【第12話】 塩ひとつまみの共有
昼の灰白亭は、久しぶりに静かだった。
朝の粥が終わり、客が引いたあと、食堂にはランプの光と食器の乾く匂いだけが残っている。
ミアは腕を組んで、厨房を見ていた。
正確には――
恒一の手元を見ている。
「……」
「……」
「……ねえ」
「なんだ」
「見てるの、バレてる?」
「かなり」
ミアはため息をついた。
「やっぱり」
恒一は苦香根を刻みながら言う。
「何か聞きたいなら聞け」
「うん」
ミアは少し迷ってから言った。
「……どうして同じ味になるの?」
包丁が止まる。
「同じ味?」
「朝粥」
ミアは鍋を指した。
「昨日も今日も、同じだった」
「そうだな」
「それって普通?」
恒一は少し考えた。
「普通じゃない」
「やっぱり」
ミアは頷く。
「私、前に何回も同じスープ作ろうとして」
「うん」
「全部違う味になった」
「だろうな」
「でもあんたのは、ほとんど同じ」
「……」
恒一は包丁を置いた。
そして言う。
「料理はな」
「うん」
「だいたい“勘”でやる」
「うん」
「でも宿の飯はそれだと困る」
ミアは少し目を細めた。
「どうして?」
「毎日客が来るから」
「……」
「今日はうまい」
「うん」
「明日はまずい」
「それは嫌」
「宿はそれで死ぬ」
ミアは静かに頷いた。
「だから」
恒一は鍋の塩壺を持ち上げた。
「量を決める」
「……」
「順番を決める」
「……」
「火加減も決める」
ミアは腕を組んだ。
「それ、全部覚えるの?」
「そう」
「大変ね」
「料理人はそれを十年くらいやる」
「……」
「だから俺は今それを短縮してる」
ミアは少し眉を上げた。
「どうやって?」
恒一は机の上の食材帳を指した。
「これ」
ミアは帳面を見る。
その上に立っている小さな精霊――イーリスも。
「便利帳面」
「言い方」
「でもそうでしょ」
イーリスが小さく言った。
「補助機構です」
「今それ言う?」
ミアが言う。
「重要です」
「可愛げがないのよ」
イーリスは少しだけ考えてから言った。
「努力します」
「努力って何するの」
「不明です」
恒一は思わず笑った。
ミアも少し吹き出す。
「……まあいいわ」
それから彼女は言った。
「じゃあ」
「うん」
「教えて」
恒一は少し驚いた。
「何を」
「朝粥」
ミアは真剣な顔で言う。
「私も作れるようになりたい」
厨房が少し静かになる。
「理由は?」
恒一が聞く。
ミアは即答した。
「宿だから」
「……」
「もしあんたがいなくなったら」
「うん」
「また終わる」
恒一は少し黙った。
それから頷く。
「正しい」
ミアは少し肩の力を抜いた。
「でしょ」
「じゃあ一つ教える」
「一つ?」
「全部は無理」
「けち」
「最初は塩」
ミアが首を傾げる。
「塩?」
恒一は塩壺を差し出した。
「これ」
ミアは少し指で取る。
「……普通」
「舐めてみろ」
「え」
「いいから」
ミアは少しだけ舐めた。
すぐ顔をしかめる。
「しょっぱい」
「それだけ?」
「ちょっと苦い」
「そう」
恒一は言った。
「この塩は雑味がある」
ミアは目を瞬く。
「雑味?」
「そのまま入れると味が荒くなる」
「……」
恒一は小鍋を出した。
少量の湯を入れる。
そこへ塩を落とす。
「こうする」
ミアが覗き込む。
塩が沈む。
濁る。
「見える?」
「下に沈んでる」
「不純物」
「……」
恒一は上澄みをすくう。
「これを使う」
ミアは少し黙った。
「そんな小さいことで変わるの?」
「かなり」
ミアは腕を組む。
「……」
それから言う。
「ちょっと悔しい」
「なんで」
「私、今までそのまま入れてた」
「みんなそうだ」
「じゃあ」
ミアは塩壺を見る。
「次からは?」
「湯で溶く」
「……」
ミアは頷いた。
「覚えた」
恒一は少し笑った。
「それが」
「うん」
「塩ひとつまみ」
ミアは塩壺を机に戻した。
「ねえ」
「なんだ」
「料理って」
「うん」
「こういうのが山ほどあるの?」
恒一は答える。
「そう」
「……」
ミアは少し黙った。
鍋。
包丁。
塩壺。
全部、自分の店の厨房にあるものだ。
でも今まで、それをちゃんと扱えた気はしない。
「……ねえ」
「うん」
「もし私が作って」
「うん」
「変な味になったらどうする?」
恒一は肩をすくめた。
「その時は俺が食う」
ミアは少し笑った。
「それ、ひどい」
「料理人の役得だ」
ミアは鍋を見た。
それから、小さく息を吐く。
「……じゃあ」
「うん」
「この宿、私も料理する」
恒一は頷いた。
「いい」
「ほんと?」
「かなり」
イーリスが小さく言った。
「共有は効率的です」
ミアはため息をつく。
「ほんと可愛げないわね」
「努力します」
「それさっき聞いた」
厨房に、また小さな笑いが落ちた。
灰白亭の鍋は、もう一人の手に少しだけ渡った。




