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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第10話】 常連が生まれる朝

翌朝、灰白亭の鍋は昨日より少しだけ早く火にかかっていた。


まだ外は薄暗い。

市場が本格的に動き出す前の、冷えた時間だ。


厨房には、黒麦と豆の匂いがもう立ち始めている。


ミアは器を並べながら、ちらちらと扉の方を見ていた。


「落ち着かないな」

 恒一が言う。


「誰のせいよ」


「俺か?」


「半分は」


「もう半分は?」


「鍋」


恒一は少し笑った。


鍋の中では、黒麦がゆっくり水を吸っている。

豆もほどけ始めていた。


昨日と同じ。

でも、昨日と同じにすることが一番難しい。


食材帳の文字が静かに浮かぶ。


――連続調理:安定

――撹拌頻度:中

――塩投入:現時点で適正


「……便利だな」


「また独り言?」


「まあな」


ミアは棚から壺を下ろした。


昨日見つけた分を洗い直したものだ。

全部きれいではないが、使えないほどでもない。


「今日は何人分?」

 彼女が聞く。


「昨日より少し多め」


「強気ね」


「昨日の分が流れるなら、足りない方が怖い」


ミアは少し考えてから頷いた。


「そうね」


それから、ぽつりと言う。


「……来るかな」


「来るよ」


「なんでそんなに言い切れるの」


「昨日、三人は戻る理由ができた」


「三人?」


「大男、リナ、旅人のどっちか」


「旅人は流れるって言ってたじゃない」


「流れる」

 恒一は頷く。

「でも、宿の朝を覚えた旅人は、出る前にもう一回食うことがある」


ミアは少し目を丸くした。


「そんなの分かるの?」


「経験だな」


「料理人の?」


「宿でも食ってた側の」


「……そういうの、急に人間っぽい」


「急に失礼だな」


その時、扉が開いた。


二人とも同時にそちらを見る。


入ってきたのは、あの大男だった。


昨日と同じように無遠慮に入ってきて、同じ席へどかりと座る。


「あるか」


「ある」

 恒一が答える。


「じゃあ二杯分」


「最初から二杯なの?」


ミアが呆れたように言う。


「昨日で分かった」

 大男は腕を組む。

「俺は一杯じゃ終わらん」


「常連候補ね」


「まだ候補なのかよ!」


「三日続いたら考える」


「条件が厳しい!」


そのやり取りに、恒一は少しだけ口元をゆるめた。


悪くない。


店にこういう声があるだけで、食堂の空気は少し柔らかくなる。


「名前、まだ聞いてなかったな」

 恒一が言う。


大男は少し意外そうな顔をした。


「おう?」

「毎回来るなら、呼び名が欲しい」

「それは常連扱いってことか?」

「候補だろ」

 ミアが言う。

「黙ってて」


大男は笑った。


「ガドだ」

「ガド?」

「荷運びしてる」

「なるほどな」

 恒一は頷く。

「腹が減る仕事だ」

「そういうことだ」


ミアが器を置く。


「はい、ガド。候補一号」


「候補が取れねぇなあ……」


ガドは文句を言いながらも、嬉しそうに湯気へ顔を寄せた。


そこへ、また扉が開く。


今度はリナだった。


今日は壺を二つ抱えている。


「おはよう」

 彼女が言う。


「増えてるわね」

 ミアが壺を見る。


「親方と、隣の爺さんと、あと私の分」


「自分の分も?」


「今朝、食べ損ねたら嫌だから」


「それ、かなりいい客だな」

 恒一が言う。


リナは少しだけ笑った。


「腹が減ると、人は面倒になるのよ」


「真理ね」

 ミアが言う。


「でしょ」


壺を受け取りながら、ミアは自然に聞いた。


「親方、気に入った?」


「かなり」

 リナが答える。

「“固い屋台のより、あっちの方が仕事前に楽だ”って」


恒一はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。


それだ、と思った。


うまい、だけでは弱い。

でも、仕事前に楽だは強い。


朝飯としての理由になっている。


「……ねえ」

 ミアが小声で言う。

「何だ」

「今の、かなり大きくない?」


「かなり大きい」


「だよね」


ミアは壺を並べながら、少しだけ笑った。


「なんか」

「うん」

「店っぽい」

「昨日も言ってたな」


「昨日は板がね」

 ミアが帳場の横を見る。

「今日は人が」


その言葉が落ちたところで、また扉が鳴る。


旅人の片割れだった。


昨日泊まった男の方だ。


「朝、まだやってるか」

「やってる」

 恒一が答える。


男は席へ着きながら言った。


「連れは先に出た」

「早いわね」

 ミアが言う。

「荷の都合でな」

「じゃあ一人分?」

「いや」

 男は少し迷ってから言った。

「持ち帰りを一つ」


ミアが目を瞬く。


「道中用?」


「そうだ」

 男は頷く。

「昨日食って思ったんだが、あれ、冷めても悪くなさそうだな」


恒一は少し笑った。


「昨日より少し固めにする」


「やっぱり変えるのか」


「持ち歩くならな」


男は感心したように息をついた。


「変な宿だな、ここ」


「褒めてる?」

 ミアが聞く。


「半分」

 旅人は笑う。

「でも、またこの街に寄るなら、朝はここに来ると思う」


ミアが、そこで少しだけ止まった。


昨日も似た言葉はあった。


でも今日は違う。


一度の思いつきじゃない。

朝の鍋が、ちゃんと人の予定に入り始めている。


それは宿にとって、かなり大きい。


「……ねえ、恒一」

 ミアが言う。


「何だ」


「これ、ほんとに始まってるね」


恒一は鍋の蓋を少し開けた。


湯気が立つ。

器が並ぶ。

壺が待っている。

名前のある客が座っている。


「始まってるな」


ミアは、しばらく食堂を見ていた。


ガドが食べる。

リナが壺を待つ。

旅人が道中用を頼む。


たったそれだけのことなのに、昨日までの灰白亭にはなかった景色だった。


「……常連って」

 彼女がぽつりと言う。


「うん」


「こうやって生まれるのね」


「だいたいな」


「もっと大げさなものかと思ってた」


「違う」


恒一は器へ粥をよそう。


「同じ時間に来て」

「うん」

「同じ席に座って」

「うん」

「同じものを頼む」

「……」

「それが何日か続いたら、もう常連だ」


ミアは少し黙ってから言った。


「単純ね」


「商売はだいたい単純だ」


「それ、便利な言葉ね」


「かなりな」


リナが壺を受け取りながら、何気なく言う。


「でもさ」

「何?」

 ミアが聞く。


「この宿、前より入りやすいよ」


ミアがきょとんとした。


「入りやすい?」


「うん」

 リナは頷く。

「前は、なんか冷えてた」


「……」


「今は、扉開けた時に匂いがある」

「……」

「あと、あんたが前より怒ってない」


「怒ってたの?」


「かなり」

 ガドが即答した。

「怖かったぞ」


「なんであんたが答えるのよ!」


「客観的事実だ!」


食堂に笑いが落ちる。


その中で、ミアだけが少し黙っていた。


入りやすい。

前より怒っていない。

扉を開けた時に匂いがある。


どれも、宿の娘としてはちゃんと受け取りたい言葉だった。


「……ねえ」

 彼女が恒一を見る。

「何だ」

「これ、帳面に書いとく」


「何を」


ミアは炭を取り、板の裏へ小さく書いた。


同じ人が、また来る


恒一はそれを見て、少しだけ笑った。


「いいな」

「ほんと?」

「かなり」

「最近そればっかりね」

「かなり便利だからな」


ガドが器を空にして言う。


「で、俺は?」

「何が」

 ミアが聞く。


「常連候補から昇格したか?」


ミアは少しだけ考えるふりをした。


「……明日も来たら」


「よし!」


「まだ候補だけどね」


「条件つきかよ!」


でも、その顔は笑っていた。


恒一は鍋を見た。


昨日まで、灰白亭の朝には何もなかった。

今日の朝には、名前があった。

ガド。

リナ。

まだ名も知らない旅人。


この違いは大きい。


宿は、客の数だけで立つわけじゃない。

戻ってくる顔があるかどうかで立つ。


その最初の一歩が、今ようやく見えた。

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