【第5話】「うまい」と言った客
【第5話】「うまい」と言った客
朝の鍋が半分ほど減った頃、灰白亭の空気は明らかに変わっていた。
大騒ぎするような賑わいではない。
だが、死んでいた店に人の声が戻ると、それだけで空気に温度が出る。
隅の大男は二杯目を飲みながら、勝手に旅人へ話していた。
「だから言ったろ。腹に落ちるんだよ」
「お前、この宿の人間なのか?」
旅人の一人が呆れたように聞く。
「違う」
大男は即答した。
「でも昨日からちょっと気に入ってる」
「それを常連候補と言うのよ」
ミアが器を下げながら言う。
「まだ候補なのかよ!」
「今日で二回目でしょ。早いわよ」
「じゃあ三回目で昇格か」
「知らない」
そのやり取りに、旅人の一人が吹き出した。
恒一は鍋の前で、その様子を見ていた。
悪くない。
料理が当たることも大事だが、店の空気が尖りすぎないことも大事だ。
特に宿はそうだ。
飯がうまくても、空気が冷えていれば人は戻らない。
「ねえ」
ミアが小声で言う。
「何だ」
「これ、ほんとに売れてるのね」
「見れば分かるだろ」
「そうなんだけど」
ミアは鍋を見た。
「まだちょっと信じられないのよ」
その時、扉がまた開いた。
今度は、さっきの若い女だった。
両腕で壺を抱えている。
年はミアとそう変わらない。髪を後ろで無造作にまとめ、仕事帰りなのか袖口に少し布屑がついている。
入ってくるなり、彼女はまっすぐ鍋を見た。
「まだある?」
ミアが一瞬、恒一を見る。
恒一はうなずいた。
「あるわ」
「よかった」
女はほっとしたように息をつき、それから壺を持ち上げた。
「持ち帰り、二人分できる?」
「二人分?」
ミアが聞く。
「うちの親方の分」
「親方?」
「市場の布屋。朝はいつも屋台の固いの食べてるんだけど、今日ここの粥食べた人から聞いたみたいで」
「……」
「“腹に落ちる飯がある”って」
大男が、得意げに胸を張った。
「それ、俺だな」
「なんで誇らしげなのよ」
ミアが言う。
「宣伝したからな」
「勝手に」
「でも来ただろ?」
ミアは少しだけ言葉に詰まった。
たしかに、その通りだった。
若い女は、店の様子をぐるりと見回した。
「朝から宿で持ち帰りやるの、珍しいよね」
「今日が初めてよ」
ミアが言う。
「ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ運がいいな、私」
その言い方は軽かったが、嫌味ではなかった。
むしろ、朝の店にとってちょうどいい明るさだった。
「名前、聞いていい?」
ミアが壺を受け取りながら聞く。
女は少しだけ目を丸くしてから答えた。
「リナ」
「ミアよ」
「知ってる。灰白亭の娘でしょ」
「……まあ、そう」
「で、そっちが料理人さん?」
リナが恒一を見る。
「恒一だ」
「じゃあ恒一、これ冷めても食べられる?」
「食べられるようにする」
「いいね」
即答だった。
気持ちのいい客だな、と恒一は思った。
「ただし」
恒一が言う。
「店で食うより少しだけ固めにする」
「なんで?」
「持ち帰る間に水を吸うから」
「へえ」
リナが感心したように言う。
「そこまで変えるんだ」
「飯はそういうもんだ」
「その台詞、好きだね」
ミアが言った。
恒一は鍋の火を少しだけ落とした。
持ち帰り用なら、煮加減をほんの少し変える。
汁気を少なめに、でも重くしすぎず。
こういう小さい調整が、あとで効く。
食材帳の文字が静かに浮かぶ。
――推奨:持ち帰り時は水分量を一割減
――冷却後の粘度上昇に注意
「本当に便利だな、お前」
恒一が小さく呟く。
「また独り言?」
ミアが聞く。
「まあな」
壺へよそう。
木の蓋を閉める。
外側へ布を巻く。
リナはその手元をじっと見ていた。
「……なんか、ちゃんとしてる」
「宿だからな」
ミアが言う。
「そういうところは」
「へえ」
リナは少し笑った。
「じゃあ明日もある?」
「ある」
恒一が答える。
「たぶん」
ミアが付け足す。
「たぶん?」
リナが聞く。
「今日が初日だから」
ミアは正直に言った。
「でも、売れるならやる」
リナは壺を受け取り、銅貨を置いた。
「じゃあ明日も来る」
「……」
「親方が気に入ったらだけど」
「条件つきなのね」
ミアが言う。
「市場の人間は厳しいよ」
「知ってる」
「でも、うまいなら動く」
リナはあっさり言った。
「朝って、そういうものでしょ」
その言葉は、妙に残った。
朝は、そういうもの。
腹に落ちるか。
明日も食べたいか。
それだけで、人は動く。
リナが出ていったあと、ミアはしばらく扉の方を見ていた。
「……ねえ」
「何だ」
恒一が聞く。
「今の、ちょっとすごくない?」
「ちょっとじゃないな」
「だよね」
ミアは鍋を見る。
「店で食べて、持ち帰って、しかも明日も来るかもしれないって」
「口コミの芽だな」
「芽?」
「店って、だいたい最初はそこからだ」
旅人がうまいと言う。
街の客が持ち帰る。
別の人間がそれを食べる。
その連鎖が始まれば、店は少しずつ流れに乗る。
「……」
ミアは何か言いかけて、やめた。
代わりに、帳場の脇に置いていた小さな板を引っ張り出す。
「何してる」
恒一が聞く。
「書くの」
「何を」
ミアは少しだけ迷ってから、炭で板に書いた。
朝粥あります
持ち帰りできます
それを見て、恒一は少しだけ笑った。
「いいな」
「ほんと?」
「かなり」
「雑じゃない?」
「朝の板は、そのくらいでいい」
「そういうもの?」
「朝は読むより、見る」
「……それっぽいこと言うわね」
「たまにはな」
大男が横から言った。
「値段も書けよ」
「うるさいわね」
ミアは言いながら、少しだけ考える。
「銅貨三枚」
「持ち帰りも?」
旅人の一人が聞く。
「持ち帰りは壺代があるから四枚」
ミアが言った。
「壺を返したら一枚返す」
恒一はその返しを聞いて、少しだけ感心した。
悪くない。
宿の娘としての勘がある。
ただ回らなくなっていただけで、最初から何もなかったわけじゃない。
「……何よ」
ミアが睨む。
「今、ちょっと感心した顔した」
「した」
「なんか腹立つ」
「でも悪くなかったぞ」
「そう?」
「かなり商売っぽい」
「宿の娘ですから」
ミアが言って、少しだけ胸を張る。
その時、旅人の一人がスプーンを置いて言った。
「なあ」
「何?」
ミアが聞く。
「ここ、泊まりもやってるんだよな」
「やってるわよ」
「朝これが出るなら、次もここでいいかもな」
食堂が、一瞬だけ静かになった。
ミアが固まる。
「……今、なんて」
「だから」
旅人は少し不思議そうに言う。
「次にこの街寄る時も、ここでいいかもって」
「……」
ミアは、何も言えなかった。
宿にとって、たぶん一番欲しい言葉のひとつだったからだ。
恒一は鍋の蓋を少しだけずらした。
まだ湯気は立っている。
朝の一杯は、ただ売れればいいわけじゃない。
宿へ戻ってきてもらうための理由になる。
その形が、今ようやく少し見えた。
「……ミア」
恒一が言う。
「なによ」
「勝ち筋、ひとつ増えたな」
ミアはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……そうね」
それから、さっき自分で書いた板を見た。
朝粥あります
持ち帰りできます
たった二行。
でも昨日までの灰白亭には、なかった二行だった。




