【第11話】 食材帳の精霊
朝の鍋が空になったあと、灰白亭にはひと息ついた静けさが落ちた。
ガドは「明日こそ正式に常連だな!」と勝手なことを言いながら出ていき、リナも壺を二つ抱えて市場へ戻っていった。旅人の男は粥を持って先に出た連れを追うらしく、礼を言って慌ただしく宿を出ていった。
食堂には、洗い待ちの器と、ぬるくなりかけた湯の匂いだけが残っている。
ミアは帳場で壺代の計算をしていた。
「……返却で一枚戻して、壺が戻らなかったらそのまま売り切り扱いで」
「うん」
「でも割れた状態で返ってきたらどうする?」
「使えるなら戻す。使えないなら半分返しとか」
「半分って面倒ね」
「商売はだいたいそうだ」
ミアが顔を上げる。
「最近ほんとにそればっかり」
「便利だからな」
恒一は苦香根を軽く洗いながら答えた。
朝食が軌道に乗り始めた今、夜の皿も少しずつ整えていきたい。朝だけでは宿にならないし、夜だけでは戻ってこない。その間を埋めるのが今の灰白亭の仕事だった。
苦香根を刻む。
土っぽい匂いが立つ。
でも、もう嫌な匂いには感じない。
出口を知った食材は、最初に触れた時とは違う顔をする。
食材帳が、机の端で静かにページをめくった。
――苦香根
――処理安定
――夜皿適性:高
――推奨:鳥脂少量、塩早め
「……相変わらず便利だな」
「だから何と話してるのよ」
「帳面」
「怖いわね」
「俺も最初はそう思った」
ミアは帳場から顔をしかめた。
「最初って、今もじゃなくて?」
「今は慣れた」
「慣れるのもどうかと思うわ」
恒一は少し笑って、食材帳へ手を伸ばした。
その時だった。
ページの中央に、今までと違う文字が浮かぶ。
――蓄積値が規定へ到達しました
――補助機能を一部開示します
「……は?」
「なによ」
「ちょっと待て」
「一人だけ先に待たないでよ」
恒一が手を置いた瞬間、帳面の表紙の上で淡い光がゆらいだ。
最初は湯気みたいだった。
白く、薄く、頼りない。
だがそれはすぐに輪郭を持ち始める。
小さい。
掌に乗るほど小さい、人の形に近い何か。
「うわっ」
恒一が思わず手を引く。
光は帳面の上へ、ぽす、と落ちるように着地した。
銀白色の髪。
透けるような体。
目だけ妙に落ち着いていて、小さな外套みたいなものをまとっている。
人に見えなくもない。
だが、人間ではないのも一目で分かった。
ミアが凍りつく。
「……なにあれ」
「見えてるのか!?」
「見えてるから聞いてるのよ!」
小さな存在は、帳面の上に立ったまま、恒一を見上げた。
そして、はっきりした声で言った。
「ようやく安定しました」
食堂が静まり返る。
恒一も、ミアも、一瞬完全に言葉を失った。
「……喋った」
ミアが絞り出す。
「喋ったな」
恒一も答える。
「喋れるのか」
「喋れます」
小さな存在は淡々と言う。
「補助機構ですので」
「補助機構」
恒一が聞き返す。
「何の」
「食材帳の」
「……」
「今まで表示だけでしたが、蓄積が進んだため、説明補助と記録管理を一部引き受けます」
ミアが恒一を見る。
「分かった?」
「半分くらい」
「私ゼロなんだけど」
小さな存在は少しだけ首を傾げた。
「理解速度には個体差があります」
「それ、今言う必要ある?」
ミアがむっとする。
恒一は帳面と光る存在を見比べた。
「お前、何なんだ」
「食材帳の補助精霊です」
「精霊」
ミアが言う。
「便宜上、その表現が近いです」
「便宜上って何よ」
「厳密に説明すると長くなります」
「もうすでに長いのよ」
小さな存在は、まったく動揺していなかった。
その落ち着き方が逆に少し怖い。
「名前は?」
「未設定です」
「未設定」
「はい。呼称が必要なら付与してください」
ミアがぽかんとする。
「それ、名前つけろってこと?」
「そう解釈して構いません」
恒一は少しだけ観察する。
銀白の髪。
透けるような光。
静かな水面みたいな揺れ方。
それから言った。
「……イーリス」
小さな存在が目を瞬く。
「なぜその名を?」
恒一は肩をすくめる。
「光の色が、それっぽかった」
「適当じゃない」
ミアが言う。
「でも悪くない」
恒一が答える。
小さな存在――イーリスは、ほんの一瞬だけ黙ってから、小さく頭を下げた。
「承認します」
「承認制なのか」
「重要です」
「面倒ね」
ミアが言う。
「ですが妥当です」
「腹立つわね、この子」
恒一は思わず笑った。
現れたばかりなのに、妙に会話が立つ。
たぶんこの精霊は、食材帳の延長なのだ。必要なことだけを言う。余計な感情は薄い。でも薄いなりに、性格のようなものはある。
「で」
恒一が言う。
「お前は何ができる」
イーリスはすぐに答えた。
「既記録食材の管理」
「うん」
「調理補助の精度向上」
「うん」
「再現工程の安定化」
「うん」
「および」
「および?」
イーリスは苦香根の方を見た。
「未処理食材の危険判定と、適正用途の絞り込みです」
恒一の目が少し細くなる。
それは大きい。
再現だけでも十分ありがたかった。
だが、出口の見極めが早くなるなら、市場での戦い方が変わる。
「じゃあ豆葉みたいなのも?」
ミアが聞く。
イーリスは頷いた。
「失敗率の高い食材を早期に切り分けられます」
「うわ、便利」
ミアが即答する。
「現時点では限定的ですが」
「限定的でも十分よ」
「ですが」
イーリスが少し間を置く。
「私は料理を代行しません」
「……」
「味を作るのは使用者です」
「そこはちゃんとしてるのね」
ミアが言う。
「重要です」
イーリスは淡々と答えた。
「補助は補助であるべきです」
恒一はその言葉に、妙に納得した。
たぶんそれでいい。
全部をやってくれるなら、料理じゃない。
今ある食材をちゃんと見て、正しい出口を探す。そこだけを支えてくれるなら、これは料理人の道具としてちょうどいい。
「ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「この子、宿の役に立つ?」
「かなり」
「即答ね」
「市場での無駄が減る」
ミアは腕を組んだ。
「それ、すごく大事」
「だろ」
「でも」
彼女はイーリスをじっと見る。
「ちょっと可愛くない」
「え」
恒一が聞き返す。
「可愛げがないのよ」
「そうか?」
「必要なことしか言わないじゃない」
「必要だからです」
イーリスが即答する。
ミアは指をさした。
「ほらね!」
「今のはお前が悪い気もする」
「どっちの味方なのよ」
「鍋の味方だな」
「一番ずるい答え!」
三人のやり取りに、食堂の空気が少しだけ緩んだ。
精霊が出てきたというのに、不思議と怖さは長引かなかった。
たぶんイーリスがあまりに実務的だからだろう。
「じゃあ」
恒一が言う。
「試してみるか」
「何を?」
ミアが聞く。
恒一は苦香根を少し持ち上げた。
「これの別の出口」
「え、今?」
「今」
「急ね」
「市場は待ってくれない」
「それはそう」
イーリスが静かに帳面の上へ立ったまま、文字を浮かべる。
――苦香根
――既知用途:夜皿
――派生候補:香味油、薄煮、乾燥保存
――推奨:香味油の試作
恒一とミアが同時に声を上げた。
「香味油?」
「乾燥保存?」
イーリスは落ち着いたままだった。
「出口は一つである必要がありません」
「……」
「一食材に複数用途があれば、仕入れの安定度が増します」
「それ」
ミアが言う。
「かなり商売っぽい」
「宿の継続に資するためです」
「言い方は腹立つけど、ありがたいのよね」
恒一は少し笑って、鍋を引き寄せた。
「じゃあ、やるか」
「やるのね」
「せっかく精霊まで出てきたんだ」
「それもそうか」
イーリスは小さく頷いた。
「記録を開始します」
食堂の灯りの中で、苦香根の新しい匂いが立ち始める。
灰白亭の鍋は、また一歩だけ先へ進もうとしていた。




