【第15話】 迎える部屋
朝食の客が引いたあとの灰白亭は、少しだけ不思議な静けさに包まれていた。
鍋は空。
器は洗い終わり、食堂の卓も拭かれている。
湯気だけが消えたあとの、仕事の残り香みたいな静けさだ。
ミアは帳場の横に立ったまま、二階へ続く階段を見上げていた。
「……」
「何見てる」
恒一が聞く。
「部屋」
「急だな」
「急じゃないわよ」
ミアは階段から目を離さなかった。
「サーシャさんに言われたでしょ」
「ああ」
「“朝食はいい。でも宿としてはまだ弱い”って」
「言われたな」
ミアは腕を組んだ。
「悔しいけど、正しかった」
その言い方に、言い訳はなかった。
悔しい。
でも受け止めている。
そこが昨日までと少し違う。
「じゃあ、やるか」
恒一が言う。
「やる」
ミアが即答した。
「何を」
「部屋」
「どこから?」
「いちばんマシなとこから」
それが大事だ、と恒一は思った。
全部を一気に直そうとすると、たいてい全部半端になる。
宿も料理も、まずは“基準”が必要だ。
「角部屋だな」
恒一が言う。
ミアが頷く。
「窓が二つあるから」
「光が入る」
「風も少し抜ける」
「じゃあそこだ」
二人は二階へ上がった。
サーシャが泊まっていたのとは別の角部屋。
今は空だ。
扉を開ける。
少し冷えた空気が出てきた。
「……」
「どう?」
ミアが聞く。
恒一は部屋を見渡した。
寝台。
椅子。
小机。
水差し。
窓。
全部ある。
でも、足りない。
「空いてる部屋だな」
「……」
ミアが少しむっとする。
「それは分かる」
「迎える部屋じゃない」
「それも分かる」
「じゃあ話が早い」
ミアは部屋へ一歩入って、ぐるりと見回した。
「何がだめ?」
「全部じゃない」
「一番腹立つ答え」
恒一は苦笑した。
「悪くない部屋ではある」
「うん」
「でも、客が入って最初に“いい”と思う点がない」
「……」
「ただ、泊まれる」
「それじゃ弱い」
「そういうことだ」
ミアは窓際へ行き、カーテン代わりの布をつまんだ。
「これ、少し暗い」
「布が重い」
「もっと軽い方がいい?」
「昼の光が入るならな」
寝台へ触れる。
「布は?」
ミアが聞く。
「悪くない」
恒一が答える。
「でも“洗ってる”で止まってる」
「どういうこと?」
「乾いてるけど、柔らかくない」
「……」
「客が触った時、“ちゃんとしてる”までは行かない」
ミアは少し考え込む。
それからすぐに動いた。
布をはずす。
窓を開ける。
風を入れる。
「え、いきなり?」
「触った瞬間の感じが弱いなら、そこを変えるしかないでしょ」
「……いいな」
恒一が言う。
「何が」
「宿の娘っぽい」
ミアは少しだけ照れたように眉を寄せた。
「今さらよ」
それから二人で、部屋を少しずつ動かし始めた。
まず、机の位置をずらす。
今の位置だと、扉を開けた時に脚が先に見える。
それだけで部屋が狭く見える。
少し窓寄りへ動かす。
「……あ」
ミアが小さく言う。
「広く見える」
「だろ」
「ずるい」
「料理も宿も、見え方は大事だ」
次に椅子。
今までは机へきっちり押し込まれていたが、それを少しだけ斜めに引く。
「何の意味があるの」
ミアが聞く。
「座れる感じがする」
「……」
ミアは黙ってから、少しだけ笑った。
「そうね。たしかに」
水差しの位置も変える。
今は窓辺の奥だ。
それを寝台の脇、小さな台の上へ移す。
「こっちの方が自然だな」
恒一が言う。
「夜に起きた時も届く」
ミアが付け足す。
「それだ」
さらに、ミアは小さな布を一枚持ってきた。
「何に使う」
恒一が聞く。
「荷物置き」
「……」
「旅人って、床に鞄を直置きしたくない人もいるでしょ」
恒一は少しだけ感心した。
「それ、かなりいい」
「でしょ」
彼女は椅子の背へ布をかけた。
それだけで、部屋の空気が少し変わる。
大きな変化ではない。
でも、“ここを使っていい”感じが出る。
「これ」
ミアが言う。
「前の私、絶対やらなかった」
「なんで」
「余裕がなかった」
「……」
「部屋は部屋、寝られればいいって思ってた」
「そうだな」
でも今は違う。
朝食の湯気が立ち、客が少し戻り始めたことで、ようやく部屋を見る余裕ができたのだ。
最後に、灯りを少し動かした。
昼の見え方ではなく、夜の最初の一歩に合わせる。
扉を開けた時、部屋の輪郭が先に見えて、寝台だけが浮かない位置。
「そこ」
ミアが言う。
「いい?」
「かなり」
「昨日からその“かなり”便利ね」
「使い勝手がいい」
ちょうどその時、廊下の方で足音がした。
サーシャだった。
「見ても?」
彼女が言う。
「どうぞ」
ミアが答える。
サーシャは部屋へ入り、まず何も言わなかった。
一歩。
二歩。
視線が動く。
寝台。
机。
椅子。
水差し。
荷物置きの布。
灯り。
それから、少しだけ息を吐いた。
「昨日より、いいです」
ミアがわずかに肩を動かす。
「ほんとに?」
「ええ」
サーシャは頷く。
「部屋へ入った時に、ちゃんと“迎えられている”感じがする」
「……」
「まだ完璧ではありません」
「それは分かってる」
ミアが答える。
「でも」
サーシャは続けた。
「“空いている部屋”ではなくなりました」
「……」
その言葉は、かなり大きかった。
ミアは少し黙り、部屋を見回した。
机。
椅子。
灯り。
小さな布。
大したものは一つも増えていない。
けれど、部屋の空気は変わっている。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
恒一が聞く。
「これ、ちょっとすごいかも」
「うん」
「昨日まで、ただの空き部屋だったのに」
「迎える部屋になった」
「……」
ミアは少しだけ笑った。
「その言い方、好き」
恒一は頷いた。
「宿の勝ち方って、こういうとこなんだろうな」
「料理だけじゃないのね」
「料理だけじゃ足りない」
サーシャが、そこで静かに言った。
「だから宿は面白いんです」
三人とも少しだけ黙った。
旅人を迎える。
部屋を整える。
朝を出す。
全部が繋がった時に、ようやく宿になる。
灰白亭は、今ようやくそこへ足をかけたのだ。




