【第6話】 朝粥という勝ち筋
灰白亭の朝は、昨日より少しだけ忙しかった。
と言っても、行列ができるような話ではない。
客席は八卓あるが、今埋まっているのは三つだけだ。
それでも、この宿にとっては十分すぎる変化だった。
鍋の前で、恒一は黒麦粥をゆっくり混ぜていた。
黒麦と豆。
水と塩。
そして、少しの鳥脂。
材料だけ見れば、かなり貧しい。
だが鍋の中では、粒がゆっくりほどけて、甘い匂いが立っている。
「……昨日より減るの早い」
ミアが器を並べながら言った。
「当たり前だ」
恒一は鍋の底を返す。
「昨日食った客が、今日は最初から来てる」
「そんな簡単に?」
「朝飯はそういうもんだ」
ミアは少し考え込む。
「どういうこと?」
恒一は木べらを鍋の縁に立てた。
「夕飯は、うまくても毎日食う理由にはならない」
ミアは腕を組んだ。
「朝飯は違うの?」
恒一は頷いた。
「違う。朝は習慣になる」
鍋の底を返しながら続ける。
「昨日うまかった。今日も食う。悪くなければ、明日も来る」
ミアは少し黙ってから言った。
「それ、すごく単純ね」
「商売はだいたい単純だ」
恒一は鍋の火を少しだけ落とした。
「朝飯は“特別”じゃなくていい」
「……」
「毎日食えることが大事だ」
「毎日」
ミアは食堂を見回した。
大男はもう三杯目を食べている。
旅人二人は、まだゆっくり匙を動かしている。
そして扉が開いた。
リナだった。
「まだある?」
「ある」
ミアが即答する。
リナは壺を差し出した。
「今日は三人分」
「親方?」
「親方と、隣の店の爺さん」
「増えてるじゃない」
「匂いが流れたらしい」
恒一は少し笑った。
「そうだろうな」
「なにが?」
「黒麦粥は匂いが弱い」
「うん」
「だから逆に、近くにいる人だけが気づく」
「……」
「そういう飯は、広がる」
リナが壺を受け取りながら言う。
「市場でも言われてるよ」
「何を?」
「“腹に落ちる粥の宿”って」
ミアが固まった。
「……誰が言ったの」
「誰か」
「誰かって誰よ」
「分からない」
リナは肩をすくめた。
「でも、そう呼ばれてる」
その言葉は、妙に重かった。
看板も変わっていない。
宣伝もしていない。
それなのに、名前が生まれ始めている。
恒一は鍋の中を見た。
黒麦はゆっくり膨らんでいる。
「……ミア」
「なによ」
「この宿、朝で立て直す」
ミアは一瞬きょとんとした。
「夕飯じゃなくて?」
「夕飯もやる」
「じゃあなんで朝?」
恒一は鍋の蓋を少し開けた。
湯気が立つ。
「夕飯は波がある」
「……」
「旅人は流れる」
「そうね」
「でも朝は残る」
ミアは静かに頷いた。
「常連?」
「そう」
恒一は木べらで粥をすくう。
粒の柔らかさ。
水分の重さ。
いい。
「朝に客が来る宿は強い」
「どうして?」
「泊まり客が増える」
ミアは少し目を見開いた。
「あ」
「旅人は、朝がいい宿を覚える」
「……」
「そして次に来た時、また泊まる」
ミアは食堂を見回した。
大男。
旅人。
リナ。
まだたった数人。
でも、昨日まではゼロだった。
「……ねえ」
ミアが言う。
「なんだ」
「それ、ほんとにできる?」
恒一は少し考えた。
それから答える。
「たぶん」
「たぶん?」
「でも」
恒一は笑った。
「勝ち筋は見えた」
ミアはしばらく黙っていた。
それから、帳場の横の板を見た。
朝粥あります
持ち帰りできます
その下に、炭で一行書き足す。
腹に落ちる朝飯
恒一はそれを見て言った。
「いいな」
「ほんと?」
「かなり」
ミアは少しだけ照れたように笑った。
その時、また扉が開いた。
今度は知らない男だった。
市場へ向かう途中らしい。
「飯ある?」
ミアは迷わず言った。
「あります」
男は席に座った。
「じゃあ一杯」
恒一は鍋をよそいながら思う。
この宿はまだ死にかけている。
借金もある。
客も少ない。
建物も古い。
でも今、ひとつだけ確かなことがある。
鍋の湯気が、昨日より早く減っている。
それはつまり、
誰かがこの朝飯を選んでいる
ということだった。
「……よし」
恒一は呟く。
「朝粥でいく」
ミアは小さく頷いた。
「うん」
その答えは、もう迷っていなかった。




