【第7話】 安い食材の出口
朝の鍋が空になるまで、それほど時間はかからなかった。
黒麦粥は最後の一杯まできれいに減った。
「……終わり」
ミアが鍋を覗き込んで言う。
「昨日より早い」
「昨日より客が多い」
恒一は布巾で手を拭いた。
「でも、これ以上は出せない」
「材料がない」
ミアが即答する。
黒麦の袋は半分。
豆はまだあるが、肉はほとんど残っていない。
そして一番の問題は、
「仕入れ」
ミアが言う。
「市場ね」
恒一は頷いた。
朝の営業が終わると、二人はすぐ市場へ向かった。
市場はもう昼の顔になっていた。
朝の喧騒は消え、通りには残り物の匂いが漂っている。
売れ残った野菜。
形の悪い根菜。
割れた豆。
色のくすんだ葉物。
ミアは鼻をしかめた。
「ここ、好きじゃない」
「なんで」
「安いのは大体ここに集まるから」
「悪いことか?」
「味が落ちてる」
恒一は足を止めた。
木箱の中に、いびつな根菜が山になっている。
色も悪い。
形もばらばら。
普通の店なら見向きもしない。
「……これ、何?」
「知らないの?」
ミアが箱を覗く。
「苦香根」
「くこうこん?」
「この辺の根菜。苦いの」
「苦いのか」
「だから安い」
ミアは肩をすくめた。
「煮ると苦味が残るし、炒めるとえぐい。だから売れ残る」
恒一は一本持ち上げた。
確かに、土っぽい匂いがする。
だが同時に、どこか懐かしい匂いでもあった。
食材帳が、静かに文字を浮かべる。
――未登録食材
――苦香根
――加熱で苦味減少
――油と相性良
「……なるほど」
「なに?」
「ちょっと面白い」
ミアは眉を寄せる。
「それ、面白がる食材じゃない」
「料理人はこういうの好きなんだ」
「好きでも客は嫌いよ」
恒一は根菜を指で転がした。
苦い。
売れ残る。
安い。
つまり、
「使い道がないだけだ」
「……え?」
ミアが聞き返す。
恒一は木箱を見た。
この市場には、こういう食材が山ほどある。
売れない理由は単純だ。
料理の出口が決まっていない。
「なあ、ミア」
「なに」
「灰白亭が勝つ方法、分かった」
「急ね」
「安い食材をちゃんと食える飯にする」
ミアは腕を組んだ。
「そんな簡単?」
「簡単じゃない」
恒一は苦香根を持ち上げる。
「でも、他の店はやらない」
「……」
「だから勝てる」
ミアは少し黙った。
それから小さく言う。
「それ、ちょっとずるい」
「商売だからな」
「料理の話じゃないの?」
「料理の話だ」
恒一は苦香根を袋に入れた。
「安い食材には出口がある」
「出口?」
「そう」
恒一は市場を見渡した。
売れ残りの山。
誰も触らない食材。
「料理人は、それを見つける仕事だ」
ミアは苦笑した。
「言うのは簡単」
「だから試す」
「今?」
「今」
「……ほんとに急ね」
ミアは財布を取り出し、店主に銅貨を渡した。
「安いでしょ」
「安い」
「安いけど、売れ残りよ」
「だからいい」
恒一は袋を肩にかけた。
「この宿の飯は、安い材料で作る」
「うん」
「でも、安っぽくはしない」
ミアは少し黙った。
市場の木箱。
売れ残りの山。
苦香根の匂い。
「……それ」
彼女はゆっくり言った。
「うまくいかなかったら、ただの安物料理よ」
「そうだな」
「安い材料で店を立て直そうとして、失敗した料理人は何人も見てきた」
「だろうな」
ミアは腕を組んだ。
それから、少しだけ笑った。
「でも」
「うん」
「あんたなら、できそうな気がする」
恒一は眉を上げた。
「急に評価高いな」
「まだ半分よ」
ミアは肩をすくめる。
「でも、そのやり方」
「うん」
「……かなりいい」
そして二人は灰白亭へ戻った。
厨房の鍋はまだ温かい。
恒一は苦香根をまな板に置いた。
包丁を握る。
「……苦いんだよね」
ミアが言う。
「そうらしい」
「どうするの」
恒一は笑った。
「出口を探す」
苦香根の断面が、白く光った。
食材帳の文字が、また増える。
――新規食材登録
――調理検証開始
恒一は包丁を入れた。
この宿はまだ弱い。
だが一つだけ、確かな武器がある。
売れ残り食材の出口を見つけること。
それが、灰白亭の料理だった。




