰れる店はな」


「うん」


「まず掃除しなくなる」


ミアは少し驚いた顔をした。


「そうなの?」


「だいたいそうだ」


恒一は布巾で手を拭いた。


「店を諦めると、人は掃除をやめる」


「……」


「床が汚れる」


「机が曇る」


「皿が欠ける」


「匂いが変わる」


ミアは静かに聞いている。


「でも、この宿は違う」


恒一はランプの光の中で言った。


「ちゃんと拭いてある」


「……」


「誰も来なくても」


ミアは少し黙った。


それから小さく言う。


「父がやってた」


「そうか」


「毎日」


「客がいなくても」


「掃除だけはしろって」


恒一は頷いた。


「正しい」


ミアは少し笑った。


「料理はできなかったのにね」


「でも宿は守った」


「そうかもしれない」


ミアは銀貨をまた並べる。


「父は言ってた」


「うん」


「宿は、旅人の帰る場所だって」


「……」


「どんなに遠くから来ても」


「うん」


「夜には帰る場所がある」


「うん」


「それが宿だって」


恒一は静かに聞いていた。


「でも」


ミアは苦笑する。


「父が死んでから、全部崩れた」


「料理人が辞めて」


「客が減って」


「借金だけ残った」


少し沈黙が落ちる。


ランプの火が小さく揺れた。


「だからさ」


ミアは言った。


「正直、もうダメだと思ってた」


「……」


「この宿」


「うん」


「終わりかなって」


恒一は苦香根を持ち上げた。


ごつごつしている。

形も悪い。

市場では売れ残る食材だ。


「でも」


恒一は言う。


「まだ終わってない」


ミアが顔を上げる。


「なんで?」


恒一は苦香根をまな板に置いた。


「理由があるからだ」


「理由?」


「この宿が残る理由」


ミアは少し考えた。


「朝粥?」


「それもある」


「苦香根?」


「それもある」


「……」


「でも一番は」


恒一は食堂を見た。


「帰る場所があることだ」


ミアは少し目を見開いた。


「旅人が言ってただろ」


「うん」


「次に来る時もここでいいって」


「……」


「それが宿だ」


ミアはしばらく何も言わなかった。


それから、少しだけ笑った。


「ねえ」


「なんだ」


「それ、父と同じこと言ってる」


恒一は肩をすくめた。


「宿の話だからな」


「……」


ミアは銀貨を袋に戻した。


「ねえ」


「うん」


「この宿」


「うん」


「ほんとに立て直せる?」


恒一は少し考えた。


それから答えた。


「たぶん」


「たぶん?」


「でも」


恒一は笑った。


「前よりは確実に生きてる」


ミアは食堂を見回した。


机。

椅子。

ランプ。

そして厨房から漂う、ほんの少しの湯気。


「……ねえ」


「なんだ」


「この宿、ほんとに立て直せる?」


恒一は少し考えた。


「たぶん」


「たぶん?」


ミアは少し黙って、それから小さく笑った。


「でも」


「うん」


「前よりは、ちゃんと生きてる」


恒一はその言葉に頷いた。


包丁を持ち直す。

まな板の上で苦香根を刻む。


「だから」


「うん」


「もう少しやる」


ミアは静かに言った。


「うん」


その声は、昨日よりずっと強かった。

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