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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第1話】 異世界で空腹死しかけた俺

~あらすじ~


独立目前で心が折れた料理人・志波恒一は、気づけば見知らぬ石畳の街で倒れていた。


剣も魔法もない。

与えられたのは、食材の性質を記録し、理解したものだけを再現できる不思議なスキル――『食材帳』。


空腹のまま迷い込んだのは、客も笑顔も消えた潰れかけの宿《灰白亭》。

そこで出された冷えたスープをひと口飲んだ瞬間、恒一は決める。


「……この宿、俺が立て直す」


高級料理でも、派手な奇跡でもない。

安くても、温かくて、明日も食べたくなる飯を。


これは、ひと皿の湯気から始まる

異世界の食卓再生記。

腹が減ると、人はろくなことを考えない。


志波恒一は、石畳の路地に膝をつきながら、ぼんやりそんなことを思っていた。


目の前にあるのは、見知らぬ石造りの壁。

鼻の奥に残るのは、煤と獣脂の匂い。

ついさっきまでいたはずの駅前も、濡れたアスファルトも、終電後のコンビニの白い明かりも、どこにもない。


知らない街だった。


しかも、たぶん日本ではない。


「……夢にしては、腹が減りすぎてるな」


喉がひりついて、声はひどくかすれた。


最後の記憶は、閉店後の厨房だ。

洗い場に積まれた鍋。

開きかけの独立計画書。

返せていない連絡の並ぶスマホ画面。


自分の店を持つはずだった。

そのために何年も働いて、積み上げて、ようやく手が届きかけていた。


それなのに、ある瞬間、ぷつりと糸が切れた。


明日の仕込みも、数字も、人の期待も、何も考えたくなくなった。

もう二度と厨房には立たない。

そんな投げやりなことを思ったところまでは覚えている。


その先がない。


気づけば、この路地で倒れていた。


ぐう、と腹が鳴る。

笑えるくらい、はっきりと。


通りを人影が横切る。

誰も助けない。

当然だと思う。今の自分は、どう見ても厄介ごとだった。


その時だった。


「……あんた、生きてる?」


頭の上から、若い女の声が降ってきた。


恒一が顔を上げると、少女が立っていた。


年の頃は十七、八。

焦げ茶の髪を一つに束ね、使い込まれたエプロンをつけている。細い体つきなのに、目つきだけは妙に強い。


「たぶん」


「たぶんじゃ困るのよ。ここで死なれると面倒なの」


少女はため息をつき、恒一を上から下まで見た。


「働ける?」


「今は無理」


「金は?」


「ない」


「最悪ね」


「そうだな」


少女は少しだけ迷ってから、通りの向こうを顎でしゃくった。


「……うち、宿なの。残り物のスープくらいならある。食べたら、そこで倒れないで」


「いいのか」


「貸し。食い逃げしたら呪うわよ」


少女が立ち止まった建物は、宿というにはくたびれていた。


古びた看板に、かすれた文字で《灰白亭》とある。


中へ入った瞬間、恒一の中の料理人が告げた。


――死んでるな、この店。


客はいない。

いや、隅の席に大柄な男が一人、ぬるい酒を舐めているだけだ。


「ミア、お客か?」


「違う。路地に転がってたのを拾ったの」


ミアと呼ばれた少女は厨房へ引っ込み、すぐに木の器を持って戻ってきた。


「はい」


差し出されたスープは、ひどかった。


灰色がかり、湯気はほとんどない。

刻んだつもりらしい根菜は煮崩れ、水っぽい匂いが先に鼻につく。


恒一は一口すすって、目を閉じた。


「どう?」


「率直に言っていいか」


「今さら遠慮されても困るわ」


「ひどい」


ミアはあっさり頷いた。


「……でしょうね」


その声の奥に、隠しきれない疲れがあった。


恒一は器を見下ろしたまま言う。


「材料が悪いんじゃない。順番と塩だ。火も足りない。たぶん昨日の残りを水で伸ばしただろ」


「腹ぺこで倒れてたくせに、生意気ね」


「味で分かる」


店内を見回す。


空席だらけの卓。

壁際に積まれた使わない椅子。

古いが、投げ出された感じはしない床と器。


掃除はされている。


つまり、諦めてはいない。


なのに飯だけが死んでいる。


それが一番まずい。

そして一番、立て直せる場所でもある。


「厨房、見せてくれ」


「え?」


「俺が作り直す」


その瞬間、ミアの表情が変わった。


彼女は椅子を蹴るように立ち上がり、厨房の入口を塞ぐように立ちはだかる。


「……ふざけないで。助けたからって、土足で入っていい場所じゃないわ。ここは私の店よ」


「今日で潰れる店だろう」


「……っ」


ミアの喉がひきつる。


「たとえ明日潰れるとしても、ここはフェリス家の厨房よ! 素人に汚させてたまるもんですか!」


その声は怒っていた。

でも本当は、怒りより先に必死さがあった。


守ろうとしているのだ。

潰れかけでも、自分の店を。


恒一は彼女の目をまっすぐ見た。


「素人じゃない。俺は、人生のほとんどを板の前で過ごしてきた」


それでも足りない気がして、彼はミアの横にあった使い古しのお玉を指した。


「そのお玉の先だけ、脂ぎった煤がついてる。焦がすのを怖がって火を弱めすぎた証拠だ。だから香りが立たない。灰色の味になる」


ミアが、ぴたりと止まった。


図星だったのだろう。


しばらくの沈黙のあと、彼女は唇を噛んで言った。


「……一回だけよ。変なことしたら、本当に呪うから」


「分かった」


ミアが横へ退く。


厨房へ入った瞬間、恒一の背筋はわずかに伸びた。


狭い。古い。

だが火口はまだ生きている。

鍋も包丁も、傷だらけの棚も、まだ終わった顔をしていなかった。


その時だった。


視界の端で、淡い光が揺れた。


棚の上に、さっきまでなかったはずの焦げ茶の手帳がある。


恒一が手を伸ばすと、それは吸い寄せられるように掌へ収まった。

白紙のページに、じわりと文字が浮かぶ。


『――食材を記録しますか?』


【対象:アニオン(玉ねぎ似)/水分多/加熱で甘味上昇】


「……は?」


意味が分からない。


だが、驚いている暇もなかった。

腹は減っている。

店は死にかけている。

目の前には、必死に立っている宿の娘がいる。


今さら異常が一つ増えたところで、大差ない。


それに。


手帳を握った瞬間、食材の輪郭が妙に鮮明になった。


水を抱えやすいもの。

熱で香りが伸びるもの。

煮すぎると死ぬもの。


これは何かを生み出す力じゃない。


今ある食材をちゃんと見るための帳面だ。


「ミア、火を貸せ」


「え?」


「焦がすのを怖がるな。旨味は火の中にしかない」


ミアが、ほんの少しだけ目を見開く。


「……顔つき、変わったわね」


「仕事だからな」


自分で言って、恒一が一番驚いた。


もう終わったと思っていた。

もう二度と、こういう顔はしないと思っていた。


けれど鍋の前に立つと、体が勝手に順番を思い出す。


油を落とす。

じゅわ、と音が鳴る。


その音だけで、胸の奥に火がついた。


アニオンを入れる。

甘味が立つ前に水を当てない。

香りが変わる瞬間を待つ。

次を入れる。

火を泳がせず、鍋の底で旨味を起こす。


ミアは、さっきまでと違う目でその背中を見ていた。


不安そうで、悔しそうで、でも少しだけ期待している目だ。


やがて鍋から立ち上ったのは、さっきとはまるで違う匂いだった。


灰色じゃない。


琥珀色のスープだった。


ミアが恐る恐る匙を運ぶ。


ひと口。


そして次の瞬間、その目からぽろりと涙が落ちた。


「……おいしい」


小さな声だった。


けれど、死にかけていた食堂には十分すぎるほど響いた。


「あったかい……」


恒一はエプロンで手を拭き、彼女へ向き直る。


「俺は志波恒一。コウイチでいい」


ミアは涙を拭い、強がるように胸を張った。


「……ミア。ミア・フェリス。この《灰白亭》のオーナーよ」


その言い方に、恒一は少しだけ口元をゆるめた。


「いい名前だ」


それから、店内を改めて見回す。


磨かれた卓。

古い椅子。

冷えた暖炉。

客のいない食堂。


死にかけている。

だが、まだ息はある。


そして今、ここには湯気が立っていた。


恒一は静かに言った。


「ミア」


「何よ」


「この宿、俺が立て直してやる」


ミアは息を呑み、何も言わなかった。


ただ、さっきまで死んだように冷えていた食堂の真ん中で、琥珀色のスープだけが静かに湯気を上げていた。

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