【第13話】 屋台主ベルノ
ベルノが初めて灰白亭へ入ってきたのは、朝の鍋が半分ほど減った頃だった。
食堂の空気は、昨日までより明らかに生きている。
卓はまだ全部埋まってはいない。だが、空席ばかりが目立つ店ではなくなっていた。
ドノヴァンが食べ、ペトルが熱そうに息を吹き、リナが壺を待ち、ガドがいつもの席で勝手に常連面をしている。
その真ん中へ、見慣れない男が入ってきた。
年は三十前後。
肩の力の抜けた立ち方をしているが、目だけはよく動く。
着ているものは質素だが、油と煙の匂いが染みついていた。
市場の人間だ、と恒一は思った。
それも、火を使う側の。
「……いらっしゃいませ」
ミアが言う。
男は少しだけ店内を見回し、鍋の湯気を見てから言った。
「朝粥、まだあるか」
「ある」
恒一が答える。
男は頷いて席へ着いた。
「じゃあ一つ」
ミアが器を取りながら、小声で恒一へ聞く。
「知り合い?」
「いや」
「でも市場の人よね」
「たぶんな」
男はそのやり取りが聞こえていたらしく、少しだけ笑った。
「たぶんじゃない。市場の人間だ」
「……」
「屋台をやってる」
ガドが、そこで顔を上げた。
「あ」
「知ってるのか」
恒一が聞く。
「知ってるも何も」
ガドが言う。
「ベルノじゃねぇか」
ミアがぴくりと反応する。
「ベルノ?」
「そう」
男は頷いた。
「屋台主ベルノ。朝の通りで焼き物売ってる」
恒一は少しだけ目を細めた。
あの匂いの強い屋台か、とすぐ分かった。
朝の市場へ向かう途中、何度か見ている。
粉と油と甘辛い匂いで客を止める、回転の速い屋台だ。
「へえ」
ミアが言う。
「わざわざうちに?」
「わざわざ、な」
ベルノは肩をすくめた。
「最近ちょっと面白い匂いがするから」
その言い方に、ミアの眉が少しだけ上がる。
「面白い匂い?」
「朝に粥の匂いを立てる宿なんて、この辺じゃ珍しい」
「……」
「しかも持ち帰りまで始めた」
「……」
「そりゃ見に来る」
ミアは器を置いた。
「敵情視察?」
「そんな大げさじゃない」
ベルノは木匙を持ち上げる。
「単なる確認だ」
ひと口。
少し黙る。
もうひと口。
それから、ゆっくりと言った。
「……なるほど」
「どう?」
ミアが聞く。
ベルノはすぐには答えなかった。
味だけでなく、席の空気や、客の流れや、壺の置き方まで見ている顔だった。
「うまい」
彼はようやく言った。
「でも、それだけじゃないな」
「何が?」
ミアが聞く。
ベルノは匙を置いた。
「勝ち方が違う」
食堂が少しだけ静かになる。
「勝ち方?」
恒一が聞く。
「俺の屋台は、匂いで足を止めて、その場で腹を掴む」
ベルノは指で卓を軽く叩く。
「濃い味、早い、安い、立ったままでも食える。そういう勝ち方だ」
「……」
「でもこっちは違う」
彼は粥を見る。
「温かさで落ち着かせて、腹に残して、また来る理由を作ってる」
「……」
「朝に“整える”飯だな」
恒一は少しだけ口元を緩めた。
「悪くない分析だ」
「だろ」
ベルノが言う。
「商売人だからな」
ミアは腕を組んだ。
「それで?」
「うん?」
「わざわざそれを言いに来たの?」
ベルノは少しだけ笑う。
「半分はな」
「残り半分は?」
「忠告だ」
その一言で、空気が変わる。
ガドが匙を止める。
リナも、壺へ伸ばしかけた手を止めた。
「……何の」
ミアが聞く。
「市場で目立ち始めてる」
ベルノはあっさり言った。
「朝の粥の宿、ってな」
ミアの顔が少しだけ強ばる。
「早いわね」
「朝の飯は広まるのが早い」
ベルノは言う。
「特に“腹に落ちる”って言葉がついたらな」
「……」
「それと、持ち帰り」
「壺?」
「壺は強い」
ベルノは頷く。
「店で食って終わりじゃなくなるから」
リナがそこへ口を挟んだ。
「実際、私はそれで助かってる」
「だろ」
ベルノが言う。
「だから広がる」
ミアは少し黙っていたが、やがて聞いた。
「で、何が忠告なの」
ベルノは匙の残りを口へ入れ、飲み込んでから言った。
「調子に乗って同じことをやりすぎるな」
「……」
「朝の勝ち筋が見えた宿ってのは、だいたい一つの皿を擦りすぎる」
「悪いの?」
「悪くはない」
ベルノは肩をすくめる。
「でも、そういう店は読まれる」
「読まれる?」
「市場に」
「……」
「“あいつら、これしかない”ってな」
恒一はその言葉をかなり冷静に受け取っていた。
たしかにそうだ。
黒麦粥は強い。
でも、それに頼り切れば読みやすくなる。
仕入れを動かされ、値を揺らされ、少しずつ首を締められる。
「……なるほど」
恒一が言う。
「分かるだろ」
ベルノが返す。
「分かる」
「ならいい」
ミアは少しだけ眉を寄せた。
「でも、あんたに言われるのはなんか悔しい」
「だろうな」
ベルノは笑った。
「俺は朝の屋台だからな」
「敵じゃない」
恒一が言う。
「敵だよ」
ベルノは即答した。
「ただ、同じ土俵じゃないだけだ」
「……」
「宿と屋台は、守るものが違う」
その言葉に、ミアが少しだけ目を細める。
「守るもの?」
「屋台は流れる」
ベルノが言う。
「場所も客も、時にはメニューも」
「……」
「でも宿は違う」
彼は食堂を見回した。
「場所がある。部屋がある。戻ってくる理由を作る箱がある」
「……」
「だったら、朝の粥一杯で満足するな」
「……」
「宿ごと勝て」
少しの沈黙。
それから、ガドがぽつりと言った。
「それ、なんかかっこいいな」
「黙って食え」
ベルノとミアが同時に言った。
食堂に少しだけ笑いが落ちる。
だが、ベルノの言葉はちゃんと残った。
宿ごと勝て。
朝食の勝ちだけでは足りない。
部屋も、空気も、戻ってくる理由も含めて宿なのだ。
「ねえ」
ミアがベルノを見る。
「何だ」
「それ、敵が言うの?」
「敵だから言うんだよ」
「……」
「面白い火は、どこまで上がるか見たくなる」
「性格悪いわね」
「商売人だからな」
ベルノは最後の一口を食べ終え、銅貨を置いて立ち上がった。
「味は悪くない」
「上からね」
ミアが言う。
「でも」
ベルノは少しだけ振り返る。
「この宿が面白いのは、粥そのものじゃねぇ」
「……」
「それで宿を立て直そうとしてるとこだ」
扉が閉まる。
しばらく、食堂は静かだった。
最初に口を開いたのは、リナだった。
「……嫌な感じはしない人だったね」
「そうなのよ」
ミアが言う。
「だから余計に面倒なの」
「でも言ってることは正しい」
恒一が言う。
ミアは少しだけ黙る。
それから、鍋を見る。
黒麦粥はまだ温かい。
でも、それだけでは足りない。
「……ねえ」
ミアが言った。
「何だ」
「うち、次は何を作るの」
「次?」
「朝粥の次」
「……」
「宿ごと勝て、って言われたでしょ」
「そうだな」
「だったら、朝だけじゃ足りない」
恒一は少しだけ笑った。
「やっと市場に出る顔になってきたな」
「うるさい」
ミアが答える。
「でも、そうね」
鍋の湯気が、まだ静かに立っている。
灰白亭の朝は確かに動き始めた。
けれど、それを宿の強さへ変えるには、まだ足りない。
そのことをベルノは市場の側から教えに来たのだった。




