【第14話】 泊まり客の朝
サーシャは、朝の匂いで目を覚ました。
豆と黒麦がゆっくり煮える匂い。
鳥脂の軽い甘さ。
最後に、青い葉の香りが少しだけ立つ。
派手ではない。
だが、起き抜けの腹には、妙に素直に入ってくる匂いだった。
彼女は寝台の上で少しだけ目を閉じたまま、その匂いを聞くように吸い込む。
昨日よりも、近い。
食堂の匂いが、二階まできちんと上がってきている。
昨日までは、廊下の冷えた空気がどこかでそれを切っていた。
今日は違う。
部屋を出ると、その違いはもっとはっきりした。
夜のうちに整えられた廊下。
位置を変えた灯り。
無駄なものが片づき、壁際の圧迫感が少し減っている。
まだ完璧ではない。
けれど、昨日までの“空いている部屋へ続く廊下”ではなかった。
少なくとも今日は、泊まり客を朝食へ迎えるための廊下に見えた。
「……悪くない」
そう呟いて、サーシャは階段を下りた。
肩には擦れた革鞄、腰には細い巻物筒。
靴の縁には、昨日の街道の土がまだ薄く残っている。
一目で、長く街を渡り歩く側の人間だと分かった。
食堂では、恒一が鍋の前に立っていた。
ミアは器を並べている。
二人とも昨日より動きが滑らかだ。
食堂はまだ完全には埋まっていない。
だが、空気は明らかに死んでいなかった。
「おはようございます」
ミアが言う。
「おはよう」
サーシャは席へ着いた。
「今日は少し早いですね」
ミアが言う。
「匂いで起きました」
「……」
ミアが一瞬だけ止まる。
「悪い意味じゃないですよ」
「それは分かってます」
ミアが少しだけ胸を張る。
「たぶん」
恒一は鍋の蓋を少しずらした。
「今日はどうだ」
「何がですか」
サーシャが聞く。
「宿の朝に見えるか」
サーシャは少しだけ考えた。
「昨日より、かなり」
その答えに、ミアが露骨にほっとした顔をした。
「よかった」
「何が変わったかは分かりますか?」
恒一が聞く。
「分かります」
サーシャは答える。
「まず、起きた時に匂いが届いた」
「……」
「次に、二階の廊下が昨日よりちゃんと“宿の続き”だった」
「続き」
ミアが繰り返す。
「はい。昨日までは、食堂と部屋が少し切れていた」
「……」
「今日はつながっていた」
恒一は静かに頷いた。
ベルノの言葉が頭をよぎる。
宿ごと勝て。
それはたぶん、こういうことなのだ。
食堂だけ良くても足りない。
部屋だけでも足りない。
客が“この宿で朝を迎えた”と感じられて、初めて宿になる。
その時、扉が開いた。
ドノヴァンとペトルだ。
少し遅れてガドも入ってくる。
「おう、今日も間に合ったか」
「間に合ったじゃないでしょ。朝の常連候補」
ミアが言う。
「まだ候補なのかよ!」
「三日目よ。焦らないの」
「そのルール絶対後づけだろ」
リナも壺を抱えて入ってきた。
「今日も二つ」
「分かった」
ミアが自然に頷く。
その動きにもう迷いはない。
店で食べる客と、持ち帰りの客。
宿泊客と、街の客。
全部を同じ鍋から出していても、扱い方は少しずつ違う。
「……ねえ」
サーシャが小さく言う。
「何ですか」
ミアが聞く。
「前より、ずっと宿らしいです」
ミアは少し黙った。
それから、器を並べながらぽつりと言う。
「前は違った?」
「違いました」
「はっきり言うんですね」
「旅人なので」
「便利な言葉ですね」
「かなり」
そこで、ガドが口を挟んだ。
「その“旅人なので”っての、ちょっと強いな」
「あなたの“候補だから”よりは強いと思います」
サーシャが返す。
食堂に小さく笑いが落ちた。
ガドが妙に悔しそうな顔をする。
「なんか最近、俺の扱いが雑じゃないか?」
「元からよ」
ミアが即答する。
恒一は器へ粥をよそった。
まずはサーシャ。
そのあと、店内の客。
最後に持ち帰り。
昨日までより、順番が明確だ。
それだけで店の空気はだいぶ違う。
「はい」
ミアがサーシャへ器を置く。
「どうぞ」
サーシャはそれを受け取り、湯気を見た。
それから、ひと口。
「……」
「どう?」
ミアが聞く。
「いいですね」
「味?」
「それも」
サーシャは頷く。
「でも今日は、味だけじゃない」
「……」
「朝食が、この宿の中にちゃんと収まっている」
その言葉に、ミアは少しだけ目を見開いた。
「収まってる?」
「はい」
「どういう意味?」
「昨日までは、うまい朝食がある宿でした」
「……」
「今日は、朝食のうまい宿です」
少しの沈黙。
それからミアが言った。
「……似てるようで全然違うわね」
「全然違います」
サーシャは答える。
「前者は料理の話で、後者は宿の話です」
その言葉は、かなり重かった。
恒一も思わず手を止める。
なるほど、と内心で頷く。
朝食はもう当たり始めている。
でもそれが宿の価値になるには、置き場所が必要なのだ。
部屋。
廊下。
灯り。
戻ってくる理由。
全部を含めて、ようやく“朝食のうまい宿”になる。
「ねえ、恒一」
ミアが小声で言う。
「何だ」
「今の、かなり大きくない?」
「かなり大きい」
「だよね」
ミアは少しだけうつむいて、それから器をもう一つ取った。
昨日までなら、たぶんここで止まっていた。
褒め言葉を受けて、嬉しくて、それで終わっていた。
でも今日は違う。
彼女はすぐに二階を見た。
「……まだ弱いの、どこだと思う?」
ミアが聞く。
サーシャは少しだけ考えた。
「部屋へ入った最初の印象です」
「最初?」
「はい。昨日よりかなりいいですが、まだ“空いている部屋”に近い」
「……」
「“迎える部屋”までは、もう少し」
ミアはすぐに帳場の横の紙へ書きつけた。
部屋の最初の印象
それを見て、恒一は少しだけ笑う。
「宿の娘だな」
「今さら?」
「今さらだな」
「でも、そうよ」
ミアが言う。
「宿なんだから」
その言葉に、サーシャが少しだけ目を細めた。
「ええ」
彼女は言う。
「その顔になってきました」
朝の食堂には、いつもの客がいて、泊まり客がいて、壺があって、湯気が立っている。
それだけだ。
でもその“それだけ”が、昨日までとはもう違っていた。
宿泊客の朝として、ちゃんと成立し始めている。
ベルノの言葉を借りるなら、
食堂ではなく、宿ごと少しずつ勝ち始めているのだ。




